守護とは?

Weblio|辞書<国語辞典・国語辞書・百科事典>

初めての方へ

参加元一覧


用語解説|ニュース

三省堂 大辞林

三省堂三省堂

しゅご 1 【守護】

(名)スル

(1)守ること。
「―神」「良法設け人民を―すべきを要す/明六雑誌 16
(2)鎌倉幕府1185年義経・行家の逮捕名目として国ごとに設け職名大番催促謀反人殺害人の検断などに当たらせた。有力御家人多く任命され、鎌倉末期には国内地頭御家人傘下に収め、国衙(こくが)職務を奪い吸収して領主化していった。室町幕府も守護を置き、応仁の乱後、守護大名となるものが多かった。守護職。すご。
地頭
国司



名字辞典

名字見聞録名字見聞録

守護

名字 読み方
守護 しゅご


ウィキペディア

ウィキペディアウィキペディア

守護

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2009/12/12 03:18 UTC 版)

守護(しゅご)は、日本鎌倉幕府室町幕府が置いた武家の職制で、単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である。追捕使が守護の原型であって、後白河上皇が鎌倉殿へ守護・地頭の設置を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代守護人奉行(しゅごにんぶぎょう)といい、室町時代には守護職(しゅごしき)といった。
制度としては室町幕府滅亡後、幕藩体制成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。

目次

鎌倉時代

平安時代後期において、国内の治安維持などのために、国司が有力な在地武士を国守護人(守護人)に任命したとする見解があり、これによれば平安後期の国守護人が鎌倉期守護の起源と考えられている。

鎌倉期の守護は、1180年治承4)、源頼朝が挙兵し、鎌倉へ入った後、諸国に置いた守護人に始まるとされている。同年10月の富士川の戦いの直後に、甲斐源氏武田信義駿河国守護人、同じく甲斐源氏の安田義定遠江国守護人に任じたのが、頼朝政権による守護設置の初例と見られている。その後、頼朝政権の勢力が西上するに従って、守護人の設置は東国諸国から西国へと拡がっていった。当時の守護人は、在庁官人らを指揮して国内の治安維持・民政にあたり、兵粮徴発や兵士動員などを任務としていたが、1185年文治1)に平氏政権が滅亡すると、朝廷との円滑な関係を構築するため、頼朝政権は独自に設置した国守護人を一旦廃止することとした。

同年11月、源義経源行家の追討を目的として、頼朝の義父である北条時政が上京し、後白河側と交渉した結果、行家・義経追討のため、諸国に惣追捕使(そうついぶし)・国地頭(くにじとう)を設置することが勅許された。頼朝政権=鎌倉幕府には、荘園国衙領の田1段から兵粮米5升を徴収する権利と、国衙の在庁官人を指揮する権利が認められ、これを執行する職として惣追捕使・国地頭が置かれたのである。これにより鎌倉期の守護・地頭制度が本格的に始まることとなった。諸国ごとに設置する職を守護、荘園・国衙領に設置する職を地頭として区別され始めたのは、1190年前後とされている。だが、当初の頼朝政権の実質支配権が及んだ地域は日本のほぼ東側半分に限定されていたと考えられており、畿内以西の地域では後鳥羽天皇を中心とした朝廷や寺社の抵抗が根強く、後鳥羽天皇(退位後は院政を行う)の命令によって守護職の廃止が命じられたり、天皇のお気に入りであった信濃源氏の大内惟義平賀朝雅の実兄)が畿内周辺7ヶ国の守護に補任されるなどの干渉政策が行われ続けた。こうした干渉を排除出来るようになるのは、承久の乱以後のことである。

その後、守護の職務内容が次第に明確化されていき、1232年(貞永1)に制定された御成敗式目において、守護の職掌は、軍事・警察的な職務である大犯三ヶ条の検断(御家人の義務である鎌倉京都での大番役の催促、謀反人の捜索逮捕、殺害人の捜索逮捕)と大番役の指揮監督に限定され、国司の職権である行政への関与や国衙領の支配を禁じられた。しかし、守護が国内の地頭や在庁官人を被官(家臣)にしようとする動き(被官化)は存在しており、こうした守護による在地武士の被官化は、次の室町時代に一層進展していくこととなる。

鎌倉中期以降は、北条氏一門による守護職の独占化が進んだ。これは、北条時頼の頃から北条本家(得宗)による政治の専制化、すなわち得宗専制が確立していったことに伴うもので、北条一門の守護国は、鎌倉初期の1200年頃に2国(他氏36国、守護不設置4国[1])、1250年頃に17国(他氏24国、不設置5国[2])、1285年頃に33国(他氏18国、不設置5国[3])、鎌倉最末期の1333年には38国(他氏15国、不設置5国[4])と鎌倉中期を境に一気に増加していた。こうした事態は、他の御家人らの不満を潜在化させることとなり、鎌倉幕府滅亡の遠因となったと考えられている。

室町時代

鎌倉幕府滅亡後に成立した後醍醐天皇による建武の新政においても、守護は、国司と併置される形で制度に残された。ただし、新政がわずか数年で終了したため、建武期の守護について詳細は明らかでない。

次に成立した室町幕府も、守護の制度を継承した。当初、守護の多くは在地の有力者が任じられていたが、次第に足利氏一門と交代させられて、その地位を保持していたのは、播磨赤松氏赤松則村)などごく僅かだった。これは、鎌倉期の得宗専制を引き継いだものである。

職権についても鎌倉期と同じく、初めは大犯三ヶ条とされていたが、国内統治を一層安定させるため、1346年貞和2)、刈田狼藉の検断権と使節遵行権が新たに守護の職権に加えられた。刈田狼藉は武士間の所領紛争に伴って発生する実力行使であり、使節遵行とは幕府の判決内容を現地で強制執行することである。この両者により、守護は、国内の武士間の紛争へ介入する権利と、司法執行の権利の2つを獲得した。

1352年文和1)には、軍事兵粮の調達を目的に、国内の荘園国衙領年貢の半分を徴収することのできる半済の権利が守護に与えられた。当初は、戦乱の激しい3国(近江・美濃・尾張)に限定して半済が認められていたが、守護たちは半済の実施を幕府へ競って要望し、半済は恒久化されるようになる。1368年応安1)の半済令(寺社本所領事)は、年貢だけでなく土地自体の半分割を認める内容であり、守護による荘園・国衙領への侵出が著しくなっていった。さらに、守護は荘園領主らと年貢納付の請け負い契約を結び、実質的に荘園への支配を強める守護請(しゅごうけ)も行うようになった。また、税の一種である段銭棟別銭の徴収なども行うなど、経済的権能をますます強めていったのである。

守護はこのように強化された権限を背景に、それまで国司が管轄していた国衙の組織を吸収すると同時に、強まった経済力を背景に、国内の地頭、在地領主(当時、国人と呼ばれた)、さらに有力名主らを被官(家臣)にしていった。この動きを被官化というが、こうして守護は、土地の面でも人的面でも、国内に領域的かつ均一な影響力を次第に及ぼしていく。こうした室町期の守護のあり方は、軍事・警察的権能のみを有した鎌倉期守護のそれと大きく異なることから、室町期守護を指して守護大名と称して区別する。また、守護大名による国内の支配体制を守護領国制という。ただし、守護大名による領国支配は必ずしも徹底したものではなく、畿内を中心に、国人層が守護の被官となることを拒否した例は、実は多く見られる。

室町中期までに、幕府における守護大名の権能が肥大化し、幕府はいわば守護大名の連合政権の様相を呈するようになる。当時の有力な守護には、足利将軍家の一族である斯波氏畠山氏細川氏をはじめ、外様勢力である山名氏大内氏赤松氏など数ヶ国を支配する者がいた。これら有力守護は、幕府に出仕するため継続して在京することが多く、領国を離れる場合や、多くの分国を抱える場合などに、国人を守護の代官としたり、直属家臣の中から守護代を置いた。さらにその守護代も小守護代を置いて、二重三重の支配構造を形成していった。

守護の恩典には、将軍のから一字をもらう一字拝領などがあった。また、守護の格式として白傘袋・毛氈鞍覆を許され、守護代には唐傘袋・毛氈鞍覆、塗輿が免許された。また、守護・守護代ともに塗輿の使用が免許され、有力な武士としての権威性を認められていた。管領・探題に達する者や有力守護にのみ許された特典としては、屋形号朱の采配の免許があり、屋形号を持つ者の家臣は烏帽子直垂を着用することが許された。特に鎌倉公方足利家では関東の有力武士のうち、8家に屋形号を授け関東八館などといわれた。

戦国時代

応仁の乱の前後から、守護同士の紛争が目立って増加しており、それに歩調を合わせるように、在地領主である国人の独立志向(国人一揆など)が見られるようになる。これらの動きは、一方では守護の権威の低下を招いたが、他方では守護による国人への支配強化へとつながっていった。そして、1493年明応2)の明応の政変前後を契機として、低下した権威の復活に失敗した守護は、守護代や国人などにその地位を奪われることになり、逆に国人支配の強化に成功した守護は、領国支配を一層強めていった。

こうして、室町期の守護のうち領国支配の強化に成功した守護や、守護に取って代わった守護代、国人は、戦国大名へと変質・成長していった。しかし、室町時代、世襲という家柄や既得権として権威があった守護職は戦国時代でも、戦国大名の称号としてそれなりに意味を持っており、実力者の称号となることでそれなりの意味を持った。多くの戦国大名が幕府から守護に補任されていることはその証左である。このことから、戦国期守護という概念を提示する論者もいる。

なお、出羽国の戦国大名 安東氏では当初、蝦夷管領として北海道にも勢力を持ち、奥州十三湊日之本将軍、または東海将軍と称して北海道南部に土着した安東氏の庶家蠣崎氏(後の松前氏)を上国守護職、下国守護職、松前守護職などに封じているなど、幕府以外にも守護職が独自に設置・任免された事績も確認できる。

江戸時代

幕末、会津藩の藩主、松平容保が朝廷を通じて江戸幕府より京都守護職に任ぜられている。過去にも「京都守護」の職名は存在したが、この場合は「京都守護職」と称するのが正式であり、守護職の読みも室町時代の“しゅごしき”に対して“しゅごしょく”と読む。

脚注

  1. ^ 山城(京都守護・六波羅探題)、大和(興福寺支配)、和泉(後鳥羽上皇支配)、越前、紀伊(後鳥羽上皇支配)
  2. ^ 山城(京都守護・六波羅探題)、大和(興福寺支配)、相模(侍所・政所管掌)、
  3. ^ 山城(京都守護・六波羅探題)、大和(興福寺支配)、摂津(六波羅探題)、丹波(六波羅探題)、肥前(鎮西探題兼補)
  4. ^ 山城(京都守護・六波羅探題)、大和(興福寺支配)、播磨(六波羅探題)、肥前(鎮西探題兼補)

関連項目





固有名詞の分類



関連した本

このページへのリンク
「守護」に関連した用語
1
加護 国語辞典
36% |||||

2
36% |||||



5
34% |||||

6
34% |||||

7
擁護 国語辞典
34% |||||




守護のお隣キーワード
Weblioモバイル
QRコード
URL:【http://m.weblio.jp/
ケータイでバーコードを読み取るか、URLを直接入力してアクセスして下さい。
» モバイルで「守護」を見る

_ _   


このページの著作権について
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
三省堂三省堂
Copyright (C) 2001-2010 Sanseido Co.,Ltd. All rights reserved.
株式会社 三省堂三省堂 Web Dictionary
名字見聞録名字見聞録
All Rights Reserved, Copyright(c) Unit Corporation since 1996.5.10
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの守護 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したのにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2010 Weblio RSS