みうら‐よしずみ【三浦義澄】
三浦義澄
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三浦 義澄(みうら よしずみ、大治2年〈1127年〉 - 正治2年1月23日[1]〈1200年2月9日〉)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の御家人。桓武平氏の流れを汲む三浦氏の一族で、三浦介義明の次男。十三人の合議制の一人。
注釈
- ^ 元服にあたっては、それまでの童名(幼名)が廃されて、加冠役を勤める烏帽子親から仮名(通称名)と実名(諱)が与えられるが、その際にその実名の一字(偏諱)の付与がなされることが多く[3]、常澄と義澄に共通する「澄」の字がそれにあたることが分かる(山野論文にも類似した例が紹介されている[4]。
- ^ 『吾妻鏡』には「他人不聞之(他人これを聞かず)」とあり、頼朝の決断へ与えた影響は大きいと考えられている。
- ^ この時の三浦勢は、義澄の他、佐原義連、大多和義久、同義成、和田義盛、同義茂、同宗実、多々良義春、同明宗、津久井義行らが名を連ねる。
- ^ この際、土肥の岩海岸から出航した北条時政と義時、岡崎義実、近藤国平らと海上で出会い合流する。
- ^ 『吾妻鏡』によると安房国に上陸後、9月8日に北条時政を甲斐源氏の武田信義に加勢を要請すべく甲斐へ派遣したとあるが、延慶本『平家物語』では時政は安房へは向かわず石橋山敗戦の直後に直接、甲斐国に向かっている。
- ^ 延慶本『平家物語』によれば、義澄の兄・杉本義宗は長狭常伴との戦いで戦死したとされており、頼朝と共に安房に上陸した義澄や和田義盛(義宗の子)が義宗の仇を討つために長狭常伴討伐を図った可能性も指摘されている[7]。
- ^ 10月4日に畠山重忠、河越重頼、江戸重長が頼朝の元に参上する。父・義明を討たれた義澄ら三浦一族ではあるが、頼朝の説得により畠山重忠ら秩父一族との和解に応じる[6]。
- ^ 他の6名は、千葉胤正、工藤祐経、足立遠元、後藤基清、葛西清重、八田知重。
出典
三浦義澄(義澄流)
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家督を継いだ三浦義澄(1127年-1200年)は矢部次郎とも荒次郎とも号した。義澄は千葉常胤・上総広常・土肥実平らと共に頼朝の宿老となった。この時、一族である和田義盛も侍所別当職に就いている。その後も三浦氏は頼朝に従い平氏追討・奥州合戦に参戦し、武功を挙げる。頼朝の死後は十三人の合議制のメンバーとなる。和田義盛も入り、三浦党は鎌倉幕府内で大きな権力を持った。 しかしその後、北条氏による他氏排斥運動が起こり、和田義盛は建暦3年(1213年)の和田合戦で滅ぼされた。 なお、義澄以降、宝治合戦による嫡流の滅亡まで、三浦氏当主が代々相模国の守護に任じられたとする佐藤進一の説がある。しかし、相模国は頼朝以降代々の将軍の知行国として政所が国務を行っており、「三浦介」を称した三浦氏は在庁官人として政所の命令を受けて職務を執行する立場であったとも考えられ、佐藤が指摘した守護としての三浦氏の活動が実際に守護としての職務なのか、在庁官人(三浦介)としての職務なのか不明確であるとする見解もある。後者の見解に立つと、相模国は幕府(将軍または執権-政所)の直轄支配下にあり、守護は置かれなかったとも考えられる。
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