興隆
興隆
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1980年代の台湾市場には上千科技『大千中文系統』、宏碁(エイサー)『龍碟中文系統』、國喬電腦『國喬中文系統』、後に市場に参入した延伸科技『震漢中文系統』などといった、多数の中国語システムが存在した。当時、一般には知的財産権は周知されておらず、よって倚天は漢字を表示するハードウェアの開発によって主な利益を得ていた。純正のソフトウェアディスクにはコピープロテクトがなかったため、コピー品が広まって多くの人に使われることになった。中国でのPC開発の歴史において、倚天中文系統は多くの特殊なソフトウェアに共通の互換性をもたらしたという、非常に重要な役割を果たした。 倚天の名前は金庸の武俠小説『倚天屠龍記』が由来で、一部の人から「設立当時、競合企業の龍碟を打倒すべく倚天屠龍(倚天が龍を切り裂く)とした」と噂されたが、倚天は「倚天屠龍記を読めば分かるように、武林を震撼させる奇金を討伐するために倚天剣と屠龍刀は協力していた」として、この説を否定している。 その初期のユーザーマニュアルを含む出版物だけでなく、純正品のユーザーに配布された『倚天人』という雑誌でも指摘されていたように、当時SF映画『E.T.』がもっとも高い興行収入を誇っていて、その時の中国と海外の流行を受けて「倚天」と掛け合わせ、メインプログラムのファイル名がET.COMと命名された。 最盛期には華康科技(ダイナコムウェア)が製造していた『金蝶卡』シリーズにしばしば搭載された。これは角がスムースで高品質の大きな字を表示することで、文書の可読性を向上した。新聞や雑誌に対抗する表示品質はより美しいDTPシステムに影響を与え、初期に『シェイクスピア』などを発行した新人類資訊も倚天環境をベースにDTPシステムを構築した。 後に開発された國喬などの他のブランドもまたユーザーの利便性のために『國喬プリセット・倚天シミュレーション』を設計に取り入れ、ユーザーにより多くの選択可能な操作手段を提供した。
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興隆
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興隆観測所は、北京天文台における光・赤外天文学の観測拠点である。 観測所の候補地選びは、北京天文台設立に先立つ1957年には始まっていた。北京、天津の周辺で大気が安定しており、運用上も都合の良い場所を求め、調査は7年に及んだ。1964年には観測所の場所を、河北省興隆県南双洞村聯營寨と決定、1968年に観測所が完成した。興隆観測所は、標高が平均およそ900 mの森の中に位置し、年間に晴天がおよそ200夜、測光夜はおよそ100夜を見込め、空気の透明度やシーイングも良好とされる。 当初は、沙河観測所から移設した東ドイツ製の口径40 cm双眼アストログラフ、60 cm/90 cmのシュミットカメラ、そして所期の目標であった口径2 m望遠鏡の試験機となる60 cm反射望遠鏡で、観測が始まった。 2m望遠鏡計画は、文化大革命により興隆観測所の開所前に中断を余儀なくされたが、1974年に計画は再開、1989年に口径2.16m反射望遠鏡が完成した。この望遠鏡は当時、東アジア最大の光学望遠鏡であった。2.16 m望遠鏡の前年には、口径1.26 m赤外線望遠鏡も完成しており、興隆観測所は東アジア随一の光・赤外線天文学の観測拠点である。
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興隆
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1854年春、ノウ・ナッシングはボストン市、セイラム市などニューイングランドの都市を制した。1854年秋の選挙ではマサチューセッツ州議会を制し、その最大の勝利となった。フィラデルフィア市長選に出馬したホイッグ党の候補者ロバート・T・コンラッドは、間もなくノウ・ナッシングのメンバーであることが分かった。コンラッドは、犯罪率を下げること、日曜日には酒場を閉めること、およびアメリカ生まれの者を役職者に指名することを約束した。コンラッドは地滑り的勝利を掴んだ。ワシントンD.C.では、ノウ・ナッシングの候補者ジョン・T・タワーズが現職のジョン・ウォーカー・モーリーを破り、首都における民主党、ホイッグ党、自由土地党が「反ノウ・ナッシング党」として団結したものに対抗できることを示した。ニューヨーク州では、四つどもえの選挙の中で、ノウ・ナッシング候補者は投票総数の26%を獲得して第3位になった。1854年秋の選挙以後、メイン州、インディアナ州、ペンシルベニア州およびカリフォルニア州ではかなりの影響力を及ぼしたとしているが、党の秘密性に加えて、党内が混乱していたこと、反奴隷制度と禁酒の問題が外国人排斥の問題と複雑に絡み、混同されたことのために、これを疑問視する歴史家もいる。ノウ・ナッシングはサンフランシスコ市長スティーブン・パルフレイ・ウェブとカリフォルニア州知事J・ニーリー・ジョンソンを当選させた。この時点でも中央組織がなく、非公式の運動だった。1854年の選挙の結果はノウ・ナッシングにとって好ましいものだったので、公式には「アメリカン党」と呼ぶ政党を結成し、当時は解散しかかっていたホイッグ党の元党員や民主党と禁酒運動家のかなりのメンバーを入党させた。アメリカン党の党員数は、この年の数か月の間に5万人から推計100万人以上にまで劇的に増加した。 この頃政党に対する忠誠心が混乱していたので、同一人がアメリカン党、民主党および共和党の候補者に投票することもあった。これと時期を同じくして、北部の多くの州では新しい共和党が大きな勢力を持って出現した。アメリカン党の場合は著名な政治家が少なく、指導者もあまり政治経験が無かった。大きな例外はインディアナ州のスカイラー・コルファクスとマサチューセッツ州のヘンリー・ウィルソンであり、どちらも共和党員になって、副大統領に選ばれた。 ノウ・ナッシングのある歴史家は次のように結論づけている。 1854年にノウ・ナッシングが成功した主要因は第二政党制の崩壊であり、それは主にホイッグ党の消滅によってもたらされたものだった。ホイッグ党は内部の不一致と慢性的な派閥抗争によって時間と共に弱ってきており、カンザス・ネブラスカ法(1854年)によってほとんど死に体になっていた。反奴隷制度や禁酒および外国人排斥によって大きくなった反党感情が党体制の分裂にも影響した。第二政党制の崩壊によって、ノウ・ナッシングにはそれ以前の外国人排斥組織よりも大きな転向者を容れる余地ができ、昔の外国人排斥集団が失敗した場所での成功を遂げることができた。 — Tyler G. Anbinder、Nativism and Slavery, p. 95 1854年、アメリカン党の党員がワシントン記念塔にピウス9世が寄付した花崗岩の塊を盗み破壊したとされている。また記念塔の建設協会を乗っ取り、4年間支配した。その間に生じた遅れを取り戻し、修復する必要があった(詳細はワシントン記念塔#建設を参照)。 1854年のカリフォルニア州では、サム・ロバーツがサンフランシスコでノウ・ナッシングの支部を作った。この集団は中国とアイルランドからの移民に反対して結成された。 1855年春、リーバイ・ブーンがノウ・ナッシングとしてシカゴ市長に選出された。ブーンは市の職から全ての移民を閉め出した。しかし、州全体を見ると共和党のエイブラハム・リンカーンがそれ以上の成功を阻止した。オハイオ州は1855年にノウ・ナッシングが勢力を得た唯一の州だった。オハイオ州での成功は移民、特にドイツ系ルーテル派信徒とスコットランド・アイルランド系長老派教会員の支持を得たことから来ており、これらの教徒はカトリック教徒に対抗していた。アラバマ州のノウ・ナッシングは、元ホイッグ党員、反体制派民主党員およびその他政治的アウトサイダーの混成であり、鉄道建設を州が助成することに賛成していた。大荒れの1855年選挙では、アラバマ・ノウ・ナッシングでは北部の奴隷制度反対論者から奴隷制度を守れないと、民主党が州内有権者を説得することで勝利できた。 ノウ・ナッシングは1854年の北部州選挙では驚くべき勝利を収め、マサチューセッツ州議会を制し、ペンシルベニア州では投票総数の40%を獲得していた。新しい移民の大半は北部州に居住していたが、彼等に対する不満と怒りは全国的なものであり、アメリカン党は南部でも元ホイッグ党員の多くの票を得て、当初は選挙をうまく戦った。 ノウ・ナッシングに富裕な者は少なかったが、ある歴史家が元党員の名簿を詳細に研究した結果によると、その収入、職業、社会的地位は平均的なものだった。10%未満の者が非熟練労働者であり、アイルランドからの労働者と直接競合する関係にあった。ノウ・ナッシングは農夫をほとんど入れなかったが、一方で多くの商人や工場経営者を入会させた。党に投票するのは全てがアメリカ合衆国の生まれとは限らなかった。というのも多くの州レベル選挙では、ドイツやイギリスのプロテスタントのうち4分の1以上から得票していたからだった。特にルーテル派、オランダ改革派および長老派教会にアピールしていた。 党の名前は幅広いが短期間の人気を得た。外国人排斥主義は新しいアメリカの流行となり、ノウ・ナッシング・キャンディ、ノウ・ナッシング・ティー、ノウ・ナッシング爪楊枝まで現れた。駅馬車には「ザ・ノウ・ナッシング」という渾名が付いた。メイン州トレスコットの船主は、新しい700トン貨物船に「ノウ・ナッシング」と命名した。 ノウ・ナッシングは時として同時代人から、多少軽蔑的に短縮した「ケイニズム」("Knism")と呼ばれることがあった。
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