川中島の戦いとは?

川中島の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/08/12 07:46 UTC 版)

川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)は、日本の戦国時代に、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で、北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いをいう。最大の激戦となった第四次の戦いが千曲川犀川が合流する三角状の平坦地である川中島(現在の長野県長野市南郊)を中心に行われたことから、その他の場所で行われた戦いも総称として川中島の戦いと呼ばれる。


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  1. ^ なお、天文11年には関東管領上杉憲政が佐久郡出兵を行っており、諏訪氏は同盟関係にあった武田氏や村上氏への通告なく佐久郡の割譲を行っており、武田氏ではこれを盟約違反と捉えたものと考えられている(平山優『川中島の戦い』)
  2. ^ 飯富左京亮は飯富虎昌の子か。
  3. ^ 『勝山記』天文24年条。なお、このときの援軍には鉄砲300挺、弓800張が動員されたと記されており、武田氏の合戦において初めて鉄砲の使用が確認される記事として注目されている。
  4. ^ 『戦武』436 - 448号
  5. ^ 『勝山記』
  6. ^ 『歴代古案』『上越市史』 - 134号
  7. ^ 『戦国遺文武田氏編』507、508号
  8. ^ 『戦武』533-548号
  9. ^ 上越市史』別編(上杉氏文書集)145 - 148号
  10. ^ なお、市河藤若に晴信上意を伝える使者として山本菅助が派遣されている(市河家文書)。山本菅助については後述。
  11. ^ 『戦武』564 - 571号
  12. ^ 『上越』152 - 154号、なお「上野原」は長野市上野に比定されると考えられている。
  13. ^ 『戦武』 - 586号
  14. ^ 『戦武』 - 609号。なお、義輝は晴信の陳弁に対して、景虎に信濃出兵を認め、前信濃守護である小笠原長時の帰国を後援するなど晴信の信濃守護補任を白紙へ戻そうとしていたと考えられている。晴信の信濃守護補任は武田氏の信濃支配を追認するもので信濃支配への影響は少ないことも指摘されており、晴信の信濃守護補任はあくまで政治外交上の影響力にとどまっていたものであると考えられている(丸島和洋「信玄の拡大戦略 戦争・外交・同盟」『新編武田信玄のすべて』新人物往来社、2008)。
  15. ^ 『甲陽軍鑑』は近世初頭の元和年間に原本が成立した軍学書で、武田流軍学の聖典として武田側の視点から川中島合戦をはじめ信玄期の事績が数多く記されている。原本は春日虎綱(高坂昌信)の口述とされ内容については文書・記録資料上の事績と符合する部分もあるものの文書から確認されない事績や年紀・人物比定の誤りなどを数多く含むため、史料性については慎重視されている。一方で甲陽軍鑑は類書を含めて近世社会において広く普及し、現在にいたるまで川中島合戦の具体的イメージを形成した影響力を持っている。
  16. ^ 『勝山記』は富士北麓の常在寺の僧により記された年代記で、富士北麓・郡内地域の地域情勢を中心に政治・外交的な記述を多く含み、同時代の記録資料として注目されている。
  17. ^ 山本勘助は『甲陽軍鑑』において武田家の軍師的人物として描かれる武田氏の足軽大将で、甲州流軍学の教本となった『軍鑑』では特にその活躍が描かれている。一方、確実な文書においてはその名が見られないことからその実在性や『軍鑑』における活躍には疑問視もなされているが、戦後には「市河文書」や勘助に比定される可能性のある「山本菅助」が第三次合戦において使者を務めており、さらに2009年に発見された「真下所蔵家文書」においても「菅助」文書が確認され注目されている。「山本勘助」については平山優『山本菅助』2006、上野晴朗・萩原三雄編『山本勘助のすべて』、真下家文書と「山本菅助」については海老沼真治「群馬県安中市真下家文書の紹介と若干の考察-武田氏・山本氏関係文書-」『山梨県立博物館研究紀要』(第三号、2009年)。
  18. ^ 実際のキツツキはこのようなエサの取り方はしないが、当時はそう信じられていた。
  19. ^ 【換暦】暦変換ツール
  20. ^ 丸島(2008)、p.37
  21. ^ 丸島(2008)、p.37
  22. ^ 丸島(2008)、p.38
  23. ^ 丸島(2008)、pp.39 - 40
  24. ^ 丸島(2008)、p.41
  25. ^ 丸島(2008)、pp.40 - 41
  26. ^ 丸島(2008)、p.41
  27. ^ 丸島(2008)、p.41 - 42
  28. ^ 山室恭子が著書『群雄創世紀』(朝日新聞社、1995年)で提起。後に本人がNHKの「その時歴史が動いた」に出演して解説した。
  29. ^ 栗岩英治は著書『飛翔謙信(田中武夫編)』の中で、地理を知る郷土史家としてはどうにも合点がいかず、これをそのままに放任するわけにはいかない、と難色を示した。
  30. ^ 柴辻俊六の論説(川中島合戦の虚像と実像)を受けて、三池純正が著書『真説・川中島合戦 封印された戦国最大の白兵戦』で遭遇戦の過程を推理した。
  31. ^ 紙本着色八曲一双、岩国市指定文化財。画風から17世紀中頃の狩野派の作と推測される。初伝では、川中島の戦いに参加した武田氏の旧臣伴総九郎が描かせたもので、総九郎の曾孫が安芸武田氏に納め、後にその子孫から岩国美術館の前身であるにしむら博物館に寄贈したという(桑田忠親他編集 『戦国合戦絵屏風集成 第一巻 川中島合戦図 長篠合戦図』 中央公論社、1980年、普及版1988年 ISBN 978-4-12-402721-1)。公式サイトの解説
  32. ^ 紙本着色六曲一双、17世紀後半、狩野派の絵師の作と推定される。公式サイトの解説)。この屏風については、高橋修 『【異説】もうひとつの川中島合戦 ─紀州本「川中島合戦図屏風」の発見』(洋泉社<新書y170>、2007年 ISBN 978-4-86248-126-9)に詳しい。
  33. ^ 他に、岐阜・ミュージアム中仙道土佐光起の嫡男土佐光成筆、画像)、山形・米沢市上杉博物館、福井・勝山城博物館、長野県立歴史館、個人蔵2点が確認されている(『大河ドラマ特別展 風林火山 信玄、謙信、そして伝説の軍師』図録、山梨県立博物館2007年4-5月、新潟県立歴史博物館8-9月、大阪歴史博物館10-12月、画像と解説あり)。
  34. ^ 山梨県立美術館ほか主催 『錦絵にみる戦国絵巻 武田信玄の世界』 山梨県立美術館、1988年、p.3。
  35. ^ 渡邉晃 「戦乱の時代の浮世絵─出陳作品を中心として」(太田記念美術館編集・発行 『浮世絵 戦国絵巻~城と武将』、2011年10月、pp.11-12)。







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