徳川家康とは?

とくがわいえやす とくがはいへやす 【徳川家康】 ○

(1542~1616) 江戸幕府初代将軍1603~1605)。三河岡崎城松平広忠長男幼名竹千代,のち元信元康家康改めた。はじめ今川義元,のち織田信長と結び東海勢力拡大信長とともに甲斐武田氏を滅ぼす。豊臣秀吉天下統一後はこれに協力関八州与えられ,1590年江戸入府関ヶ原の戦勝を経て1603年征夷大将軍となり,江戸開幕将軍職を譲った後も大御所として実権握り大坂冬・夏の陣で豊臣氏を滅ぼし,統一完成した。

徳川家康

作者森銑三

収載図書徳川家康
出版社個人
刊行年月1991.3
シリーズ名森銑三紀念文庫


徳川家康

作者大栗丹後

収載図書戦国武将まんだら秘本三十人伝
出版社春陽堂書店
刊行年月1999.8
シリーズ名春陽文庫


徳川家康

作者阿井渉介

収載図書大江戸ひっくり返史―露八史観
出版社河出書房新社
刊行年月2007.3


徳川家康

作者海音寺潮五郎

収載図書武将列伝 戦国爛熟新装
出版社文藝春秋
刊行年月2008.5
シリーズ名文春文庫


徳川家康

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/09/16 11:24 UTC 版)

徳川 家康(とくがわ いえやす) / 松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将戦国大名[1]江戸幕府の初代征夷大将軍[1]三英傑の一人。




  1. ^ 家康の名は、源義家に由来するとも、伊東法師という人物が書経の中の句「家用平康」(家を用って平らかに康し)から命名したともいわれる。
  2. ^ 細川氏嫡流の当主は管領の地位に就くとともに代々右京大夫に任じられたことから「京兆家」と称されていた。これに対して管領を支える盟友的存在の守護大名が左京大夫に任じられており、足利義澄細川政元期の赤松政則足利義稙細川高国期の大内義興足利義晴細川晴元期の六角義賢がこれに該当する。
  3. ^ なお、武田氏は友好的関係にある織田信長を通じて信長の同盟相手である家康に武田との協調再考を持ちかけているが家康はこれを退けており、家康は信長からも独立した立場であったと考えられている。
  4. ^ 元亀年間の武田氏による織田・徳川領国侵攻の経緯については西上作戦を参照。なお、これを遡る元亀2年4月には武田氏による三河・遠江への大規模な侵攻があったとされているが、近年は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは天正3年の出来事であったことが指摘されている(鴨川達夫『武田信玄と勝頼』)。
  5. ^ 小説家の伊東潤は、「御館の乱での立ち回りによる甲相同盟の破綻と、高天神城に後詰を送らなかったことが武田氏滅亡の最大の原因であり、長篠の戦いでの敗北はそれに比べれば小さなものである」と主張している。
  6. ^ 穴山信君は武田親族衆で、織田・徳川連合軍の甲斐侵攻に際して投降し信長から河内・江尻領を安堵されているが、本能寺の変に際して上方で死去している。信君には遺児勝千代がおり、本能寺後に甲斐を確保した家康は河内・江尻領を安堵しているが勝千代も天正15年6月に死去し、勝千代生母の見性院は家康五男の万千代(武田信吉)を養子に迎えて穴山氏(武田氏)の存続が図られている。
  7. ^ 合戦の詳細な経緯については小牧・長久手の戦いを参照。なお、小牧・長久手合戦に関する総論は藤田達生編『小牧・長久手の戦いの構造』岩田書院、2006)
  8. ^ ルイス・フロイスによると、オルガンティーノ1588年5月6日付の書簡で、「坂東の戦は、七月にはすでに(挙行される)と言い触らされており、坂東の北条殿(の領地)が家康の領国に(加えられることに)なっていますから、それも暴君(秀吉)にとっては喜ばしいことではありません」と書いている。フロイス『日本史』第63章。ただし、1588年には結局出兵は無く、2年後に持ち越しとなった。
  9. ^ 阿部能久 『戦国期関東公方の研究』 思文閣、2006年、198-274頁(喜連川家の誕生)では、鎌倉幕府の成立以来西国政権が東国を一元支配した例は無く、古河公方の断絶とともに機能停止していた室町幕府の関東府と同様の役割を東国に通じた家康によって担わせようとしたと推測している。なお、阿部は笠谷和比古の天正16年(1588年)に家康が源氏姓を公称した説に関連して、同年は足利義昭が正式に征夷大将軍を辞任した年であり、家康が将来の「徳川将軍体制」を見越して源氏改姓をしたのを秀吉は認識しつつそれを逆手に取って関東地方を治めさせたと捉え、更に清和源氏の正統な末裔である足利氏の生き残りと言える喜連川家に古河公方を再興させることで、家康と喜連川家+佐竹氏など関東諸大名との間に一定の緊張関係をもたらすことで家康の野心を封じ込めようとしたと推測する。
  10. ^ 井伊直政・本多忠勝・榊原康政の知行割に関しては川田貞夫が豊臣政権によって配置・石高を指定されたとする説を唱えて、以後通説となっている。ただし、川田が主張した鳥居元忠・大久保忠世にも適用されたとする考えには、通説を支持する学者の間でもこれは認めないとする市村高男らの反論(井伊・本多・榊原家のみとする)がある。なお、こうした豊臣政権の大名家内部の知行割に対する関与自体は、上杉家における直江兼続の事例などがあり徳川家に限ったことではなかった。(『国史大辞典』吉川弘文館。平野明夫「関東領有期徳川氏家臣と豊臣政権」(所収:佐藤博信 編『中世東国の政治構造 中世東国論:上』(岩田書院、2007年) ISBN 978-4-87294-472-3))
  11. ^ 常山紀談』には、本多正信の「殿は渡海なされますか」との問いに家康が「箱根を誰に守らせるのか」と答えたエピソードが書かれている
  12. ^ なお出典の定かでない話ではあるが、これに先立ち、伊尾川(現・揖斐川)で家康自身が銃撃されたという伝承もあるという。詳しくは神戸町の項を参照のこと
  13. ^ 家康はこの時期、主筋である豊臣氏を滅ぼすことの是非を林羅山に諮問しているともいわれるが[22]、この時期の林羅山は家康に対して、そのような大きな発言権はないとする近年研究もある[23]
  14. ^ 『摂戦実録』によれば、撰文をした文英清韓は「国家安康と申し候は、御名乗りの字をかくし題にいれ、縁語をとりて申す也」と弁明し、家康のを「かくし題」とした意識的な撰文であると認め、五山の僧の答申はいずれも諱を避けなかったことについて問題視したという[22][24]
  15. ^ で評判になっている目新しい料理として茶屋四郎次郎清次が紹介し、田中城(現・静岡県藤枝市)にて供したもので、家康はいたく気に入り、日頃の節制を忘れて大食いに到り、大鯛2枚・甘鯛3枚を平らげたと伝えられる。なお、「天ぷら」とは呼ばれているが、衣は無く、実際はから揚げに近い。cf. 天ぷら#逸話
  16. ^ 江戸城内に限った話ではなく、それ以外の建物内においても、天ぷらは火災予防のため忌避され、専ら屋台で料理される時代が太平洋戦争まで続いた[25]
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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 尾藤正英「徳川家康」『国史大辞典吉川弘文館
  2. ^ 「徳川幕府家譜」、「三河物語」より。
  3. ^ 松平広忠の嫡男である竹千代を人質にとった処遇は、今川氏による松平氏に対する過酷な処遇であるというのが通説である。しかし近年、むしろ今川義元の厚意(もちろん義元の側の思惑もあるが)によるものだという説もある。「義元は雪斎を岡崎に送って動揺する岡崎衆を掌握させ、信秀に奪われた唯一の家督継承者、竹千代の奪還を命じた。西三河最大の今川与党であり、十数年にわたって義元への忠節を貫いてきた岡崎松平家は、他の松平党から当主を迎えさせるには惜しい存在だったからである。(中略)竹千代の家督を保証した上で今川家の準一門として遇し、その自覚をもたせて送り返すことによって、松平党への統制を今川家の馬廻衆並みに強化しようと考えたのである。(中略)こうした義元の思惑から、人質として苦労したことになっている竹千代は、雪斎の庇護下で一門並の厚遇を受け、徹底した教育を受けて成長する。」(歴史群像2002年8月号 今川義元一代記)
  4. ^ 武徳編年集成』によると今川家の家臣の中でも岡部家は息子(岡部正綱)が同年齢の家康と仲良くなったことから、家康に極めて好意的かつ協力的であったようである。後に岡部正綱は家康の家臣となり、甲州制圧作戦でその外交手腕を発揮することになる。
  5. ^ なお、この駿府人質時代に北条氏規も駿府で人質となっていたため、この頃から二人に親交があったとする説があり、『大日本史料』などはこの説を載せている。また『駿国雑誌』(19世紀前期の駿河国の地誌、阿部正信著)では、住居が隣同士だったとも伝えている。後に後北条氏と同盟を結んだ際に氏規はその交わりの窓口となった。氏規の系統は、狭山藩として小藩ながらも明治時代まで存続した。
  6. ^ 木下聡『中世武家官位の研究』吉川弘文館、2011年、pp114-116、 ISBN 978-4-642-02904-9
  7. ^ 典厩五郎『家康、封印された過去』PHP研究所、1998年。
  8. ^ 盛本昌広『松平家忠日記』、角川選書、1999年、pp26-28。
  9. ^ 谷口克広『信長と消えた家臣たち』中公新書、2007年、pp200-211。
  10. ^ a b 『駿河土産』
  11. ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社、2000年。同「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例」『駒沢史学』80号、2013年。
  12. ^ 村川前掲著書・論文。
  13. ^ a b 戦國遺文 後北條氏編 第五巻』 「○四五三四 徳川家康起請文 ○鰐淵寺文書」 p.302
  14. ^ a b 小和田哲男『駿府の大御所 徳川家康』(静新新書・2007年)
  15. ^ 高沢裕一「前田利長」『国史大辞典』吉川弘文館。
  16. ^ 村川前掲論文。
  17. ^ なお、近年の研究(笠谷和比古、煎本増夫ら)によると、家康が本姓源氏だと称したのはこれよりはるか前の天正16年(1588年)であるという。後陽成天皇聚楽第行幸に際して提出した誓紙に家康が「大納言源家康」と署名しているためである。他に天正19年(1591年)、家康が相模国寺社に出した朱印状にも「大納言源朝臣家康」と記された書判もあり、これらのことから笠谷らは「豊臣政権下で家康はすでに源氏の公称を許されていた」と述べている。家康が今川支配を離れ三河に帰還した際の所領安堵状にも「源家康」と署名されており、少なくとも父・広忠か祖父・清康の時代にはすでに源氏を名乗っていた可能性が高い。なお、家康は松平姓から(勅許を得て)徳川姓に改姓した際に、「三河守の任官には藤原氏を称する必要がある」との近衛前久の勧めにより本姓を藤原氏と公称していた。また、清和源氏の出自でなくとも将軍職への就任には問題がなく、過去には摂家将軍皇族将軍の例もあり、将軍になるには清和源氏でなければならないというのは江戸時代に作られた俗説である。
  18. ^ 徳川家康征夷大将軍補任の宣旨(日光東照宮文書、壬生家四巻之日記) 内大臣源朝臣 左中辨藤原朝臣光廣傳宣、權大納言藤原朝臣兼勝宣、 奉 勅、件人宜爲征夷大將軍者 慶長八年二月十二日 中務大輔兼右大史算博士小槻宿禰孝亮奉 (訓読文) 内大臣源朝臣(徳川家康、正二位) 左中弁藤原朝臣光広(烏丸光広、正四位上・蔵人頭兼帯)伝へ宣(の)る、権大納言藤原朝臣兼勝(広橋兼勝、正二位)宣(の)る、 勅(みことのり)を奉(うけたまは)るに、件人(くだんのひと)宜しく征夷大将軍に為すべし者(てへり) 慶長8年(1603年)2月12日 中務大輔右大史算博士小槻宿禰孝亮(壬生孝亮、従五位下)奉(うけたまは)る ※同日、右大臣に転任し、源氏長者、牛車乗車宮中出入許可、兵仗随身、淳和奨学両院別当の宣旨も賜う。
  19. ^ 村川前掲論文P120・121。
  20. ^ 村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例」『駒沢史学』80号、2013年、117頁。
  21. ^ 村川前掲論文、118頁。
  22. ^ a b c d e f 笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣』pp204-215
  23. ^ a b c d e 渡邊大門『大坂落城』p68-82
  24. ^ ただし『摂戦実録』の成立年代は江戸時代・1752年である。[[1]]
  25. ^ 亭主の寸話38 『てんぷら店の移り変わり』
  26. ^ a b 1582年10月4日以前はユリウス暦、それ以降はグレゴリオ暦。日付は宣明暦長暦。
  27. ^ 徳川義宣「一連の徳川家康の偽筆と日課念仏-偽作者を周る人々」『金鯱叢書 第8輯』所収
  28. ^ 秀吉を迎えた家康府中御殿 家康は、将軍即位後も鷹狩や鮎漁の際に、頻繁に府中御殿に滞在
  29. ^ 第70期名人戦前夜祭の模様日本将棋連盟オフィシャルサイト
  30. ^ 前者は個人蔵(画像)。後者は東京国立博物館蔵(e国宝に画像と解説あり
  31. ^ 『久能山東照宮博物館一〇〇選』図録、1995年
  32. ^ 特別展 江戸を開いた天下人 徳川家康の遺愛品 伝世品でみる家康の文化的側面』展図録20頁、三井記念美術館、2010年
  33. ^ 『家康の遺産 駿府御分物』展図録、徳川美術館、1992年
  34. ^ 『慶長記』
  35. ^ 徳川義宣 「家康の書 現はれた新たな人間像」(徳川黎明会 五島美術館 発行・編集 『家康の書と遺品』、1983年、所収)。
  36. ^ 『葉隠覚書』
  37. ^ 『渡辺幸庵対話』
  38. ^ 『膾餘雑録』
  39. ^ 『翁草』
  40. ^ 『正武将感状記』
  41. ^ 『明良洪範』
  42. ^ 『前橋旧聞覚書』、『見聞集』
  43. ^ 『老人雑話』
  44. ^ 将軍の肖像画、下絵はリアル 徳川宗家に伝来、研究進む:朝日新聞2012年8月8日
  45. ^ 鶴は千年、亀は萬年。2012年8月8日付
  46. ^ 『完訳フロイス日本史4 秀吉の天下統一と高山右近の追放』第12章より
  47. ^ 樋口清之監修・丹羽基二著 『姓氏』 秋田書店、1970年。
  48. ^ 新井白石の『藩翰譜』など。
  49. ^ 中には福島家のような取り潰され方をした大名もあり、徳川政権の安定を優先させていたと思われる。
  50. ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』2000年
  51. ^ 1585年の石川数正の寝返りにより、様々な制度を改めざるを得なくなったという事情もある。
  52. ^ 自分と境遇の似た頼朝に親近感を抱き、尊敬していたとも推測されている。
  53. ^ 『三河物語』
  54. ^ 上場顕雄『教如上人-その生涯と事績-』東本願寺出版部
  55. ^ 『柳営婦女伝系』(『徳川諸家系譜』第1巻 続群書類従完成会)の長勝院(小督局)の項に結城秀康が双子であった事が記載されており、また、高野山にある小督局の墓には永見貞愛の名も刻まれている。(秋元茂陽 『徳川将軍家墓碑総覧』星雲社、2008年)。
  56. ^ a b c 『幕府祚胤伝』(『徳川諸家系譜』第2巻、続群書類従完成会)
  57. ^ 国宝・彦根城築城400年祭 列伝井伊家十四代 第6回 鬼を継ぐ夜叉~井伊直孝 其の壱~
  58. ^ 徳川実紀』に落胤説があったとの記述がある。
  59. ^ 『後藤庄三郎由緒書』、寛政10年(1798年)頃の史料なので信憑性には疑問がある。
  60. ^ 日光山輪王寺所蔵にある重要文化財の守り袋より
  61. ^ 野村玄によれば、当時国内では寛永飢饉、国外では交替と鎖国令に伴うポルトガルの報復の可能性によって江戸幕府は緊迫した状況にあり、将軍であった徳川家光は単なる家康への崇敬のみならず、元寇の時の風宮改号の故事を先例として東照社を東照宮と改号して「敵国降伏」を祈願したとする(野村玄『日本近世国家の確立と天皇』清文堂、2006年、P38-45)。







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