川中島の戦い 第四次合戦

川中島の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/23 10:25 UTC 版)

第四次合戦

『甲陽軍鑑』によれば、永禄3年(1560年)11月には武田氏一族の「かつぬま五郎殿」が上杉謙信の調略に応じて謀反を起こし、成敗されたとする逸話を記している。勝沼氏は武田信虎の弟である勝沼信友がおり、信友は天文4年(1535年)に死去しているが、『甲陽軍鑑』では「かつぬま五郎殿」を信友の子息としているが、一方で天文8年頃には府中今井氏今井信甫が勝沼氏を継承して勝沼今井氏となっている。信甫の子息には信良がおり、謀反を起こした「かつぬま五郎殿」はこの信良を指すとする説がある。

川中島の戦いの第四次合戦は、永禄4年(1561年)に行われ、八幡原の戦いとも言う。第一次から第五次にわたる川中島の戦いの中で唯一大規模な戦いとなり、多くの死傷者を出した。

一般に「川中島の戦い」と言った場合にこの戦いを指すほど有名な戦いだが、第四次合戦については前提となる外交情勢については確認されるが、永禄4年に入ってからの双方の具体的経過を述べる史料は『甲陽軍鑑[注釈 1]などの軍記物語のみである。そのため、本節では『甲陽軍鑑』など江戸時代の軍記物語を元に巷間知られる合戦の経過を述べることになる。確実な史料が存在しないため、この合戦の具体的な様相は現在のところ謎である。しかしながら、『勝山記[注釈 2]や上杉氏の感状近衛前久宛文書など第四次合戦に比定される可能性が高い文書は残存しているほか、永禄4年を契機に武田・上杉間の外交情勢も変化していることから、この年にこの地で激戦があったことは確かである。現代の作家などがこの合戦についての新説を述べることがあるが、いずれも史料に基づかない想像が多い。

合戦の背景

天文21年(1552年)、北条氏康に敗れた関東管領上杉憲政は越後国へ逃れ、景虎に上杉氏の家督と関東管領職の譲渡を申し入れていた。永禄2年(1559年)、景虎は関東管領職就任の許しを得るため、二度目の上洛を果たした。景虎は将軍足利義輝に拝謁し、関東管領就任を正式に許された。永禄3年(1560年)、大義名分を得た景虎は関東へ出陣。関東の諸大名の多くが景虎に付き、その軍勢は10万に膨れ上がった。北条氏康は、決戦を避けて小田原城(神奈川県小田原市)に籠城した。永禄4年(1561年)3月、景虎は小田原城を包囲するが、守りが堅く攻めあぐねた(小田原城の戦い)。

永禄4年(1561年)4月、武田信玄割ヶ嶽城(長野県上水内郡信濃町)を攻め落とした。その際、武田信玄信濃侵攻の参謀と言われた原虎胤が負傷した。これに代わって、山本勘助が参謀になる。

北条氏康は、同盟者の武田信玄(武田晴信が永禄2年に出家して改名)に援助を要請し、信玄はこれに応えて北信濃に侵攻。川中島に海津城(長野県長野市松代町)を築き、景虎の背後を脅かした。やがて関東諸将の一部が勝手に撤兵するに及んで、景虎は小田原城の包囲を解いた。景虎は、相模国鎌倉鶴岡八幡宮で、上杉家家督相続と関東管領職就任の儀式を行い、名を上杉政虎と改めて越後国へ引き揚げた。

関東制圧を目指す政虎にとって、背後の信越国境を固めることは急務であった。そのため、武田氏の前進拠点である海津城を攻略して、武田軍を叩く必要があった。同年8月、政虎は越後国を発向し善光寺を経由して妻女山に布陣した。これに対する武田方は茶臼山(雨宮の渡し、塩崎城、山布施城等諸説がある)に対陣する。

『甲陽軍鑑』等における合戦の経過

第4次川中島の戦い拡大

上杉政虎は、8月15日に善光寺に着陣し、荷駄隊と兵5000を善光寺に残した。自らは兵13000を率いて更に南下を続け、犀川・千曲川を渡り長野盆地南部の妻女山に陣取った。妻女山は川中島より更に南に位置し、川中島の東にある海津城と相対する。武田信玄は、海津城の武田氏家臣・高坂昌信から政虎が出陣したという知らせを受け、16日に甲府を進発した。

信玄は、24日に兵2万を率いて長野盆地西方の茶臼山に陣取って上杉軍と対峙した。なお、『甲陽軍鑑』には信玄が茶臼山に陣取ったという記述はなく、茶臼山布陣はそれ以後の軍記物語によるものである。実際には長野盆地南端の、妻女山とは千曲川を挟んで対峙する位置にある塩崎城に入ったといわれている。これにより妻女山を、海津城と共に包囲する布陣となった。そのまま膠着状態が続き、武田軍は戦線硬直を避けるため、29日に川中島の八幡原を横断して海津城に入城した。政虎はこの時、信玄よりも先に陣を敷き海津城を攻めることもでき、海津城を落とせば戦局は有利に進めることもできたが、攻めることはなかった。これについては、海津城の攻略に手間取っている間に武田軍本隊の川中島到着を許せば城方との挟撃に合う可能性もあるためにそれを警戒して敢えて攻めようとしなかった可能性もある。

膠着状態は武田軍が海津城に入城した後も続き、士気の低下を恐れた武田氏の重臣たちは、上杉軍との決戦を主張する。政虎の強さを知る信玄はなおも慎重であり、山本勘助[注釈 3]馬場信房に上杉軍撃滅の作戦立案を命じた。山本勘助と馬場信房は、兵を二手に分ける、別働隊の編成を献策した。この別働隊に妻女山の上杉軍を攻撃させ、上杉本軍を麓の八幡原に追いやり、これを平野部に布陣した本隊が待ち伏せし、別働隊と挟撃して殲滅する作戦である。これは啄木鳥(きつつき)が嘴(くちばし)での潜む木を叩き、驚いて飛び出した虫を喰らうことに似ていることから、「啄木鳥戦法」と名づけられた[注釈 4]

9月9日(ユリウス暦では1561年10月17日、現在のグレゴリオ暦に換算すると1561年10月27日[19])深夜、高坂昌信・馬場信房らが率いる別働隊1万2千が妻女山に向い、信玄率いる本隊8000は八幡原に鶴翼の陣で布陣した。しかし、政虎は海津城からの炊煙がいつになく多いことから、この動きを察知する。政虎は一切の物音を立てることを禁じて、夜陰に乗じて密かに妻女山を下り、雨宮の渡しから千曲川を対岸に渡った。これが、頼山陽の漢詩『川中島』の一節、「鞭声粛々夜河を渡る」(べんせいしゅくしゅく、よるかわをわたる)の場面である。政虎は、甘粕景持村上義清高梨政頼に兵1000を与えて渡河地点に配置し、武田軍の別働隊に備えた。当初はこの武田別働隊の備えに色部勝長本庄繁長鮎川清長ら揚北の諸隊も含まれていたらしいが、これらの部隊は八幡原主戦場での戦況に応じて移動をしたらしく最終的には甘粕隊のみとなったとされる。

10日(ユリウス暦では1561年10月18日、現在のグレゴリオ暦に換算すると1561年10月28日)午前8時頃、川中島を包む深い霧が晴れた時、いるはずのない上杉軍が眼前に布陣しているのを見て、信玄率いる武田軍本隊は動揺した。政虎は、柿崎景家を先鋒に、車懸り(波状攻撃[20])で武田軍に襲いかかった。武田軍は完全に裏をかかれた形になり、鶴翼の陣(鶴が翼を広げたように部隊を配置し、敵全体を包み込む陣形)を敷いて応戦したものの、上杉軍先鋒隊の凄まじい勢いに武田軍は防戦一方で信玄の弟の武田信繁山本勘助諸角虎定初鹿野忠次らが討死、武田本陣も壊滅寸前であるなど危機的状況であったという。

乱戦の最中、手薄となった信玄の本陣に政虎が斬り込みをかけた。『甲陽軍鑑』では、白手拭で頭を包み、放生月毛に跨がり、名刀、小豆長光を振り上げた騎馬武者が床几(しょうぎ)に座る信玄に三太刀にわたり斬りつけ、信玄は床几から立ち上がると軍配をもってこれを受け、御中間頭の原大隅守(原虎吉)が槍で騎馬武者の馬を刺すと、その場を立ち去った。後にこの武者が上杉政虎であると知ったという。

頼山陽はこの場面を「流星光底長蛇を逸す」と詠じている。川中島の戦いを描いた絵画や銅像では、謙信(政虎)が行人包みの僧体に描かれているが、政虎が出家して上杉謙信を名乗るのは9年後の元亀元年(1570年)である。信玄と謙信の一騎討ちとして有名なこの場面は、歴史小説やドラマ等にしばしば登場しているが、確実な史料上からは確認されない。なお、上杉側の史料である『北越太平記』(『北越軍談』)では一騎討ちが行われた場所を御幣川の渦中とし、信玄・謙信ともに騎馬で信玄は軍配でなく太刀を持ち、信玄は手を負傷して退いたとしている。また、大僧正・天海の目撃談も記している。江戸時代に作成された『上杉家御年譜』では、斬りかかったのは荒川伊豆守だと書かれている[21]。また、盟友関係にあった関白近衛前久が政虎に宛てて、合戦後に送った書状では、政虎自ら太刀を振ったと述べられており、激戦であったことは確かとされる。

政虎に出し抜かれ、もぬけの殻の妻女山に攻め込んだ高坂昌信・馬場信房率いる武田軍の別働隊は、八幡原に急行した。武田別働隊は、上杉軍のしんがりを務めていた甘粕景持隊を蹴散らし、昼前(午前10時頃)には八幡原に到着した。予定より遅れはしたが、武田軍の本隊は上杉軍の攻撃に耐えており、別働隊の到着によって上杉軍は挟撃される形となった。形勢不利となった政虎は、兵を引き犀川を渡河して善光寺に敗走した。信玄も午後4時に追撃を止めて八幡原に兵を引いたことで合戦は終わった。上杉軍は川中島北の善光寺に後詰として配置していた兵5000と合流して、越後国に引き上げた。

この戦による死者は、上杉軍が3000余、武田軍が4000余と伝えられ、互いに多数の死者を出した。信玄は、八幡原で首実検を行い、勝鬨を上げさせて引き上げ、政虎も首実検を行った上で越後へ帰還している。『甲陽軍鑑』はこの戦を「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」としている。合戦後の書状でも、双方が勝利を主張しており、明確な勝敗がついた合戦ではなかった。

この合戦に対する政虎の感状が3通残っており、これを「血染めの感状」と呼ぶ。政虎はほぼ同じ内容の感状を7通発給しており、自身の旗本や揚北衆の中条や色部を中心にその戦功を称えている。信玄側にも2通の感状が確認されている。

参戦武将

『甲陽軍鑑』などによる。なお、都留郡の領主である小山田氏は、『甲陽軍鑑』では当主の弥三郎信有が参陣し妻女山を迂回攻撃する部隊に配属されたと記している。一方、『勝山記』によれば弥三郎信有本人は病床にあったため参陣せず、小山田衆を派遣しており、小山田衆は側面攻撃を意味する「ヨコイレ」を行ったという。弥三郎信有は永禄8年(1565年)に死去し、小山田氏当主は信茂に交代する。


注釈

  1. ^ 『甲陽軍鑑』は近世初頭の元和年間に原本が成立した軍学書で、武田流軍学の聖典として武田側の視点から川中島合戦をはじめ信玄期の事績が数多く記されている。原本は春日虎綱(高坂昌信)の口述とされ内容については文書・記録資料上の事績と符合する部分もあるものの文書から確認されない事績や年紀・人物比定の誤りなどを数多く含むため、史料性については慎重視されている。一方で甲陽軍鑑は類書を含めて近世社会において広く普及し、現在にいたるまで川中島合戦の具体的イメージを形成した影響力を持っている。
  2. ^ 『勝山記』は富士北麓の常在寺の僧により記された年代記で、富士北麓・郡内地域の地域情勢を中心に政治・外交的な記述を多く含み、同時代の記録資料として注目されている。
  3. ^ 山本勘助は『甲陽軍鑑』において武田家の軍師的人物として描かれる武田氏の足軽大将で、甲州流軍学の教本となった『軍鑑』では特にその活躍が描かれている。一方、確実な文書においてはその名が見られないことからその実在性や『軍鑑』における活躍には疑問視もなされているが、戦後には「市河文書」や勘助に比定される可能性のある「山本菅助」が第三次合戦において使者を務めており、さらに2009年に発見された「真下所蔵家文書」においても「菅助」文書が確認され注目されている[18]。「山本勘助」については平山優『山本菅助』講談社、2006年。 上野晴朗; 萩原三雄 編『山本勘助のすべて』新人物往来社、2006年。 を参照。
  4. ^ 実際のキツツキはこのようなエサの取り方はしないが、当時はそう信じられていた。
  5. ^ 永禄3年(1560年)5月、今川義元桶狭間の戦いで尾張の織田信長に討たれ、今川氏今川氏真へ当主交代する。これに伴い三河国岡崎では松平元康(徳川家康)が自立するなど、国衆の反乱が相次いだ(遠州忩劇[26]。ただし、信玄が織田氏との関係を強めた本来の意図は信長の美濃進出で武田氏と織田氏の勢力圏が接したことによる衝突を避ける目的で、今川氏を標的とするものではなかったとみられている[27]
  6. ^ 義信は永禄10年10月19日に死去し、永禄11年11月には氏真の要請で義信正室が駿河へ帰国した[28]
  7. ^ 信玄による今川家臣の内応工作により、今川・上杉間の交渉が露見した[30]

出典

  1. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)。1541年(天文10)6月に家督相続した武田信玄は信濃へ出兵、10年くらいの間に信濃の豪族を次々破り、その中の村上義清小笠原長清らは越後の上杉謙信に救援を求めた。
  2. ^ 上杉謙信と戦国越後 義に生きた希代の戦国武将 新潟文化物語 新潟県文化振興課。上杉謙信と武田信玄、川中島で向かい合ったのは1553年、すでに武田信玄は信濃の南部、中部を手に入れており、北信濃を落とせば信越国境に迫ることになる。
  3. ^ 平山優『戦史ドキュメント 川中島の戦い』上、下(学研M文庫、2002年)
  4. ^ 飯富左京亮は飯富虎昌の子か。
  5. ^ 『勝山記』天文24年条。なお、このときの援軍には鉄砲300挺、弓800張が動員されたと記されており、武田氏の合戦において初めて鉄砲の使用が確認される記事である。
  6. ^ 『戦武』436 - 448号
  7. ^ 『勝山記』
  8. ^ 『歴代古案』『上越市史』 - 134号
  9. ^ 『戦国遺文武田氏編』507、508号
  10. ^ 『戦武』533-548号
  11. ^ 『上越市史』別編(上杉氏文書集)145 - 148号
  12. ^ 。なお、市河藤若に晴信上意を伝える使者として山本菅助が派遣されている(市河家文書)。山本菅助については後述。
  13. ^ 『戦武』564 - 571号
  14. ^ 『上越』152 - 154号、なお「上野原」は長野市上野に比定されると考えられている。
  15. ^ 『戦武』 - 586号
  16. ^ 『戦武』 - 609号
  17. ^ 丸島 2008.
  18. ^ 海老沼真治「群馬県安中市真下家文書の紹介と若干の考察-武田氏・山本氏関係文書-」『山梨県立博物館研究紀要』3号、2009年。 
  19. ^ 【換暦】暦変換ツール
  20. ^ コトバンク> デジタル大辞泉> 車懸かりとは
  21. ^ 吉田義信「置賜史談会創立四十周年を迎えて」『置賜文化』第九十二号、置賜史談会、1993年5月29日、3頁、NDLJP:4437714/5 (要登録)
  22. ^ a b 西川広平「幻の川中島合戦」『大河ドラマ特別展風林火山』NHK・NHKプロモーション、2007年
  23. ^ 前嶋敏「謙信・信玄と〈川中島の戦い〉」『川中島の戦い 上杉謙信と武田信玄』新潟県立歴史博物館、2017年
  24. ^ 村石正行『検証 川中島の戦い』吉川弘文館、歴史文化ライブラリー588、2024年 ISBN 978-4-642-05988-6 P188-194.
  25. ^ 丸島 2008, p. 37.
  26. ^ 丸島 2008, pp. 37–40.
  27. ^ 丸島和洋「武田氏から見た今川氏の外交」(初出:『静岡県地域史研究』5号(2015年)/大石泰史 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年6月) ISBN 978-4-86403-325-1) 2019年、P401.
  28. ^ a b 丸島 2008, p. 41.
  29. ^ 丸島 2008, pp. 40–41.
  30. ^ 丸島 2008, pp. 41–42.
  31. ^ 山室恭子『群雄創世紀』(朝日新聞社、1995年)
  32. ^ 栗岩英治『飛翔謙信(田中武夫編)』の中で、地理を知る郷土史家としてはどうにも合点がいかず、これをそのままに放任するわけにはいかない、と難色を示した。
  33. ^ 柴辻俊六「川中島合戦の虚像と実像」『信濃』52巻5号、2000年。 を受けて、三池純正『真説・川中島合戦― 封印された戦国最大の白兵戦―』洋泉社、2003年。 で遭遇戦の過程を推理した。
  34. ^ 統率された軍団同士の戦闘では死傷者はそこまで多くならない。被害が増大した部隊は組織的に退却するからである。一般的に死傷者が大幅に増加するのは潰走が始まり指揮命令系統が機能しなくなってからか、不意の遭遇により指揮命令系統が確立せずに戦闘が始まった時である。
  35. ^ 田中義成「甲越事績考―川中島合戦―」(『史学会雑誌』1号、1890年)
  36. ^ 北村建信「甲越川中島戦史」(報国学会、1932年)
  37. ^ 渡辺世祐『武田信玄の経綸と修養』(創元社、1943年)
  38. ^ 小林計一郎『川中島の戦―甲信越戦国史―』(銀河書房、1980年)
  39. ^ 柴辻俊六「川中島合戦の虚像と実像」『信濃』52巻5号、2000年。 
  40. ^ 平山優『戦史ドキュメント 川中島の戦い』上・下(学研M文庫、2002年)
  41. ^ 村石正行『検証 川中島の戦い』吉川弘文館、歴史文化ライブラリー588、2024年 ISBN 978-4-642-05988-6 P28.
  42. ^ 紙本着色八曲一双、岩国市指定文化財。画風から17世紀中頃の狩野派の作と推測される。初伝では、川中島の戦いに参加した武田氏の旧臣伴総九郎が描かせたもので、総九郎の曾孫が安芸武田氏に納め、後にその子孫から岩国美術館の前身であるにしむら博物館に寄贈したという(桑田忠親他編集 『戦国合戦絵屏風集成 第一巻 川中島合戦図 長篠合戦図』 中央公論社、1980年、普及版1988年 ISBN 978-4-12-402721-1)。公式サイトの解説
  43. ^ 紙本着色六曲一双、17世紀後半、狩野派の絵師の作と推定される。公式サイトの解説)。この屏風については、高橋修 『【異説】もうひとつの川中島合戦 ─紀州本「川中島合戦図屏風」の発見』(洋泉社<新書y170>、2007年 ISBN 978-4-86248-126-9)に詳しい。
  44. ^ 他に、岐阜・ミュージアム中仙道土佐光起の嫡男土佐光成筆、画像)、山形・米沢市上杉博物館、福井・勝山城博物館、長野県立歴史館、個人蔵2点が確認されている(『大河ドラマ特別展 風林火山 信玄、謙信、そして伝説の軍師』図録、山梨県立博物館2007年4-5月、新潟県立歴史博物館8-9月、大阪歴史博物館10-12月、画像と解説あり)。
  45. ^ 山梨県立美術館ほか主催 『錦絵にみる戦国絵巻 武田信玄の世界』 山梨県立美術館、1988年、p.3。
  46. ^ 小林計一郎 酒井雁高 『浮世絵川中島大合戦』 白文社、1986年4月、ISBN 4-938521-10-5
  47. ^ 渡邉晃 「戦乱の時代の浮世絵─出陳作品を中心として」(太田記念美術館編集・発行 『浮世絵 戦国絵巻~城と武将』、2011年10月、pp.11-12)。






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「川中島の戦い」の関連用語

川中島の戦いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



川中島の戦いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの川中島の戦い (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS