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徳川家康
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/07 15:43 UTC 版)
(東照大権現 から転送)
徳川 家康(とくがわ いえやす) / 松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。
本姓は、先に藤原氏、次いで源氏を称した。家系は、三河国の国人土豪・松平氏。永禄9年12月29日(1567年2月8日ユリウス暦による。)に勅許を得て、徳川氏に改姓。通称は次郎三郎。幼名は竹千代。
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- ^ 必ずしも足利将軍家の歴代がこれらの官職に就任したわけではない。
- ^ 「義元は雪斎を岡崎に送って動揺する岡崎衆を掌握させ、信秀に奪われた唯一の家督継承者、竹千代の奪還を命じた。西三河最大の今川与党であり、十数年にわたって義元への忠節を貫いてきた岡崎松平家は、他の松平党から当主を迎えさせるには惜しい存在だったからである。(中略)竹千代の家督を保証した上で今川家の準一門として遇し、その自覚をもたせて送り返すことによって、松平党への統制を今川家の馬廻衆並みに強化しようと考えたのである。(中略)こうした義元の思惑から、人質として苦労したことになっている竹千代は、雪斎の庇護下で一門並の厚遇を受け、徹底した教育を受けて成長する。」歴史群像2002年8月号 今川義元一代記
- ^ ただし竹千代が孕石元泰から受けた虐めは、鷹狩に関しての諍いが原因である。鷹狩が許される立場にあった事は、竹千代が今川家で厚遇された証拠でもある。
- ^ 家康の名は、源義家に由来するとも、伊東法師という人物が書経の中の句「家用平康」(家を用って平らかに康し)から命名したともいわれる。
- ^ なお、武田氏は友好的関係にある織田信長を通じて信長の同盟相手である家康に武田との協調再考を持ちかけているが家康はこれを退けており、家康は信長からも独立した立場であったと考えられている。
- ^ 元亀年間の武田氏による織田・徳川領国侵攻の経緯については西上作戦を参照。なお、これを遡る元亀2年4月には武田氏による三河・遠江への大規模な侵攻があったとされているが、近年は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは天正3年の出来事であったことが指摘されている(鴨川達夫『武田信玄と勝頼』)。
- ^ 長篠の戦いの経緯については、長篠の戦いを参照。
- ^ 穴山信君は武田親族衆で、織田・徳川連合軍の甲斐侵攻に際して投降し信長から河内・江尻領を安堵されているが、本能寺の変に際して上方で死去している。信君には遺児勝千代がおり、本能寺後に甲斐を確保した家康は河内・江尻領を安堵しているが勝千代も天正15年6月に死去し、勝千代生母の見性院は家康五男の万千代(武田信吉)を養子に迎えて穴山氏(武田氏)の存続が図られている。
- ^ 合戦の詳細な経緯については小牧・長久手の戦いを参照。なお、小牧・長久手合戦に関する総論は藤田達生編『小牧・長久手の戦いの構造』岩田書院、2006)
- ^ a b 『駿河土産』
- ^ 村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」
- ^ ルイス・フロイスによると、オルガンティーノは1588年5月6日付の書簡で、「坂東の戦は、七月にはすでに(挙行される)と言い触らされており、坂東の北条殿(の領地)が家康の領国に(加えられることに)なっていますから、それも暴君(秀吉)にとっては喜ばしいことではありません」と書いている。フロイス『日本史』第63章。ただし、1588年には結局出兵は無く、2年後に持ち越しとなった。
- ^ 阿部能久 『戦国期関東公方の研究』 思文閣、2006年、198-274頁(喜連川家の誕生)では、鎌倉幕府の成立以来西国政権が東国を一元支配した例は無く、古河公方の断絶とともに機能停止していた室町幕府の関東府と同様の役割を東国に通じた家康によって担わせようとしたと推測している。なお、阿部は笠谷和比古の天正16年(1588年)に家康が源氏姓を公称した説に関連して、同年は足利義昭が正式に征夷大将軍を辞任した年であり、家康が将来の「徳川将軍体制」を見越して源氏改姓をしたのを秀吉は認識しつつそれを逆手に取って関東地方を治めさせたと捉え、更に清和源氏の正統な末裔である足利氏の生き残りと言える喜連川家に古河公方を再興させることで、家康と喜連川家+佐竹氏など関東諸大名との間に一定の緊張関係をもたらすことで家康の野心を封じ込めようとしたと推測する。
- ^ 井伊直政・本多忠勝・榊原康政の知行割に関しては川田貞夫が豊臣政権によって配置・石高を指定されたとする説を唱えて、以後通説となっている。ただし、川田が主張した鳥居元忠・大久保忠世にも適用されたとする考えには、通説を支持する学者の間でもこれは認めないとする市村高男らの反論(井伊・本多・榊原家のみとする)がある。なお、こうした豊臣政権の大名家内部の知行割に対する関与自体は、上杉家における直江兼続の事例などがあり徳川家に限ったことではなかった。(平野明夫「関東領有期徳川氏家臣と豊臣政権」(所収:佐藤博信 編『中世東国の政治構造 中世東国論:上』(岩田書店、2007年) ISBN 978-4-87294-472-3))
- ^ 『常山紀談』には、本多正信の「殿は渡海なされますか」との問いに家康が「箱根を誰に守らせるのか」と答えたエピソードが書かれている
- ^ a b 小和田哲男『駿府の大御所 徳川家康』(静新新書・2007年)
- ^ なお出典の定かでない話ではあるが、これに先立ち、伊尾川(現・揖斐川)で家康自身が銃撃されたという伝承もあるという。詳しくは神戸町の項を参照のこと
- ^ 家康が今川支配を離れ三河に帰還した際の所領安堵状にも「源家康」と署名されており、少なくとも父・広忠か祖父・清康の時代にはすでに源氏を名乗っていた可能性が高い
- ^ 「国家安康」を「家康の名を分断して呪詛する言葉」とし、「君臣豊楽・子孫殷昌」を豊臣氏を君として子孫の殷昌を楽しむとし、さらに「右僕射源朝臣」については、「家康を射るという言葉だ」と非難したとする説もある[要出典](「右僕射源朝臣」の本来の意味は、右僕射(右大臣の唐名)源家康という意味である)が、これは後世の俗説である。
- ^ 『摂戦実録』によれば、撰文をした文英清韓は「国家安康と申し候は、御名乗りの字をかくし題にいれ、縁語をとりて申す也」と弁明し、家康の諱を「かくし題」とした意識的な撰文であると認め、五山の僧の答申はいずれも諱を避けなかったことについて問題視したという。(『関ヶ原合戦と大坂の陣』笠谷和比古、吉川弘文館)。ただし『摂戦実録』の成立年代は江戸時代・1752年である。[[1]]
- ^ 巷間で流布された「条件になかった内堀までも埋め立てさせた」というのは誤りで、「総堀の埋め立て」が和議の条件である[要出典]
- ^ 武家出身者としては、平清盛・源義満(足利義満)・豊臣秀吉に次いで史上4人目。
- ^ 茶屋四郎次郎清次の料理により、大鯛二枚と甘鯛三枚を平らげた。
- ^ a b 1582年10月4日以前はユリウス暦、それ以降はグレゴリオ暦。日付は宣明暦長暦。
- ^ 前者は個人蔵(画像)。後者は東京国立博物館蔵(e国宝に画像と解説あり)
- ^ 『久能山東照宮博物館一〇〇選』図録、1995年
- ^ 『特別展 江戸を開いた天下人 徳川家康の遺愛品 伝世品でみる家康の文化的側面』展図録20頁、三井記念美術館、2010年
- ^ 『家康の遺産 駿府御分物』展図録、徳川美術館、1992年
- ^ 『完訳フロイス日本史4 秀吉の天下統一と高山右近の追放』第12章より
- ^ 『葉隠覚書』
- ^ 『渡辺幸庵対話』
- ^ 『膾餘雑録』
- ^ 『翁草』
- ^ 『正武将感状記』
- ^ 『明良洪範』
- ^ 『前橋旧聞覚書』、『見聞集』
- ^ 『老人雑話』
- ^ 新・歴史群像シリーズ(12) 徳川家康 P44~P45
- ^ 新井白石の『藩翰譜』など。
- ^ 中には福島家のように理不尽な取り潰され方をした大名もあり、公平な判断よりも徳川政権の安定を優先させていたと思われる。
- ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』2000年
- ^ 1585年の石川数正の寝返りにより、様々な制度を改めざるを得なくなったという事情もある。
- ^ 自分と境遇の似た頼朝に親近感を抱き、尊敬していたとも推測されている。
- ^ 真宗大谷派が「教如は家康にそそのかされて東本願寺を設立したのではなく、元々独立志向があった」とする見解を正式に表明するなど、仏教関係者側からはこれを否定する説が多いが、当事者の言うことなので差し引いて考える必要がある。
- ^ 『柳営婦女伝系』(『徳川諸家系譜』第1巻 続群書類従完成会)の長勝院(小督局)の項に結城秀康が双子であった事が記載されており、また、高野山にある小督局の墓には永見貞愛の名も刻まれている。(秋元茂陽 『徳川将軍家墓碑総覧』星雲社、2008年)。
- ^ a b c 『幕府祚胤伝』(『徳川諸家系譜』第2巻、続群書類従完成会)
- ^ 国宝・彦根城築城400年祭 列伝井伊家十四代 第6回 鬼を継ぐ夜叉~井伊直孝 其の壱~
- ^ 『徳川実紀』に落胤説があったとの記述がある。
- ^ 『後藤庄三郎由緒書』、寛政10年(1798年)頃の史料なので信憑性には疑問がある。
- ^ 日光山輪王寺所蔵にある重要文化財の守り袋より
- ^ 野村玄によれば、当時国内では寛永飢饉、国外では明清交替と鎖国令に伴うポルトガルの報復の可能性によって江戸幕府は緊迫した状況にあり、将軍であった徳川家光は単なる家康への崇敬のみならず、元寇の時の風宮改号の故事を先例として東照社を東照宮と改号して「敵国降伏」を祈願したとする(野村玄『日本近世国家の確立と天皇』清文堂、2006年、P38-45)。
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