高天神城の戦い
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高天神城の戦い(たかてんじんじょうのたたかい)は、1574年(天正2年)と1581年(天正9年)に武田勝頼と徳川家康の間で行われた、現在の静岡県掛川市にあたる遠江国・高天神城における2度の攻城戦を指す。
- ^ 近年の研究では、元亀2年(1571年)の三河・遠江侵攻は天正3年(1575年)の出来事で、実際には無かった可能性が指摘されている。詳細は西上作戦#研究史を参照のこと。
- ^ “家康が敗れた「三方ヶ原の戦い」信玄の巧みな戦略”. 2023年5月7日閲覧。
- ^ 『多聞院日記』、『年代記抄節』
- ^ 『信長公記』 巻7
- ^ a b c 『信長公記』
- ^ 『寛政重修諸家譜』に拠れば、伊達房実の父。
- ^ 渡辺信重(金太夫)・伊達宗春(宗綱。与兵衛)・伏木久内・中山是非助・吉原又兵衛・林平六・門奈俊武(左近右衛門)
- ^ 翌天正3年(1575年)5月の長篠の戦いの際には、羽柴秀吉の前備として兵100を預けられている - 『山内一豊公紀』
- ^ 「高天神城と六砦」掛川市公式HP
- ^ 『家忠日記』より。『信長公記』には日付がなく、この直前の項の日付が11月17日、次の項が翌年の元旦である。
- ^ 丸島 2017, Kindle版、位置No.全4856中 4077 / 84%.
- ^ その後、信忠は2月19日に上洛し、妙覚寺に宿泊している。(『信長公記』)
- ^ 丸島 2017, Kindle版、位置No.全4856中 4042 / 83%、位置No.全4856中 4816 / 95%.
- ^ 奥野高広『増訂 織田信長文書の研究』吉川弘文館
- ^ 丸島 2017, Kindle版、位置No.全4856中 4093 / 84%、位置No.全4856中 4816 / 95%.
- ^ 丸島 2017, Kindle版、位置No.全4856中 4093 / 84%.
- ^ 幸若與三大夫(幸若義成)の舞は、落城前日のエピソードとも伝わる。栗田が徳川陣中に舞を所望し、家康がこれを聞き入れ、幸若は城から見える位置まで近付いて幸若舞を演じたとされている。城方もこれを見える位置まで寄って、栗田は櫓の上から、舞を涙ながらに聞き入った。演じられた演目は『高舘』。源頼朝の圧力に負けた奥州藤原氏が源義経主従の籠る高館を攻め、寡兵の義経ら主従は共に果て滅びたストーリーであった。舞が終わると、城方から茜色の陣羽織の騎馬武者が現れ、幸若に佐竹大方紙(「西ノ内紙」項目参照)などの礼を渡した。余談となるが、翌日の城方の突撃の際、茜の騎馬武者も目覚ましい働きをしたが、討ち死にした。戦後の首実検の際、男か女かわからない美麗な首があり評定の場は混乱したが、これが茜色の陣羽織の武者であり、栗田の寵愛した小姓であった時田鶴千代であったと伝わる。 - 『東照宮御実紀附録』巻三
- ^ 監禁中の政局は横田尹松に世話されていた、との話も伝わる。
- 1 高天神城の戦いとは
- 2 高天神城の戦いの概要
- 3 注釈
高天神城の戦い
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初陣は天正7年(1579年)の遠江高天神城攻めで忠重に従って出陣するが、このときは武田勝頼の撤退により戦にはならなかった。同年、徳川秀忠が誕生すると、勝成は乳兄弟とされた。天正8年(1580年)、父の忠重が織田信長に引き抜かれ、刈谷の大名になる。勝成は奥田城、細目城を任される。 同年の第二次高天神城の戦いに忠重と共に参加し城を攻めた。しかし、戦いは翌年まで続き最後は城から城兵全員が討って出て大激戦になったといわれる。このとき勝成は16歳にして首級をあげ、信長から感状を与えられる。なお、このとき勝成は城内に祀られていた天神社より渡唐天神像を奪い、以後これを守り本尊として肌身につけたという。 天正10年(1582年)、武田勝頼を攻撃した天目山の戦いに加わった。 本能寺の変のおりは、水野忠重、勝成父子は京都にいた。東山の東福寺山林に三日間身を隠したあと、東福寺境内の塔頭霊源院に匿われる。霊源院の好意で京都を脱出したあと、京極高次の居城江州大津城に入り、それから京極勢の手で、刈谷城へ送られた。
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