和田合戦とは? わかりやすく解説

和田合戦

読み方:ワダガッセン(wadagassen)

鎌倉初期合戦


和田合戦

読み方:ワダガッセン(wadagassen)

初演 元文2.夏(大坂・あやめ座)


和田合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/06 16:16 UTC 版)

和田合戦(わだがっせん)は、鎌倉時代初期の建暦3年(1213年)5月に鎌倉幕府内で起こった有力御家人和田義盛の反乱である。和田義盛の乱とも呼ばれる。


  1. ^ 明月記』によると、和田軍は広元邸の酔客をみな殺害し、火を放って防御の構えを焼き、室屋を一つも残さなかったとある。
  2. ^ 山本みなみ『史伝 北条義時』小学館、2021年、p193
  3. ^ 山本みなみ『史伝 北条義時』小学館、2021年、p193-194
  4. ^ 藪本勝治「『吾妻鏡』の文脈と和田合戦記事」『軍記と語り物』第56号、2020年
  5. ^ 山本みなみ「和田合戦再考」『古代文化』第68巻第1号、2016年
  6. ^ 石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』(中公文庫、1974年)p302
  7. ^ 坂井孝一『源実朝 「東国の王権」を夢見た将軍』(講談社選書メチエ、2014年)
  8. ^ 山本幸司『日本の歴史9 頼朝の天下草創』(講談社、2001年)
  9. ^ 永井晋『鎌倉源氏三代記 一門・重臣と源家将軍』(吉川弘文館 歴史文化ライブラリー、2010年)
  10. ^ 坂井孝一『源氏将軍断絶 なぜ頼朝の血は三代で途絶えたか』(PHP新書、2021年)
  11. ^ 永井晋『北条政子・義時の謀略 鎌倉幕府争乱期を読む』(ベストブック、2022年)
  12. ^ 平井ほか 1980 p.313
  13. ^ 港南の歴史研究会 1986 p.70
  14. ^ 「野庭の「関城」と周辺 上大岡・野庭」横浜市公式HP


「和田合戦」の続きの解説一覧

和田合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 13:28 UTC 版)

和田義盛」の記事における「和田合戦」の解説

詳細は「和田合戦」を参照 建暦3年1213年2月、義盛が上総伊北荘下っている最中に、泉親衡頼家遺児擁立して北条氏打倒しようとする陰謀露見泉親衡の乱)。関係者自白から義盛の子義直、義重、甥の胤長の関与明らかにされた。 3月、義盛は鎌倉戻って実朝に子や甥の赦免願い出て、子は許されるが、甥の胤長のみは張本人であるとして許されなかった。助命嘆願訪れた和田一族90人が控え将軍御所南庭で胤長は縄で縛られ引き立てられ和田一族大きな恥辱与えた。 胤長は陸奥国配流となり、鎌倉の邸は没収された。義盛は罪人屋敷一族下げ渡される慣わしであるとして自分賜るよう求めた。この願い聞き届けられるが、そのすぐ後に義時は乱の平定手柄のあった別の御家人に胤長旧邸を下げ渡してしまった。 重ね重ねの、この義時挑発に対して、義盛は横山党や反北条派を誘い挙兵決意する鎌倉では流言飛語飛び騒然とした4月27日憂慮し実朝使者を義盛の邸へ送った使者に対して、義盛は「上(実朝)には全く恨みはございません。相州義時)のあまりに傍若無人について仔細訊ねるべく発向ようとしているだけです」と答えた挙兵に際して最も頼りにしたのが、本家に当たる三浦氏当主・義であった。義挙兵への同心約束し起請文まで書いた。だが、義は弟の胤義と相談して変心して義盛謀反義時通報する5月2日、義盛は一族と共に挙兵鎌倉激し市街戦展開された。武勇知られる和田一族奮戦し中でも三男朝比奈義秀は最もめざましく戦った。だが、義時方に新手次々到着し、夜までに和田一族疲れ由比ヶ浜後退して援軍待った。翌3日朝、横山党到着しその他の味方到着して、再び勢い盛り返した和田方が意外な大軍になりつつあるのを恐れた義時大江広元将軍実朝の名で御教書発する。これに多く御家人応じ実朝の命を受けた幕府軍大軍となって押し返した。夕刻までに和田一族次々と討たれそのうち愛息義直討ち死にし老いた義盛は声をあげて悲嘆号泣した。そこへ江戸義範の郎党襲いかかり、遂に討ち取られた。享年67。 子の義重、義信、秀盛は討ち死にするが、常盛、朝比奈義秀、孫の朝盛らは戦場脱して落ち延びた『愚管抄』は「義盛左衛門云う三浦長者義時深く嫉みて討たんとの志ありけり」と記しており、京都では叔父三浦義澄死後の三浦一族家長は、義盛と見ていたと思われる鎌倉では八幡宮三の鳥居近く小町通り側、現在の鎌倉彫椿堂辺り邸宅があった。義盛が戦死した由比ヶ浜には、現在でも「和田塚」という地名残っている。

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和田合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/13 08:37 UTC 版)

中村氏 (相模国)」の記事における「和田合戦」の解説

詳細は「和田合戦」を参照 頼朝再起すると、中村党もこれに従い平家追討奥州合戦参加し鎌倉幕府樹立に功を立てている。なお、中村氏本宗絶え土肥土屋一族中枢を担うようになったが、『吾妻鏡』[要文特定詳細情報]にも「土肥土屋一族」と記載している。 建保元年1213年)の和田合戦には、土肥土屋岡崎一族和田方に加わり多数の者が討ち死にしたことが『吾妻鏡』[要文特定詳細情報]に見出されるその後生き残った一族は、甲斐越中安芸などの豪族として発展した

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