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みなもと-のよしつね 【源義経】

(1159-1189) 平安末・鎌倉初期武将。義朝の九男。母は常盤(ときわ)幼名牛若丸・九郎・遮那(しやな)王。検非違使尉(判官)に任ぜられたので九郎判官とも。平治の乱後、鞍馬寺預けられ、のち奥州平泉藤原秀衡(ひでひら)保護を受けた。1180年頼朝挙兵に応じて84年源義仲を討ち、一谷・屋島・壇浦に平家一族を破った。のち後白河院信任得て頼朝対立、再び秀衡のもとに逃れたが、その子泰衡に襲われ、衣川自刃した。悲劇的生涯伝説文学作品素材となって後世伝えられる。


映画情報

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源義経

原題:
製作国:日本
製作年:1955
配給:
スタッフ
監督:萩原遼 ハギワラリョウ
製作:大川博 オオカワヒロシ
原作:村上元三 ムラカミゲンゾウ
脚本:八尋不二 ヤヒロフジ
企画:マキノ光雄 マキノミツオ

藤本真澄 フジモトサネズミ

大森康正 オオモリヤスマサ
撮影:吉田貞次 ヨシダサダジ
音楽:小杉太一郎 コスギタイチロウ
美術:塚本隆治 ツカモトリュウジ
録音:中山茂二 ナカヤマシゲジ
照明:和多田弘 ワタダヒロシ
キャスト(役名
中村錦之助 ナカムラキンノスケ (牛若丸
月形龍之介 ツキガタリュウノスケ (武蔵坊弁慶
中原ひとみ ナカハラヒトミ (うつぼ)
三条雅也 サンジョウマサヤ (新宮源次正綱)
原健策 ハラケンサク原健作 (四条正門坊)
明石潮 アカシウシオ (東光忍)
三島雅夫 ミシママサオ (覚日)
夏川大二郎 ナツカワダイジロウ (隆恵)
中野雅晴 ナカノマサハル (喜三太
片岡栄二郎 カタオカエイジロウ (能登守教経)
龍崎一郎 リュウサキイチロウ (金売り吉次
月丘千秋 ツキオカチアキ (あかね)
水野浩 ミズノヒロシ (七郎次)
山田五十鈴 ヤマダイスズ (常盤
植木基晴 ウエキモトハル (小福丸
植木千恵 ウエキチエ (真砂
中村時蔵 ナカムラトキゾウ (一条大蔵卿
小沢栄 オザワサカエ (平清盛
吉田義夫 ヨシダヨシオ (伊勢三郎
宮川玲子 ミヤガワレイコ (延寿の前)
神田隆 カンダタカシ (与八昌常)
河部五郎 カワベゴロウ (常陸坊海尊
浦里はるみ ウラザトハルミ (あづま)
加賀邦男 カガクニオ (薩摩守忠度
大丸巖 ダイマルイワオ (土佐坊昌俊
高松錦之助 タカマツキンノスケ (太)
月形哲之介 ツキガタテツノスケ (五郎兵衛
解説
朝日新聞連載小説から「虚無僧系図」の八尋不二脚本書き、「あばれ纏千両肌」の萩原遼監督する。撮影は「天兵童子 三部作」の吉田貞次出演者は「あばれ纏千両肌」の中村錦之助月形龍之介、「終電車の死美人」の中原ひとみ、「弥太郎笠(1955)」の山田五十鈴歌舞伎中村時蔵、「飛燕空手打ち 三部作」の月丘千秋、「しいのみ学園」の龍崎一郎、「まぼろし小僧の冒険 第一篇・第二篇」の片岡栄二郎など。
ストーリー※ストーリーの結末まで記載されていますので、ご注意ください
承安四年、牛若丸鞍馬山忍の仏門下にあって平家全盛の世を忍んでいた。母常盤は、子供三人の命代りに、平家屈辱の身を下し一条大蔵卿の妻となった。牛若思慕寄せるのは、うつぼという里の乙女だった。京では平家横暴によって新宮の領を追われた熊野別当湛宗の訴訟をめぐり、弁慶はじめ山法師達と平家一門対立していた。牛若の命を狙う張本人平忠盛であったが、弁慶蔭ながら牛若助け立場になった。ある時、うつぼは鞍馬山下り牛若を追った。折柄弁慶等と教経旗下一党騒乱に捲き込まれたうつぼは、教経の鞭に打たれて路上倒れたが、それを見た牛若は思わず教経を打ち据えた。だがそれが清盛の耳に達し牛若の危険は迫った。一条大蔵卿清盛牛若命乞いをしたため、若狭の国へ移されることになった。牛若常盤との最后の対面のため一条邸を訪ねた。その帰途五条橋上弁慶が教経と見誤って牛若に襲いかかったが、逆に牛若のためにやられ主従の誓を立てた。やがて金売り吉次進言に動かされ、牛若一行鞍馬下り奥州へ向かった。


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源義経

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/18 15:40 UTC 版)

源 義経(みなもと の よしつね、源義經)は、平安時代末期の武将である。
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注釈

  1. ^ 義経の少年期を記した「牛若奥州下りの事」の部分は金刀比羅宮本にはなく、学習院本、京師本による。
  2. ^ この時の常盤の逃亡やその後の話は『平治物語』や『義経記』などの軍記物に詳しいが軍記物の性格上どこまでが事実を語っているかの判定が難しい。
  3. ^ 軍記物や伝説によると11歳(15歳説も)の時、自分の出生を知ると、僧になる事を拒否して鞍馬山を駆け回り、武芸に励んだ鞍馬山で天狗の面を被った落人から剣術の手解きを受けたとされている。
  4. ^ 藤原秀衡の庇護を得たことについて、伝承によれば遮那王16歳の時に、金売吉次という金商人の手配によったというが、この人物は当時多くいた奥州と都を行き来する商人達を元にした虚構の人物と思われる。
  5. ^平家物語』『源平盛衰記』による。『吾妻鏡』寿永3年2月7日条でも、義経が精兵70騎を率いて鵯越から攻撃したとあり、義経はこの合戦で大きな働きをしたとされている。ただし近年、この「戦い」において義経が果たした役割や、「逆落とし」が実際にあったか等については、様々な異論も提示されている。詳細は一ノ谷の戦い参照。
  6. ^ 『吾妻鏡』6月21日条には、義経は強く任官を望んでいたが、頼朝はあえて許さなかった旨の記載がある。この人事は知行国主頼朝の下にあって兵糧徴収を行なう任務がある範頼らと、在京して平氏との最前線に位置する義経との役割の差であったとみなす説がある(元木 [2007])。
  7. ^ なお『吾妻鏡』によると義経の西国出陣の停止は次のような理由になっている。頼朝の推挙を得ずに後白河によって左衛門少尉検非違使少尉判官)に任官し、従五位下に叙せられ院への昇殿を許された。鎌倉には「これは自分が望んだものではないが、法皇が度々の勲功を無視できないとして強いて任じられたので固辞する事ができなかった」と報告。頼朝は「意志に背く事は今度ばかりではない」と激怒して義経を平氏追討から外してしまう。しかし、最近の研究によると義経が西国へ出陣しなかったのは三日平氏の乱の影響の為であって、任官はこの時期にはさほど問題となっていなかったのではないかという見解がある(元木 [2007]、菱沼 [2005])。
  8. ^ 従来はこの出陣は『吾妻鏡』元暦2年(1185年)4月21日条、5月5日条の記載に基づき頼朝の命令によって行なわれたとみなされていた。しかし下記のことからこれに疑義を示す見解が強まっている。『吾妻鏡』元暦2年正月6日条には、範頼に宛てた同日付の頼朝書状が記載されている。その内容は性急な攻撃を控え、天皇・神器の安全な確保を最優先にするよう念を押したものだった。一方、義経が出陣したのは頼朝書状が作成された4日後であり(『吉記』『百錬抄』正月10日条)、屋島攻撃による早期決着も頼朝書状に記された長期戦構想と明らかに矛盾する。吉田経房が「郎従(土肥実平・梶原景時)が追討に向かっても成果が挙がらず、範頼を投入しても情勢が変わっていない」と追討の長期化に懸念を抱き「義経を派遣して雌雄を決するべきだ」と主張していることから考えると、屋島攻撃は義経の「自専」であり、平氏の反撃を恐れた院周辺が後押しした可能性が高い。『平家物語』でも義経は自らを「一院の御使」と名乗り、伊勢義盛も「院宣をうけ給はって」と述べている。これらのことから、頼朝の命令で義経が出陣したとするのは、平氏滅亡後に生み出された虚構であるとする見解もある(宮田敬三「元暦西海合戦試論-「範頼苦戦と義経出陣」論の再検討-」『立命館文学』554、1998年)。
  9. ^ 『平家物語』や『源平盛衰記』などの軍記物語では、治承・寿永の乱において義経の参加した合戦は、義経の戦法や機転が戦況を左右したように描かれている。義経が戦の作法を無視して、水手と梶取を射殺した話はドラマや小説等によく見られるが、『平家物語』では義経が水手・梶取を射るよう命じる場面はなく、もはや大勢が決した「先帝身投」の段階で源氏の兵が平氏の船に乗り移り、水手や梶取を射殺し、斬り殺したと描かれている。なお安田元久は、「このとき義経は、当時としては破天荒の戦術をとった。すなわち彼は部下に命じて、敵の戦闘員には目もくれず、兵船をあやつる水手・梶取のみを目標に矢を射かけさせたのである」(『日本の武将7 源義経』人物往来社、1966年)という独自の見解を示している。根拠が不明であり仮説・推測の域を出ていないが、非戦闘員を射殺する義経の卑怯な戦法という解釈はここから生まれたと思われる。
  10. ^ a b 「判官どのは君(頼朝)の代官として、その威光によって遣わされた御家人を従え、大勢の力によって合戦に勝利したのにもかかわらず、自分一人の手柄であるかのように考えている。平家を討伐した後は常日頃の様子を超えて猛々しく、従っている兵達はどんな憂き目にあうかと薄氷を踏む思いであり、皆真実に和順する気持ちはありません。自分は君の厳命を承っているものですから、判官殿の非違を見るごとに関東の御気色に違うのではないかと諫めようとすると、かえって仇となり、ややもすれば刑を受けるほどであります。幸い合戦も勝利した事なので早く関東へ帰りたいと思います」
  11. ^ 延慶本『平家物語』によれば一回鎌倉に入って頼朝と対面したことになっている。
  12. ^ 近年の研究では、義経が平家追討を外されたのは京都の治安維持のためであり、『吾妻鏡』が前年7月の検非違使任官が頼朝との対立の原因としているのは誤りであるとの見方がされている(上横手ら [2004] 上横手雅敬,p.43-44、元木 [2007] p.129-130,三日平氏の乱参照)。『玉葉』は元暦2年6月30日条に「九郎に賞無きは如何、定めて深き由緒あるか」と恩賞の不平等を書いているが、頼朝は8月の除目で義経を伊予守に推挙し、相応の恩賞を用意していた。受領就任と同時に検非違使を離任するのが当時の原則であったが、義経は後白河院の慣例を無視した人事により伊予守就任後も検非違使・左衛門尉を兼帯し続け、兼実は「大夫尉を兼帯の条、未曾有、未曾有」と書いている。元木は義経の鎌倉召還が不可能になった文治元年8月の「検非違使留任」が両者亀裂の決定的要因であるとしている(p.154-156)。一方、本郷和人は、定まった組織ではなかった幕府創設期の頼朝にとって、御家人が朝廷に接近する自由任官は大きな問題であり、従来の説通り、任官問題は頼朝と義経の決裂、義経没落の発端であるとする(『武力による政治の誕生』講談社選書メチエ,2010年)。
  13. ^ 頼朝は範頼に充てた書状で平氏が三条高倉宮(以仁王)、木曽義仲が「やまの宮・鳥羽の四宮(実際には後白河法皇皇子の円恵法親王)」を殺害したこと(すなわち皇親の殺害行為)が没落につながったと捉えて安徳天皇の保護を厳命(『吾妻鏡』所収「文治元年正月六日源頼朝書状」)し、剣璽の確保についても同様の命令(『吾妻鏡』文治元年3月14日条)を出しており、義経にも同様の命令が出されたとみられている。にも拘わらず、義経は安徳天皇を保護できず、更に行方不明の宝剣に関しても宇佐八幡宮に発見の祈願を行った(『延慶本平家物語』)だけで積極的に捜索しなかった。なお、頼朝および朝廷は範頼や佐伯景弘らに命じて以後2年近くも海人を用いた宝剣捜索を行ったこと(『吾妻鏡』文治元年5月5日条および文治3年6月3日条、『玉葉』文治2年3月4日条および文治3年9月27日条)が知られている谷昇「後鳥羽天皇在位から院政期における神器政策と神器観」(初出:『古代文化』60巻2号、2008年/所収:谷『後鳥羽院政の展開と儀礼』思文閣出版、2010年)。
  14. ^ なお、『延慶本平家物語』によれば、義経は一旦鎌倉に入って頼朝と対面した後都に戻ったとされている。また、現存する「腰越状」と伝えられるものへの真偽を疑う説もある
  15. ^ 宣旨作成者は高階泰経、同経仲、同隆経、平親宗、小槻隆職、藤原光雅。親義経派の腹心として難波頼経平業忠平知康。結構衆(企てた者たち)として一条能成中原信康、平業忠(腹心)、藤原章綱(藤原範綱)、平知康(腹心)、藤原信盛、藤原信実 (信盛の子)、藤原時成、中原信貞。
  16. ^ 藤原範季藤原朝方興福寺聖弘鞍馬寺東光房など。
  17. ^ 盛嗣は屋島合戦の矢合わせでも、義経を「みなしごの稚児、金商人の従者になった小冠者」と罵っている。
  18. ^ 同書では母親の常盤は絶世の美女とされており(『平治物語』『義経記』)、容姿が重視されて源義朝の側室となった。父親の義朝については、面識のあった佐藤兄弟の母が義経と対面した際、「こかうの殿をおさなめによきおとこかなと思ひたてまつりしが、さうあしくこそおはすれども、その御子かとおぼゆる(亡き左馬頭殿(義朝)は幼心にもよい男だと拝見しましたが、あなたは父上に比べて見劣りするけれども、そのお子かと思われます)」と述べている。(『平治物語』京師本)
  19. ^ 判官(ほうがん)とは義経が後白河法皇より任じられた左衛門尉検非違使を兼ねた官職名。「はんがん」とも。
  20. ^ 『金史別本』は金王朝の正史である『金史』の外伝とされるが、実際にはそのような書物は中国には存在しない。また沢田源内は偽家系図作りの名人であり、現代では『金史別本』は偽書であるとされる。

出典

  1. ^ 雲際寺の位牌より
  2. ^尊卑分脈
  3. ^ 『吾妻鏡』では「弱冠一人」で宿所を訪れたとあり、『源平盛衰記』では20騎、『平治物語』では100騎を率いていたとする。
  4. ^ a b玉葉』7月30日条
  5. ^ 『玉葉』11月2日条
  6. ^ 『玉葉』11月7日条
  7. ^ 『玉葉』12月1日条
  8. ^ 安田 [1966] p164.p178
  9. ^ 上横手ら [2004] 野口実,p.95
  10. ^ 大三輪ら [2005] 下山忍,p.154
  11. ^ 甲冑の奉納に関しては五味文彦・櫻井陽子編[2005]『平家物語図典』p.11,小学館。
  12. ^ 上横手ら [2004] 関俊彦 p.258


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