中世法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/06 03:49 UTC 版)
中世は慣習法が優位の時代で、本所法・武家法・公家法の三体系から成立する。 平安時代後期には古代からの律令制が解体し各地で荘園が成立し、荘園の領家・領主を公法上の権力主体とする本所法が成立する。本所法には家司や寺院が掌握していた裁判権に由来する家務法、荘園のもつ不入権に由来する荘園法があり、特に多大な荘園を集積した寺院のもつ家務法(寺家の法)が発達した。 一方、平安中期以来、各地で武士階級が成立し、武家の主従関係を根幹とする封建道徳、武家の道理が慣習法となり、武家法が成立する。武士はその経済的基盤を荘園においたため、武家法は本所法・荘園法に起源をもつものが多く、武家政権と朝廷との関わりから公家法の影響も受けた。 慣習法である武家法は武家政権である鎌倉幕府の成立に伴い一部が成文化され、主として式目・式条と称される成文法が将軍御教書の形で発布された。『吾妻鏡』に拠れば、貞永元年(1232年)8月10日には執権・北条泰時が中心となって御成敗式目が制定された。これに続き、裁判の判例など慣習をまとめた追加法が成立する。 これらの法律は、後の法律にも大きく影響を及ぼし、建武式目や戦国大名の分国法(戦国法)、徳川幕府の武家諸法度、現代の法律にまで影響を及ぼしたとされる。 本所法・武家法・公家法は鎌倉時代にはそれぞれの法体系が並立していたが、公家法は南北朝時代に建武政権の成立で一時興隆するがやがて衰え、室町時代には武家法が優位の時代となった。 戦国時代には数郡から数カ国の支配領域を持つ戦国大名が出現し、戦国大名の中には、在地法で対処できなくなった問題解決のため戦国法(分国法)を制定する大名もいた。戦国法の制定をもって、戦国大名の支配領域を主権的な「国家」と評価する地域国家論もある。
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