武田信玄とは?

たけだしんげん 【武田信玄】 ○

1521~1573) 戦国時代武将。名は晴信。信玄法号。父,信虎を追放して家督継ぎ信濃進出越後の上謙信川中島激戦を展開した。1572年西上途次三方ヶ原みかたがはら徳川家康を破ったが,翌年三河陣中病没軍略家としてすぐれ,「信玄家法」を制定鉱山開発治水にも業績をあげた。

武田信玄

作者檀一雄

収載図書戦国名将
出版社徳間書店
刊行年月1988.5
シリーズ名徳間文庫

収載図書時代小説ベスト・セレクション 9 乱世勝者敗者戦国小説
出版社講談社
刊行年月1994.11

収載図書決戦 川中島傑作時代小説
出版社PHP研究所
刊行年月2007.3
シリーズ名PHP文庫


武田信玄

作者大栗丹後

収載図書戦国武将まんだら秘本三十人伝
出版社春陽堂書店
刊行年月1999.8
シリーズ名春陽文庫


武田信玄

作者海音寺潮五郎

収載図書武将列伝戦国揺籃
出版社文藝春秋
刊行年月2008.4
シリーズ名文春文庫


武田信玄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/07/31 18:48 UTC 版)

武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代武将甲斐守護大名戦国大名甲斐源氏嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。晴信通称太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。大正期に従三位を贈られる。




  1. ^ 『甲陽軍鑑』では幼名「太郎」に加え「勝千代」とも呼ばれたとされる。
  2. ^ 『甲陽軍鑑』は江戸時代初期の元和年間に原本が成立した軍学書で、近世社会において広く流布した。奥書に拠れば武田家の行く末を案じた信玄・勝頼期の譜代家老である春日虎綱(高坂昌信、1527年 - 1578年)の口述記録を原本に虎綱子孫が編纂を継続し、虎綱の部下であった小幡昌盛の子景憲が原本を入手し、刊行させたものであるという。内容は文書上で確認されない事績や人物の名前、年紀の誤り等を数多く含み、軍学部分以外では後代の嵌入が認められる箇所も多数あるため、明治期の実証主義史学において資料的価値に否定的評価が与えられてきたが、戦後には酒井憲二の国学的検討を契機に再評価も行われている。刊行本には磯貝正義服部治則校注『甲陽軍鑑』(人物往来社、1965年)や酒井『甲陽軍鑑大成』。
  3. ^ NHK(2002)『その時歴史が動いた』 激突 武田信玄と上杉謙信~川中島の戦い、両雄決戦の時~
  4. ^ NHK(2004)『その時歴史が動いた』 武田信玄 地を拓き水を治める~戦国時代制覇への夢~
  5. ^ NHK(2007)『その時歴史が動いた』完成・戦国最強軍団 ~武田信玄・苦悩の生涯~
  6. ^ 福島勢の侵攻・信玄出生に関しては「高白斎記」「王代記」ともに『山梨県史』資料編資料編6中世3上(県内記録)など
  7. ^ 信玄の幼名は確実な史料では「太郎」であるが、『甲陽軍鑑』によればこのときの勝利に因み「勝千代(かつちよ)」とも名付けられたという。信玄は後世に英雄視されていることから出生伝説もうまれ、『軍鑑』や『武田三代記』などによれば、信玄誕生のとき、産屋の上に一条の雲がたなびき白旗の風に翻るように見えたが、それが消えたとき一双の白鷹が3日間も産屋にとまったとされる。このため、諏訪明神の神使が若君(信玄)を守護してくれるのだと末頼もしく思ったとされている。別の話では、信虎が陣中で休息しているとき、曾我時致が自分の子になる夢を見て、そのときに信玄が生まれたとされている。
  8. ^ 勝山記」『山資』6所載
  9. ^ 『高白斎記』に拠る。「信」は武田氏の通字
  10. ^ 信虎追放に関しては『勝山記』や塩山向岳禅庵小年代記など甲斐国内史料に記される信虎の対外侵攻の軍役や凶作に際しての重税など「悪行」を原因としていることから、『甲斐国志』による合意による隠居であったとする説、今川義元との共謀説などの諸説ある。『軍鑑』では追放の原因を不和とし、晴信は嫡男として遇されていたが、信虎との関係は険悪化しており、天文7年(1538年正月元旦祝いのとき、信虎は晴信には盃をささず、弟の信繁にだけ盃をさしたという逸話を記している。
  11. ^ 信虎期からの外交方針の転換については、晴信が官途名を「左京太夫」から「大善太夫」に改称していることにも象徴されていると指摘される(秋山敬「武田氏の国人被官化過程と政権意識」『甲斐武田氏と国人』(高志書院、2003)
  12. ^ 晴信は天文10年6月に信虎を追放し家督を相続しているが、同年5月の海野平合戦で小県を追われた海野棟綱は、信濃の隣国上野に拠する関東管領上杉憲政を頼った。同年7月に憲政は信濃佐久郡へ侵攻し、当時諏訪領主であった諏訪頼重は、同盟相手である武田・小県郡村上氏へ断りをせず、独断で上杉方と和睦して、所領の分割を行っている(「神使御頭之日記」)。晴信の諏訪侵攻はこの翌年に行われていることから、諏訪侵攻の背景には信濃・上野地域における外交情勢が関係していると考えられている平山優『川中島の戦い』2002
  13. ^ 勝山記』によれば晴信は小田井原で討ち取った約3,000人の首級を夜のうちに志賀城のまわりに打ち立る。志賀城の城兵はこれを見て戦意を阻喪し、8月10日正午に外曲輪、深夜には二の曲輪に火を掛け城兵を追い詰め、翌11日正午頃志賀城は陥落、笠原清繁は甲斐衆の萩原弥右衛門が、高田憲頼は諏訪衆の小井弖越前守が討ち取り、城兵三百余が戦死した。笠原清繁の妻は小山田信有が貰い受け、さらに残った女子供と奉公の男は人質として2貫文から10貫文という法外な値を要求し、大半は黒川金山の坑夫や娼婦、奴婢として人身売買されたという。
  14. ^ なお、『勝山記』天文24年条に拠ればこのとき鉄砲300挺、弓800張が動員されたとしており、武田氏の合戦においてはじめて鉄砲の使用が確認される記事として注目されている。
  15. ^ 鴨川達夫は「神田孝平氏所蔵文書」に含まれた足利義輝宛の手紙を根拠に、信濃守護補任が数年遡る可能性を指摘している(鴨川達夫『日本史リブレット人043 武田信玄と毛利元就 思いがけない巨大な勢力圏山川出版社、2011年、57-60頁、ISBN 978-4-634-54843-5
  16. ^ 『戦武』 - 664号。なお『甲陽軍鑑』では出家時期を天文20年2月とするが、文書上からは否定されるほか、出家時期を策彦周良宛の手紙(『山梨県史』資料編5、二六一七)を根拠に、永禄元年12月とする説も提示されている(鴨志田智啓「武田信玄呼称の初見文書について」 『戦国史研究』60号、2010。鴨川達夫『日本史リブレット人043 武田信玄と毛利元就 思いがけない巨大な勢力圏』山川出版社、2011、60頁)
  17. ^ 平山(2002)p.154
  18. ^ 平山(2002)p.155
  19. ^ 平山(2002)p.154
  20. ^ 平山(2002)p.154
  21. ^ 平山(2002)p.154
  22. ^ ただし、天文年間後期(小田井原の戦い以降)には甘楽郡の上野市河氏や国峯小幡氏は既に武田氏に帰属している(黒田基樹「天文期の山内上杉氏と武田氏」(初出:柴辻俊六 編『戦国大名武田氏の役と家臣』(岩田書院、20121) ISBN 978-4-87294-713-7/所収:黒田『戦国期 山内上杉氏の研究』(岩田書院、2013年)ISBN 978-4-87294-786-1)。
  23. ^ 西上野侵攻については、柴辻俊六「武田信玄の関東計略と西上野支配」『戦国大名武田氏領の支配構造』
  24. ^ 丸島和洋「信玄の拡大戦略 戦争・外交・同盟」『新編武田信玄のすべて』2008
  25. ^ 義信事件の経緯は不明であるが、永禄8年10月15日には義信傅役の飯富虎昌が処刑(丸島和洋「高野山成慶院『甲斐国供養帳』-『過去帳(甲州月牌帳)』」『武田氏研究』(34号、2006年))、永禄10年10月19日には甲府東光寺に幽閉されていた義信が自害しており、事件後には領国の動揺を沈静化させるためであると考えられている文書が発給されている。嫡男義信は正室が今川氏真妹で武田家においても親今川派の人物であったと考えられており、義信事件の背景には今川氏との外交関係を巡る武田家内部の事情が関係していると考えられている。義信事件については平山優「武田勝頼の再評価」『新府城と武田勝頼』(山梨県韮崎市教育委員会、2001年)、丸島(2008)。
  26. ^ 駿河侵攻の経緯については駿河侵攻を参照。
  27. ^ 「甲越和与」の経緯については丸島和与「甲越和与の発掘と越相同盟」『戦国遺文武田氏編 月報』6
  28. ^ 柴辻「越相同盟と武田氏の武蔵侵攻」『戦国期武田氏領の展開』
  29. ^ 武田氏の領国拡大過程において、天文23年の南信伊那郡制圧において東美濃国衆遠山氏が武田方に帰属しており、この頃から尾張隣国である美濃斎藤氏との緊張関係が発生している。弘治2年4月には斎藤氏と信長の抗争が勃発し、武田氏は遠山氏を介して美濃情勢に介入しており、このころから織田氏との外交関係がもたれていたと考えられている。
  30. ^ 元亀2年、信玄は甲相同盟を背景に大規模な遠江・三河への侵攻を開始したとされているが、近年では元亀2年の三河侵攻は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは勝頼期の天正3年の出来事であった可能性も考えられている(鴨川達夫『武田信玄と勝頼』(岩波新書、2009)、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007)。
  31. ^ 信長は甲越和与の調停中で武田との友好的関係は保たれており、元亀3年の軍事行動は手切の通告がなされない突然のものであったと考えられている。
  32. ^ 元亀3年の軍事行動の経緯については西上作戦を参照。
  33. ^ 信玄の死因に関しては、侍医御宿監物書状(『戦武』 - 2638号)にみられる持病の労咳肺結核)、肺炎、『甲陽軍鑑』による胃癌若しくは食道癌による病死説が有力である。江戸時代には新井白石『藩翰譜』において三河野田城攻城における狙撃が元で死去したとする説を記しているほか、近代には地方病として蔓延した日本住血吸虫病に死因を求める見解も生まれている。
  34. ^ 柴辻俊六「戦国大名自筆文書の考察-武田信玄を事例として-」『山梨県史研究』第5号、1997年。
  35. ^ 黒田基樹「武田信玄と詩歌会・連歌会」『山梨県史』通史編2中世
  36. ^ 平山優「武田信玄の人間像」 『戦国遺文月報』武田氏編第3巻、2003
  37. ^ 黒田基樹『戦国大名と外様国衆』(文献出版、1997年)ISBN 4-8305-1192-3 P134
  38. ^ 狩野探信(狩野探幽の長男)筆『武田信玄画像』 山梨・大泉寺蔵、絹本著色、正徳5年(1715年) 。柳沢吉里(柳沢吉保の嫡男)筆 『武田信玄画像』 山梨・恵林寺蔵(武田信玄公宝物館保管展示)、絹本著色、甲州市指定文化財、享保8年(1723年)信玄没後百五十回忌に吉里が奉納した。
  39. ^ 石川博 「信玄伝説 由緒と図像」(『よみがえる武田信玄の世界 山梨県立博物館開館記念特別展』図録、山梨県立博物館、2006年、所収)。
  40. ^ 例えば、東京大学史料編纂所所蔵の模本(画像)など。
  41. ^ 藤本正行 『武田信玄像の謎』 吉川弘文館<歴史文化ライブラリー206>、2006年
  42. ^ 落合謙暁 「土佐家伝来の伝足利義政像について」日本歴史学会 『日本歴史』 吉川弘文館、2012年9月号、31頁。なお同論文では、像主が畠山徳栄であると共に、切り取られたという賛の筆者が徳栄だった可能性を指摘している。
  43. ^ 松嶋雅人「長谷川等伯─信春時代における諸問題」『東京国立博物館紀要』43号所収、2007年、など。
  44. ^ http://www.city.kofu.yamanashi.jp/contents/content/view/39/83/1/1/ 2011年2月16日参照
  45. ^ 富士山本宮浅間大社御祭神・御由緒[1]







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