滝川雄利
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/16 10:13 UTC 版)
滝川 雄利(たきがわ かつとし)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。伊勢神戸城主、のち常陸片野藩初代藩主。
注釈
- ^ 柘植三郎兵衛は北畠氏の家臣とされるが未詳。よく似た名前の人物として雄利とともに木造具政を織田方に寝返らせた柘植三郎左衛門尉がいる。
- ^ 『系図纂要』の刊本も『藩翰譜』と同様に雄利を木造俊茂の子としている[6]。
- ^ 以下、織田政権期の経歴についての多くの情報は『勢州軍記』による。
- ^ 友忠(ともただ)とも読まれる。なお、『寛政重修諸家譜』は初名を雅利(まさとし)とする。頻繁に名を改めたと見られ、別名として一盛(かずもり)も伝わる[8][9]。
- ^ 『勢州軍記』によれば、雄利は策をもって具教の近習を寝返らせ、太刀を抜けないように細工しておいたという[11]。
- ^ 『伊乱記』によると、比自岐(ひじき)あたりで伊賀衆と合戦になり、雄利の軍勢は谷底へ追い詰められたが、雄利は地形をよく把握していたので、自ら鑓をとって反撃に転じ伊賀衆に攻めあぐねさせ、ついに夜間のうちに抜け出して無事に松ヶ島城に帰還した。雄利の兵も戦意をなくしたように見せかけて逃亡したので、これを見た伊賀衆らは「雄利を討ち取った」と喜んだ、という[12]。
- ^ 織田信雄の偏諱による名は雄親(かつちか)とされることもある。
- ^ 『寛政重修諸家譜』の滝川氏家譜では雄利は織田信雄改易後に秀吉に属して伊勢国神戸城2万石を与えられたとするが、同書の水野氏家譜では三河国刈谷城主水野忠重が天正18年(1590年)に織田信雄改易後の伊勢国神戸城4万石に移され、文禄3年(1594年)に旧領刈谷に戻されたとしており[21]、矛盾している。水野氏が神戸に一時的に移封されたとすれば、滝川雄利のその間の所領とがどこにあったかは不詳。
- ^ 秀次事件の連座により一時失領したとする資料もある[18]。
- ^ 小瀬甫庵の『太閤記』によれば、慶長3年(1598年)の秀吉の死に際して御咄衆として遺物金の分与を受け、15両を拝領した[22]。
出典
- ^ 『寛永諸家系図伝』第13、続群書類従完成会、1990年、212頁.
- ^ 『寛永諸家系図伝』第13、 続群書類従完成会、1990年、236頁.
- ^ 『寛永諸家系図伝』第12、 続群書類従完成会、1988年、 224頁.
- ^ a b c d e 『寛政重脩諸家譜. 第3輯』國民圖書、1923年、424頁.
- ^ 『藩翰譜 : 12巻 巻七』吉川半七、1896年、44丁表.
- ^ 『系図纂要』第9冊上、名著出版、1991年、164頁.
- ^ 阿部猛・ 西村圭子編『戦国人名事典』新人物往来社、1987年、476頁.
- ^ a b c d e 谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』吉川弘文館、2010年、265-266頁.
- ^ a b c d e f 黒田基樹『羽柴を名乗った人々』KADOKAWA、2016年、150-153頁.
- ^ a b 「大猷院殿御実紀」巻21. 寛永2年11月7日条(『徳川実紀. 第貳編』経済雑誌社, 1904, 271頁.)
- ^ a b c d e f g h 「勢州軍記」上・下『続群書類従 第21輯ノ上 合戦部』続群書類従完成会, 1923, 1-72頁.
- ^ 『伊乱記』摘翠書院、1897、巻2、3丁裏-4丁表.
- ^ 桑田忠親校注『信長公記』新人物往来社、 1997年、339頁.
- ^ 谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』吉川弘文館、2010年、114頁.
- ^ 「諸国廃城考」『日本城郭史料集』人物往来社、1968年、34頁.
- ^ 文化財調査会編『日本の名城』人物往来社、1959年、140頁.
- ^ 「勢州兵乱記」『史籍集覧』第25冊、1902年、 595頁.
- ^ a b c 小和田哲男「滝川雄利」『朝日日本歴史人物事典』(コトバンク)
- ^ 「宗湛日記」『福岡県史資料 第5輯』福岡県、1935、192頁.
- ^ 「天正記」『戦国史料叢書 第1』人物往来社、1965年、144頁.
- ^ 『寛政重脩諸家譜. 第2輯』國民圖書、1923年、825頁.
- ^ 「太閤記」『史籍集覧 第6冊 第6冊 通記類』近藤出版部、1919年、470頁.
- ^ 増補京都叢書刊行会編『亰都叢書 第16 増補』増補京都叢書刊行会、1935年、438頁.
- ^ 小川恭一『寛政譜以降旗本家百科事典』第3巻、東洋書林、1997年、1611頁.
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