かい‐の‐くに〔かひ‐〕【甲斐国】
読み方:かいのくに
⇒甲斐
甲斐国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/05 20:36 UTC 版)
甲斐国(かいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属し、現在の山梨県に相当する。
注釈
出典
- ^ 平川南「古代日本における交通と甲斐国」『古代の交易と道 山梨県立博物館 調査・研究報告2』(2008年、山梨県立博物館)、p.12
- ^ 奈良時代の甲斐国司については、原正人「奈良時代の甲斐国司-その性格と任官の動向をめぐって-」『山梨県史研究』(第三号、1995年3月)、同「奈良時代の甲斐国司」『山梨県史』通史編1原始・古代(2004)
- ^ 『続日本紀』該当部は『山梨県史』資料編3原始・古代(文献・文字史料 - 史料31)所載、以下古代甲斐国に関する文献資料は同書に所載。
- ^ 原 1995
- ^ 原 1995、広足の神馬貢献の政治的意志については原文献のほか、磯貝正義「古代官牧制の研究-甲斐の御牧を中心に-」『郡司及び采女制度の研究』(吉川弘文館、1978)
- ^ 西川広平「南北朝期 安芸・甲斐武田家の成立過程について」(初出:中央大学文学部『紀要』史学65(2020年)/所収:西川広平 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第三二巻 甲斐源氏一族』(戎光祥出版、2021年) ISBN 978-4-86403-398-5)P313-314.
甲斐国
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甲斐国は武田氏(武田信昌)の領国である。作中、犬塚信乃と後の浜路(浜路姫)をめぐる物語が展開する。 馬琴は自身が甲斐を訪れた記録は無いものの兄の興旨が甲府勤番として赴任しており、他作品や随筆などでもしばしば甲斐に関する事情が記される事があり、随筆の中で興旨書簡からヒントを得ている事が記されていることから、興旨を通じて甲斐国に関する知識を得ていたと考えられている。 石禾(いさわ) 石禾は史実世界の石和(現在の笛吹市石和町)で、戦国時代に甲府へ移転される以前の甲斐守護武田氏の居館所在地であった。八犬伝作中でも武田氏の本拠として描かれる。物語中盤では丶大が当地の寺「指月院」の住職となり、犬士探索の拠点となっていた。
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甲斐国
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「甲斐国八代郡 浅間神社」と記載される名神大社。以下の三社がいずれも古社であることから論社とされ、同様に甲斐国一宮についても論社とされている。 浅間神社(笛吹市) - 旧国幣中社、別表神社 河口浅間神社(南都留郡富士河口湖町) - 旧県社 一宮浅間神社(西八代郡市川三郷町) - 旧村社 文献の記載 甲斐国に浅間神が祀られる経緯については、六国史の一書『日本三代実録』に以下のように記されている。 貞観6年(864年)5月25日、富士山の貞観大噴火が始まり、大被害が発生。 貞観6年(864年)7月17日、噴火により八代郡の本栖海(本栖湖)と剗の海が埋没。 貞観6年(864年)8月5日、占いにより、噴火が起こったのは駿河国浅間名神における祭祀怠慢によるものと解され、甲斐国でも祭祀するべきと下命。 貞観7年(865年)12月9日、浅間明神祠が祀られ官社に列した。その経緯として、浅間明神が伴真貞に神がかりし甲斐国に神社を定めることを求めた。そして勅により真貞を祝として甲斐国八代郡家の南に神宮を建てた。その後立派な社が造営された。そして官社に預かることとなった。 貞観7年(865年)12月20日、甲斐国山梨郡にも同様に浅間明神を祭祀。 比定をめぐる議論 名神大社と甲斐国一宮が同じである必然性はないが、甲斐国には名神大社が一社しかないため、そう捉えるのが自然とされる。この点において三社のうち3(= 市川三郷町の一宮浅間神社)は「一宮」を社名とするが、同じ市川郷内に二宮を称する弓削神社があることから、社名の「一宮」は甲斐国のものではなく市川郷のものと解され、この議論においては参考地と捉えられている。ほか二社に関しては、上記の記述を巡って以下の2点が重要な論点となる。 伴真貞の託宣により八代郡家の南に創建された神社が官社となったとするか、改めて造営された神社が官社となったとするか。 山梨郡に設けられた神社は官社ではない(現在1は八代郡、2は都留郡の位置)。 2(= 河口浅間神社)を式内社と見る説は古くから論じられており、江戸時代の『大日本史』や『甲斐国志』にも記載がある。すなわち、2は現在都留郡に属するが、郡境変遷以前は八代郡の領域で、1は変遷以前は山梨郡であったとしている。特に、1の鎮座する位置は当時山梨郡であって1がのちに設けられた浅間明神だとする説は有力である。しかしながら、郡境の変遷を示す史料的な確定は得られていない。 1(= 笛吹市の浅間神社)を式内社とみなす説は現在有力視されており、皇學館大学による『式内社調査報告』や『日本の神々』で論じられている。すなわち、2の主張する郡境変遷の証拠がなく当初から八代郡と見てよいこと、1は国府近くで重要な地であること、郡家推定地の南と見なせること、甲斐唯一の名神大社が国府から離れ文化水準の低い地にあると考えがたいこと、境内に伝承・史料が確たる真貞社が祀られていること、三社のうち一宮を示す最も古い文書(弘治3年(1557年)の武田晴信条目)を有していること、による。なお2は富士山近くに鎮座し正対しているが、1の境内からは御坂山地の陰となって富士山を仰ぎ見ることはできない。これについて、1は元は南方の神山を祭祀する山宮神社であったが、甲府盆地の開発が進むとともに中心が国府近くの里宮に移り、のち浅間神の神格が与えられたと考えられている。
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甲斐国
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武田晴信(後の信玄) 幼少時から利口で、父親から疎まれていた。 武田信繁 晴信の4歳年下の弟。利口で闊達な晴信に比べると、凡人であったが、父親からは可愛がられた。 武田信虎 晴信の父。老臣の諫言を聞き入れず、内政に取り組もうとしなかったため、晴信に謀られて国外追放され、娘の嫁ぎ先である駿河の今川義元の下に身を寄せ隠居の身となる。
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