佐藤進一
佐藤進一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 09:59 UTC 版)
和田英松、八代国治の研究は大正初期のものだが、戦後1955年の佐藤進一・池内義資編の『中世法制史料集』の態度は「対応資料の見出せない場合には一切吾妻鏡を採録せず、後日の研究を俟つことにした」という非常に慎重なものであった。それは八代いうところの「上述の誤謬を糾し、粗漏を除き」という作業が如何に難しいかを物語っている。実際に『吾妻鏡』の記述を根拠とした「守護・地頭の成立1185年説」がひっくり返ったのは、先に紹介した通りこの『中世法制史料集』編纂より後に起こったものである。
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佐藤進一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:05 UTC 版)
鎌倉との関係 佐藤進一は頼朝と義経の対立について、鎌倉政権内部には関東の有力御家人を中心とする「東国独立派」と、頼朝側近と京下り官僚ら「親京都派」が並立していたことが原因であると主張している。義経は頼朝の弟であり、平氏追討の搦手大将と在京代官に任じられるなど、側近の中でも最も重用された。上洛後は朝廷との良好な関係を構築するため、武士狼藉停止に従事しており、頼朝の親京都政策の中心人物であった。その後、関東の有力御家人で編成された範頼軍が半年かかっても平氏を倒せない中、義経は西国の水軍を味方に引き入れることで約2箇月で平氏を滅ぼした。この結果、政策決定の場でも論功行賞の配分でも親京都派の発言力が強まった。しかし、東国独立派は反発し、親京都政策の急先鋒であった義経を糾弾した。頼朝は支持基盤である有力御家人を繋ぎ止めるため、義経に与えた所領を没収して御家人たちに分け与えた。合戦を勝利に導いたにもかかわらず失脚させられた義経は、西国武士を結集して鎌倉政権に対抗しようとしたのである。
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