小牧・長久手の戦いと晩年とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 小牧・長久手の戦いと晩年の意味・解説 

小牧・長久手の戦いと晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 04:44 UTC 版)

滝川一益」の記事における「小牧・長久手の戦いと晩年」の解説

天正12年1584年)、今度織田信雄徳川家康と共に秀吉兵を挙げた小牧・長久手の戦い)。一益の婿である滝川雄利は信雄の家老務めていたが、一益は秀吉隠居から呼び戻され今回秀吉となった。この戦いで一益は、信雄方の九鬼嘉隆前田長定調略し、6月16日伊勢白子浦から蟹江浦に3千人の兵を揚陸先に没収され蟹江城から信雄方の佐久間信辰追放し、更に、下市場城、前田城を占拠した当時蟹江城は海に面しており、織田信雄長島城徳川家康清洲城中間位置する重要拠点であった。しかし、山口重政の守る大野城攻略には失敗し家康と信雄の主力下市場城、前田城を奪還され、蟹江城包囲されてしまう。一益は、開城交渉含め半月以上粘ったが力尽き7月3日開城した。しかし、退去中に攻撃され前田長定討ち取られ、一益は命からがら船で伊勢逃れている(蟹江城合戦)。 羽柴秀吉は、伊勢羽柴秀長丹羽長重堀秀政ら6万2千の兵を集めて7月15日尾張西側から総攻撃計画していたが、間に合わず中止となった(『浅野家文書』)。 7月12日以前からの約定により秀吉から次男一時に1万2千石与えられ自身にも3千石与えられたが、嫡男一忠敗戦責任を負わされ追放羽柴秀長身柄預けられた。同年11月滝川雄利は一益を通じて秀吉接近し、信雄との和平纏めている。 一益は天徳寺宝衍山上道及と共に秀吉東国外交担っており、天正12年1584年6月秀吉から佐竹義重沼尻の合戦参戦中)への返書添状天正13年1585年11月梶原政景への書状にて、秀吉による小田原征伐予告している。彼らの活動は、その後北条氏にとって不利に働いた考えられる天正14年1586年9月9日越前大野にて死去享年62と云われる。

※この「小牧・長久手の戦いと晩年」の解説は、「滝川一益」の解説の一部です。
「小牧・長久手の戦いと晩年」を含む「滝川一益」の記事については、「滝川一益」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「小牧・長久手の戦いと晩年」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「小牧・長久手の戦いと晩年」の関連用語

小牧・長久手の戦いと晩年のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



小牧・長久手の戦いと晩年のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの滝川一益 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS