奥州合戦
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奥州合戦(おうしゅうかっせん)は、文治5年(1189年)7月から9月にかけて、鎌倉政権と奥州藤原氏との間で東北地方にて行われた一連の戦いの総称である。この戦役により、源頼朝による武士政権が確立した。また治承4年(1180年)に始まる内乱時代(治承・寿永の乱)の最後にあたる戦争でもある。
- ^ 『多賀城市史』第1巻418-420頁。
- ^ 入間田宣夫「鎌倉幕府と奥羽両国」、『中世奥羽の世界』42-43頁。
- ^ 『多賀城市史』第1巻419頁。
- ^ 文治5年7月29日 (旧暦)を西暦に換算すると1189年9月18日となる。
- ^ 「都をば 霞とともに 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関(霞の立つ春に京を立ったのに、白河の関に着くとすでに秋風の吹く季節になっていた)」(『後拾遺和歌集』)
- ^ 前九年の役において安倍貞任の首は横山経兼が頼義の命を承り、門客の貞兼に受け取らせ、郎従の惟仲が首を懸けて長さ八寸の釘を打ち付けた。頼朝は経兼の曾孫・時広に命じ、時広の子・時兼が景時から泰衡の首を受け取り、惟仲の子孫・七太広綱に首を懸けさせて同じ長さの釘を打ち付けている。
- ^ 北爪真佐夫は7月20日に後白河法皇の実姉である上西門院が死去しており、19日には朝廷・院はその対応に追われて機能していなかったと考えられ、実際の発給日はこの日よりも後日で、頼朝の出発に合わせる形で後に日付を改めたとしている(北爪真佐夫『中世初期政治史研究』(吉川弘文館、1998年、ISBN 978-4-642-02764-9)。
- ^ 俊衡に関しては『尊卑分脈』に「秀衡舎弟」と記されており、基衡の子で秀衡の弟という説、あるいは基衡の弟・清綱の子で秀衡の従兄弟という説がある。故に俊衡が基衡の子であった場合は、俊衡が清綱の養子になったと解釈でき、俊衡と季衡は従兄弟かつ義兄弟となり、2人の子供たちの続柄にも変化が生じる。
- ^ かつて北陸で最大勢力を誇った平氏方の城長茂、治承4年(1180年)の金砂城の戦いで頼朝軍に敗れた佐竹秀義、源義経の逃亡を見逃したと鎌倉に召され梶原景時に預けられていた摂津渡辺党の源番(みなもとのつがう)など。
- ^ 川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ』(講談社 1996年)
- ^ 義経が泰衡によって討たれ、その首級が鎌倉に届けられることになった際の使者を、『吾妻鏡』では「新田冠者高平」と伝えているが、この人物は高衡のことであった可能性が高い。「新田冠者」は文治五年奥州合戦で捕虜となった樋爪五郎季衡の子経衡に冠されている名称であるので、使者は経衡だった可能性もあるが、義経の首級を届けるという重要な任務の遂行を、泰衡が自らの弟に託したと考えるのはそう不自然なことではないと思われる。また、奥州合戦後に大河兼任の乱を起こした大河兼任の兄弟・新田三郎入道とする研究もある。
奥州合戦
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文治5年(1189年)7月19日、頼朝は藤原泰衡を討つ為に鎌倉を発し、朝政はそれに従う。7月25日、下野古多橋駅(現・宇都宮市)において願を立て宇都宮社を奉幣した折、その宿所にて父・政光が頼朝に食事を献じた。その場には熊谷直家が在り、政光が直家は何者かを質問すると、頼朝は直家を無双の勇士と評し、直家は郎従が少く源平合戦では自ら戦った事によると応えた。政光は朝政・宗政・朝光の兄弟と猶子の宇都宮頼綱に対し、今度は自ら合戦を遂げ無双の御旨を蒙るよう命ずる。頼朝はこれを聞き入興(じゅきょう)した。 8月10日、阿津賀志山の戦いに加わり、守る藤原国衡を破る。8月14日、玉造郡物見岡に泰衡を追い岡を囲む。泰衡は既に逃亡しており、岡には50人弱の郎従が残っていた。それらは朝政らの武勇により、討たれまたは捕らえられる。9月、合戦は泰衡が自らの郎党に討たれ、頼朝らの勝利に終わった。
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奥州合戦
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詳細は「奥州合戦」を参照 平家討滅後の頼朝にとって、鎌倉政権を安定させるためには、潜在的脅威である奥州藤原氏を打倒する必要があった。文治2年(1186年)4月には藤原秀衡に寿永二年十月宣旨で獲得した東海道東山道支配権を理由に奥州から都に献上する年貢は頼朝が取り次ぐと申し入れ、秀衡もこれに応じた。 文治3年(1187年)10月に藤原秀衡が没し、文治4年(1188年)2月に義経の奥州潜伏が発覚すると、頼朝は藤原秀衡の子息に義経追討宣旨を下すよう朝廷に奏上した。頼朝の申請を受けて朝廷は、2月と10月に藤原基成と藤原泰衡に義経追討宣旨を下す。文治5年(1189年)閏4月30日、鎌倉方の圧力に屈した泰衡は衣川館に住む義経を襲撃して自害へと追いやった。 6月13日に義経の首が鎌倉に届き、和田義盛と梶原景時が首実検した。25日、頼朝はこれまで義経を匿ってきた罪は反逆以上のものとして泰衡追討宣旨を朝廷に求めるが勅許は下されなかった。しかし大庭景義の「軍中は将軍の令を聞き、天子の詔を聞かず」という進言により、7月19日、勅許を待たずおよそ1,000騎を率いて鎌倉を発して泰衡追討に向かった(奥州合戦)。頼朝軍はさしたる抵抗も受けずに白河関から奥州南部を進み、8月7日には伊達郡国見駅に達した。 8月8日、石那坂の戦い(現在の福島市飯坂)で、頼朝の別働隊伊佐為宗が信夫庄司佐藤基治(佐藤継信・佐藤忠信の父)を打ち破り、8月8日から10日にかけて行なわれた阿津賀志山の戦いにおいて藤原国衡率いる奥州軍を破った頼朝は、泰衡を追って北上する。22日には平泉を攻略するが、泰衡は館に火を放って逃亡していた。26日、頼朝の宿所に赦免を求める泰衡の書状が投げ込まれたが、頼朝はこれを無視して、9月2日には岩井郡厨河(現在の盛岡市厨川)へ向けて進軍を開始する。厨河柵はかつて前九年の役で源頼義が安倍貞任らを討った地であり、頼朝はその佳例に倣い、厨河柵での泰衡討伐を望んだのである。9月3日、泰衡はその郎従である河田次郎の裏切りにより討たれ、その首は6日に陣岡にいた頼朝へ届けられた。頼朝は河田次郎を八虐の罪(主君への裏切りを含む)に値するとして斬罪に処し、前九年の役で祖先の源頼義が安倍貞任の首を晒した故事に倣って泰衡の首を晒した。9日、京都の一条能保から7月19日付の泰衡追討宣旨が頼朝の下へ届いた。 12日、頼朝は陣岡を出て厨河柵に入り、19日まで逗留して降人の赦免や奥州藤原氏の建立した中尊寺、毛越寺、宇治平等院を模した無量光院の寺領安堵などの処理を行った。平泉に戻って諸寺を巡り感銘を受けた頼朝は、鎌倉に戻った後に中尊寺境内の大長寿院に模した永福寺を建立している。22日、頼朝は奥州支配体制を固めるため葛西清重を奥州総奉行に任命すると、28日に平泉を発ち、翌10月24日に鎌倉へ帰着した。 この奥州合戦には関東のみならず、全国各地の武士が動員された。また、かつて敵対して捕虜となった者に対しても、この合戦に従って戦功を上げるという挽回の機会も与えられていた。さらに、前九年の役の源頼義の先例を随時持ち出すことによって、坂東の武士達と頼朝との主従関係をさらに強固にする役割も果たした。 この奥州合戦の終了で治承4年(1180年)に起きた治承・寿永の乱から続いていた内乱も終結を迎えることになる。
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