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よりとも 【頼朝】

⇒源(みなもとの)頼朝


近代文学作品名辞典

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頼朝

読み方:ヨリトモ(yoritomo)

作者 幸田露伴

初出 明治41年

ジャンル 小説


頼朝

読み方:ヨリトモ(yoritomo)

作者 山崎紫紅

初出 明治44年

ジャンル 史劇



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源頼朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/10 14:10 UTC 版)

(頼朝 から転送)

源 頼朝(みなもと の よりとも)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。

平安時代末期に河内源氏源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると平氏打倒の兵を挙げ、関東を平定し鎌倉を本拠とする。弟たちを代官として源義仲平氏を滅ぼし、戦功のあった末弟・源義経を追放し、諸国に守護地頭を配して力を強め、奥州合戦では奥州藤原氏を滅ぼすと共に、義経を倒す。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。

これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれた。この政権は後に鎌倉幕府と呼ばれ、幕府などによる武家政権王政復古の大号令まで足掛け約680年間に渡り、存続することとなる。

なお、鎌倉幕府の成立は一般に広く認知されている1192年1185年とされる説など諸説あるが1185年とする説が現在有力である。しかしながら学校などで教わる上では1192年とされることがほとんどである。




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注釈

  1. ^ これにより長く「佐殿(すけどの)」と称された。
  2. ^ 頼朝ら一行の都落ちの状況を示す諸本の記載は下記の通りである。/金比羅系本『平治物語』によると、一行は近江国へと至るが、頼朝は野路で戦いの疲れから馬上で眠り、一行からはぐれ落人狩りに遭う。一度はこれを切り抜け野州で一行と合流するが、積雪のため一行が馬を下り歩き始めると再びはぐれ、一月中は浅井に身を潜める。その間に一行は、義朝の妻子が住む美濃国青墓へ至るが、ここで傷を負った次兄・源朝長を亡くし、父・義朝は尾張国野間長田忠致の裏切りにより討たれる。それを知った長兄・源義平は、清盛らを一人でも討とうと京に戻り、以前の郎党と共に変装して清盛暗殺の機会を狙うが、捕えられ六条河原で首を斬られた。頼朝は雪が消えると浅井を発ち、青墓を経て尾張へと至るが捕えられた。/『清檞眼抄』(当時の検非違使の記録)によると二月九日近江国で頼朝が捕らえられたとある。/『吾妻鏡』は大夫属定康というものが大吉寺や私邸に匿ったとする。/古態本『平治物語』によると頼朝は近江国大吉寺に匿われた後、近江浅井北郡の老夫婦の元に匿われ、その後関ヶ原において捕らえられたとある。/なお金比羅系本『平治物語』以外の文献には頼朝が美濃青墓へ行ったとの記載は一切無い。
  3. ^ 『平治物語』によると、池禅尼のこの助命嘆願は早世した我が子・平家盛に頼朝が似ている事から清盛に助命を請うたといわれている。『愚管抄』によると、見るからに幼いのに同情して助命嘆願したと言われている。なお、助命嘆願には後白河院、上西門院の意向が働いていたとの説もある。(元木泰雄『保元・平治の乱を読み直す』)。また、平治の乱の本質は院近臣同士の争いであり、義朝は信頼に従属する者の一人に過ぎず、乱における義朝の立場は従来考えられているものより実は影響力の弱い立場であり、従ってその子供達の処分は軽度のものであったのも当然である、という見解も示されている(野口実『源氏と坂東武士』)。
  4. ^ 摂津源氏源仲綱が伊豆守を勤めていたとの説もある。
  5. ^ 池禅尼による助命嘆願から流刑地で北条時政の監視と保護を受けるに至ったことについて、時政の後妻・牧の方の父・宗親が池禅尼の弟・藤原宗親と同一人物であり、清盛と不仲であった平頼盛(池禅尼の子)が頼朝の身柄を保持し続けたとする学説もある。(杉橋隆夫「牧の方の出身と政治的位置─池禅尼と頼朝と─」『古代・中世の政治と文化』、上横手雅敬監修、思文閣出版、1994年)
  6. ^ 時政の次男・北条義時の通称と同名だが別人である。この時に義時は4歳ほど。
  7. ^ 政子と山木兼隆との婚儀については、兼隆の伊豆配流が1179年であり、長女大姫が1178年に誕生している事から物語上の創作と思われる。
  8. ^ この挙兵決意には都の三善康信の知らせやの京より下った三浦義澄千葉胤頼らの言葉があったとも言われている(『吾妻鏡』)。
  9. ^ なお、平氏側の本来の追討目的は伊豆に潜伏していた源頼政の孫の源有綱で頼朝が狙われていたというのが誤報であり、知行国主の交代によって厳しい立場に立たされた在庁官人で頼政の家人であった工藤茂光が有綱の代理として頼朝を持ち出したという見解も示されている(永井晋『鎌倉源氏三代記』(吉川弘文館))。
  10. ^ 『吾妻鏡』の記載する頼朝の挙兵の詳細は以下の通りである。挙兵の吉日を占いで定めると、当時身辺に仕えていた工藤茂光土肥実平岡崎義実天野遠景佐々木盛綱加藤景廉を一人ずつ私室に呼び、「未だ口外せざるといえも、偏に汝を恃むに依って話す」と伝える。皆に自身のみが抜群の信頼を得ていると思わせ奮起させたのである。挙兵の前日、参着を命じていた佐々木盛綱ら兄弟が参じず、頼朝は兄弟に計画を漏らした事を頻りに後悔する。しかし当日の8月17日昼、急ぎ疲れた兄弟が到着すると、頼朝は感涙を浮かべてねぎらい、深夜に佐々木定綱経高、盛綱、高綱、加藤景廉を従え平兼隆を討ち、平家打倒の兵を挙げた。
  11. ^ 『吾妻鏡』には次のようなエピソードがある。平家方は頼朝を捜し梶原景時は居所を知るが、景時は「ここに人跡は無い」と大庭景親に述べ他の峰に誘った。この間に頼朝は3歳より奉っていた観音像を岩窟に隠し、実平に対し「首を景親らに伝う日、この本尊を見て源氏の大将に非ざる由、必ず誹りを招く」と述べた。
  12. ^ 『吾妻鏡』によるとこのとき北条時政を甲斐源氏武田信義に加勢を要請すべく甲斐へ派遣したとあるが、延慶本『平家物語』によると時政は安房へは向かわず石橋山敗戦の直後直接甲斐国に向かっている。
  13. ^ なお、『吾妻鏡』によると安房上陸後の頼朝軍の動向は次の通りになる。頼朝は最初は安房国住人安西景益の元に迎えられ、房総半島を北上する際、安房国の住人長狭常伴に襲撃されかかるが、合流した三浦義澄の働きで常伴を撃退する。その後千葉常胤の加勢を得、常胤の嫡孫成胤が、9月13日平家に従う下総国目代を滅ぼし翌14日以前から千葉氏と敵対関係にあった平家の縁者千田判官代親政を生虜る。17日には広常の参入を待たず三百余騎で下総国府に入り、常胤から源頼隆を引き合わされる。頼隆は平治の乱で共に戦い討たれた源義隆の遺児であり、頼朝は自身と似たその境遇に感じ、常胤の上座に座らせ家人とした。19日、当初は日和見を決め込んでいた上総広常が2万騎を率いて参じると、本来は喜ぶべき所を逆に広常の遅参を咎め、恭順させる。なお、この広常の日和見をしたことに関しては現在疑問を抱く学説が提示されている(野口実『源氏と坂東武士』など)。また、頼朝の房総北上の行動については、『吾妻鏡』以外の延慶本『平家物語』『源平闘諍録』『源平盛衰記』などには細部にわたる異説がある。
  14. ^ この戦いに勝利したのは甲斐源氏であり頼朝軍その背後にあって平家軍とは直接戦っていないという見方もある。(上杉和彦『戦争の日本史 6 源平の争乱』吉川弘文館)
  15. ^ その遺言は「わが子孫、一人と雖も生き残りなば骸を頼朝の前さらすべし」であったともいう(『玉葉』)。
  16. ^ 政子の安産祈願のために鶴岡八幡宮の参道を御家人らと共に自ら手で築く。また政子の妊娠中に亀の前と密通し、それを知った政子に亀の前の住む家を破却されている(『吾妻鏡』)。
  17. ^ 『平家物語』『源平盛衰記』ではこのあたりを次のように記している。相模国松田に住んでいた源行家より所領を望まれ、頼朝が断ると行家は越後の義仲に従うべく信濃国へと走った。頼朝は武田信光の讒言を受け義仲を討つべく鎌倉を発する。義仲は越後国関山で2,000余騎を率い待ち構え、頼朝は10万余騎を率いて信濃国佐樟川へ陣を取った。義仲は劣勢を悟ると越後国府へと戻り、頼朝に忠誠を誓う書状を送る。頼朝は天野遠景と岡崎義実を使者として返し、行家か義仲の嫡男義高を差し出すように求める。義仲はこの時11歳の義高を差し出すと、頼朝は義高を鎌倉に住まわせ、6歳の長女大姫の婿とした。
  18. ^ 頼朝は義仲失脚にあたって平治の乱で命を救われた池禅尼の息子である平頼盛を通じて法皇と交渉を行っており、頼盛が鎌倉へ下った際、平氏都落ちの際奪われていた官職と荘園を戻させ、手厚くもてなしている(『吾妻鏡』)。
  19. ^ なおこのとき義経は任官から漏れて、後に頼朝に無断で検非違使の官位を得たことで怒りを買ったとされている。しかしこの任官が頼朝の不興を買ったという話は最近では否定的な見方をされつつある。また、義経が西国攻めを任されなかった理由として、義経は「京都の治安維持」を要請されその必要上西国に出兵させることができなかった(菱沼一憲『源義経の合戦と戦略』)、一ノ谷の戦いの直後伊勢・伊賀で平氏の残党勢力が反乱を起こしたために出撃できなかった(元木泰雄『源義経』)等の説が提示されている。
  20. ^ 『吾妻鏡』元暦2年(1185年)正月6日条には、範頼に宛てた同日付の頼朝書状が記載されている。その内容は性急な攻撃を控え、天皇・神器の安全な確保を最優先にするよう念を押したものだった。一方、義経が出陣したのは頼朝書状が作成された4日後であり(『吉記』『百錬抄』同日条)、屋島攻撃による早期決着も頼朝書状に記された長期戦構想と明らかに矛盾する。吉田経房が「郎従(土肥実平・梶原景時)が追討に向かっても成果が挙がらず、範頼を投入しても情勢が変わっていない」と追討の長期化に懸念を抱き「義経を派遣して雌雄を決するべきだ」と主張していることから考えると、屋島攻撃は義経の「自専」であり、平氏の反撃を恐れた院周辺が後押しした可能性が高い。『平家物語』でも義経は自らを「一院の御使」と名乗り、伊勢義盛も「院宣をうけ給はって」と述べている。これらのことから、頼朝の命令で義経が出陣したとするのは、平氏滅亡後に生み出された虚構であるとする見解もある(宮田敬三「元暦西海合戦試論-「範頼苦戦と義経出陣」論の再検討-」『立命館文学』554、1998年)。
  21. ^ それには義経の専横や東国武士達の反感が記されていたとされている(『吾妻鏡』)。
  22. ^ 無断任官者は兵衛尉義廉、佐藤忠信師岡重経渋谷重助、小河馬允、後藤基清、馬允有経、梶原友景、梶原景貞、梶原景高、中村時経、海老名季綱、馬允能忠、豊田義幹、兵衛尉政綱、兵衛尉忠綱、平子有長、平山季重梶原景季、縫殿助、宮内丞舒国、山内首藤経俊八田知家小山朝政ら24名。
  23. ^ この事件は、義経との関連で論じられることが多いが、「自由任官の禁止」(ただし、従者・郎党を持つ権門であればこうした規制は一般的であった)・「成功の重視」(鎌倉幕府が官職を推挙する際には朝廷への成功を果たした者から推挙する)・「任官後の在京勤務励行」(朝幕関係と東国を領域とする幕府支配の固有性を維持のバランスを重視する。なお、この方針により翌年2月2日に配下の御家人の任官返上を朝廷に申し出ている(『吾妻鏡』))という、鎌倉幕府の朝廷官職に対する基本政策が示された点が重要である(上杉和彦「鎌倉幕府と官職制度」『日本中世法体系成立史論』校倉書房、1996年(原論文は『史学雑誌』99巻11号、1990年))。
  24. ^ 延慶本『平家物語』によると義経は鎌倉入りを許され頼朝と対面し、慰安されたのち鎌倉のはずれで待機されたとされている。
  25. ^ その頃鎌倉では駿河以西の御家人に書状を送り、今度の頼朝の上洛は取り止めたがなお怠りなく軍備を固めるように命じて、いざとなれば大挙出兵して上洛する場合に備えている。
  26. ^ 法皇は高階泰経を通じて鎌倉に弁明の使者を出し、使者は11月15日に到着したが恐怖にかられて営中に参ぜず、一条能保の屋敷に行って鎌倉殿あての書状を持参したことを告げた。能保にあてた一通には「義経等の事は、まったく泰経の仕組んだものではなく、ただ義経の兵力を恐れて院に奏上しただけである」と取り成しを願う内容であった。能保は使者を頼朝の所へ連れて行き、泰経の頼朝宛の書状を披露した。それには「行家・義経謀反のことは、天魔の所為というほかない。頼朝追討の宣旨を下さねば宮中で自殺するなどと言うので、当座の騒ぎを避けるための処置であり、法皇の本心ではなかった」という法皇の意向に従った弁明であった。11月26日、鎌倉の使者が泰経に返事の書状を持参して、院の御所の泰経を尋ねると、不在という答えだったので大いに怒り、文箱を院の中門の廊に投げ込んで立ち去った。その書状は兼実に届けられ、表に「大蔵卿殿御返事」とあり、下の署名はなく、内容は「行家・義経謀反のことは、天魔の所為とおっしゃるが、とんでもない事だ。天魔とは仏法の妨げをなし、人倫の災いとなる者の事。頼朝は多くの朝敵を滅ぼし、政権を法皇にお任せしたのに、たちまち謀反人とされてしまったのはどういうわけか。法皇のお考えと無関係に、そもそも院宣が下されるものなのか。行家といい、義経といい、召し捕られぬところから、国々も疲弊し、人民も難儀をする。日本国第一の大天狗はさらに他に居申さぬぞ」と後白河法皇の変心と無責任ぶりを痛罵したものだった。
  27. ^ 狼狽する法皇と泰経は25日に行家と義経の探索を命じる宣旨を重ねて出し、「行家・義経が逆風の難にあったのは天罰である」と義経を罵り、泰経に謹慎を命じる。
  28. ^ 頼朝が征夷大将軍を望んだものの後白河法皇に阻まれたとされる事情については『吾妻鏡』建久3年7月26日条の記述などから長く信じられてきたが、近年になって『吾妻鏡』の寿永3年4月10日条及び『玉葉』寿永3年2月20日及び3月28日条から、源義仲滅亡時に後白河法皇から戦功として征夷将軍の任命の打診が行われて頼朝がこれを辞退したとする見解が出されており、頼朝の征夷大将軍補任の経緯及び当時の征夷大将軍と官職に実質的権限が存在したのか(征夷大将軍の権限とされるものは実際には頼朝個人に対して与えられた警察的・軍事的特権である可能性の指摘)について疑問視する説が出されている(北村拓「鎌倉幕府征夷大将軍の補任について」(所収:今江廣道 編『中世の史料と制度』(続群書類従完成会、2005年) ISBN 978-4-7971-0743-2 P137-194)。
  29. ^ 近年、『三槐荒涼抜書要』所収の『山槐記』建久3年(1192年)7月9日条および12日条に、頼朝の征夷大将軍任官の経緯の記述が発見された。それによると、頼朝が望んだのは「大将軍」であり、それを受けた朝廷で「惣管」「征東大将軍」「征夷大将軍」「上将軍」の四つの候補が提案されて検討された結果、平宗盛の任官した「惣管」や源義仲の任官した「征東大将軍」は凶例であるとして斥けられ、また「上将軍」も日本では先例がないとして斥けられ、坂上田村麻呂の任官した「征夷大将軍」が吉例であるとして頼朝を「征夷大将軍」に任官する事にしたという。つまり、頼朝にとって重要なのは「征夷」ではなく「大将軍」で、朝廷が複数の候補の中から消去法で「征夷大将軍」を選んだ事が明らかとなった。そのため、頼朝が「征夷大将軍」を望んだという前提で、「征夷」に重点を置いた解釈がされてきたこれまでの研究には再検討の必要が出てきている(櫻井陽子「頼朝の征夷大将軍任官をめぐって」 『明月記研究』9号、2004年)。頼朝が「大将軍」を望んだ理由としては、10、11世紀の鎮守府将軍を先祖に持つ貞盛流平氏・良文流平氏・秀郷流藤原氏・頼義流源氏などが鎮守府「将軍」の末裔であることを自己のアイデンティティとしていた当時において、貞盛流の平氏一門・秀郷流の奥州藤原氏・自らと同じ頼義流源氏の源義仲・源行家源義経などといった鎮守府「将軍」の末裔たちとの覇権争いを制して唯一の部門の棟梁となり、奥州合戦においても意識的に鎮守府「将軍」源頼義の後継者であることを誇示した頼朝が、自らの地位を象徴するものとして、武士社会における鎮守府「将軍」を超える権威として「大将軍」の称号を望んだとする説が出されている(西田友広「本巻の政治情勢」 五味文彦本郷和人・編『現代語訳 吾妻鏡5 征夷大将軍』吉川弘文館、2009年 所収。川合康『日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権』吉川弘文館、2009年)。

出典

  1. ^ 『張州府志』に尾張幡屋生まれとある。
  2. ^ 『尾張志』には尾張幡屋で生まれた事から幡屋武者王といったともある。
  3. ^尾張名所図会』(前編、5巻)には出生地として熱田神宮西の誓願寺が記載されている。
  4. ^系図纂要』にも尾張幡屋で生まれた事から幡屋武者王といったとある。
  5. ^ 出生地とされる熱田神宮西の誓願寺には「右大将頼朝公誕生舊地」と刻まれた石碑が立つ。
  6. ^ 「鬼武丸」は『続群書類従』所収の「清和源氏系図」による。「鬼武者」は『系図纂要』による。
  7. ^ a b 『清檞眼抄』
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p吾妻鏡
  9. ^源平盛衰記
  10. ^ a b c d e f g玉葉
  11. ^吉記
  12. ^ 常陸においては佐竹氏が未だに反抗していたとの見方もある。詳細は金砂城の戦い参照
  13. ^ 白根靖大「王朝社会秩序の中の武家の棟梁」(初出:『歴史』91号(東北大学東北史学会、1998年)、所収:白根『中世の王朝社会と院政』(吉川弘文館、2000年) ISBN 978-4-642-02787-8 P180-207)
  14. ^ 黒田日出男 『源頼朝の真像』 角川学芸出版、2011年 ISBN 978-4-04-703490-7
  15. ^ a b c 小長谷、2004年、P.74


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