奥州合戦とは? わかりやすく解説

奥州合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/18 16:50 UTC 版)

奥州合戦(おうしゅうかっせん)は、文治5年(1189年)7月から9月にかけて、鎌倉政権奥州藤原氏との間で東北地方にて行われた一連の戦いの総称である。この戦役により、源頼朝による武士政権が確立した。また治承4年(1180年)に始まる内乱時代(治承・寿永の乱)の最後にあたる戦争でもある。


  1. ^ 『多賀城市史』第1巻418-420頁。
  2. ^ 入間田宣夫「鎌倉幕府と奥羽両国」、『中世奥羽の世界』42-43頁。
  3. ^ 『多賀城市史』第1巻419頁。
  4. ^ 文治5年7月29日 (旧暦)を西暦に換算すると1189年9月18日となる。
  5. ^ 「都をば 霞とともに 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関(霞の立つ春に京を立ったのに、白河の関に着くとすでに秋風の吹く季節になっていた)」(『後拾遺和歌集』)
  6. ^ 前九年の役において安倍貞任の首は横山経兼が頼義の命を承り、門客の貞兼に受け取らせ、郎従の惟仲が首を懸けて長さ八寸の釘を打ち付けた。頼朝は経兼の曾孫・時広に命じ、時広の子・時兼が景時から泰衡の首を受け取り、惟仲の子孫・七太広綱に首を懸けさせて同じ長さの釘を打ち付けている。
  7. ^ 北爪真佐夫は7月20日に後白河法皇の実姉である上西門院が死去しており、19日には朝廷・院はその対応に追われて機能していなかったと考えられ、実際の発給日はこの日よりも後日で、頼朝の出発に合わせる形で後に日付を改めたとしている(北爪真佐夫『中世初期政治史研究』(吉川弘文館、1998年、ISBN 978-4-642-02764-9)。
  8. ^ 俊衡に関しては『尊卑分脈』に「秀衡舎弟」と記されており、基衡の子で秀衡の弟という説、あるいは基衡の弟・清綱の子で秀衡の従兄弟という説がある。故に俊衡が基衡の子であった場合は、俊衡が清綱の養子になったと解釈でき、俊衡と季衡は従兄弟かつ義兄弟となり、2人の子供たちの続柄にも変化が生じる。
  9. ^ かつて北陸で最大勢力を誇った平氏方の城長茂、治承4年(1180年)の金砂城の戦いで頼朝軍に敗れた佐竹秀義、源義経の逃亡を見逃したと鎌倉に召され梶原景時に預けられていた摂津渡辺党の源番(みなもとのつがう)など。
  10. ^ 川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ』(講談社 1996年)
  11. ^ 義経が泰衡によって討たれ、その首級が鎌倉に届けられることになった際の使者を、『吾妻鏡』では「新田冠者高平」と伝えているが、この人物は高衡のことであった可能性が高い。「新田冠者」は文治五年奥州合戦で捕虜となった樋爪五郎季衡の子経衡に冠されている名称であるので、使者は経衡だった可能性もあるが、義経の首級を届けるという重要な任務の遂行を、泰衡が自らの弟に託したと考えるのはそう不自然なことではないと思われる。また、奥州合戦後に大河兼任の乱を起こした大河兼任の兄弟・新田三郎入道とする研究もある。


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奥州合戦

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小山朝政」の記事における「奥州合戦」の解説

文治5年1189年7月19日頼朝藤原泰衡を討つ為に鎌倉発し朝政はそれに従う。7月25日下野古多駅(現・宇都宮市)において願を立て宇都宮社を奉幣した折、その宿所にて父・政光が頼朝食事献じたその場には熊谷直家在り、政光が直家は何者かを質問すると、頼朝は直家を無双勇士評し、直家は郎従が少く源平合戦では自ら戦った事によると応えた。政光は朝政宗政・朝光の兄弟猶子宇都宮頼綱対し今度は自ら合戦遂げ無双御旨蒙るよう命ずる。頼朝はこれを聞き入興じゅきょう)した。 8月10日阿津賀志山の戦い加わり、守る藤原国衡を破る。8月14日玉造郡物見岡に泰衡を追い岡を囲む。泰衡は既に逃亡しており、岡には50人弱の郎従残っていた。それらは朝政らの武勇により、討たれまたは捕らえられる9月合戦は泰衡が自らの郎党討たれ頼朝らの勝利終わった

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奥州合戦

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源頼朝」の記事における「奥州合戦」の解説

詳細は「奥州合戦」を参照 平家討滅後の頼朝にとって、鎌倉政権安定させるためには、潜在的脅威である奥州藤原氏打倒する必要があった。文治2年1186年4月には藤原秀衡寿永二年十月宣旨獲得した東海道東山道支配権理由奥州から都に献上する年貢頼朝取り次ぐ申し入れ、秀衡もこれに応じた文治3年1187年10月藤原秀衡没し文治4年1188年2月義経奥州潜伏発覚すると、頼朝藤原秀衡の子息に義経追討宣旨下すよう朝廷奏上した。頼朝の申請受けて朝廷は、2月10月藤原基成藤原泰衡義経追討宣旨下す文治5年1189年)閏4月30日鎌倉方圧力屈した泰衡は衣川館に住む義経襲撃し自害へと追いやった。 6月13日義経の首が鎌倉届き和田義盛梶原景時首実検した。25日頼朝これまで義経を匿ってきた罪は反逆上のものとして泰衡追討宣旨朝廷求めるが勅許下されなかった。しかし大庭景義の「軍中将軍の令を聞き天子の詔を聞かず」という進言により、7月19日勅許待たずおよそ1,000騎を率いて鎌倉発して泰衡追討向かった(奥州合戦)。頼朝軍はさしたる抵抗受けず白河関から奥州南部進み8月7日には伊達郡国見駅達した8月8日石那坂の戦い現在の福島市飯坂)で、頼朝別働隊伊佐為宗信夫庄司佐藤基治佐藤継信佐藤忠信の父)を打ち破り8月8日から10日にかけて行なわれ阿津賀志山の戦いにおいて藤原国衡率い奥州軍を破った頼朝は、泰衡を追って北上する22日には平泉攻略するが、泰衡は館に火を放って逃亡していた。26日頼朝宿所赦免求める泰衡の書状投げ込まれたが、頼朝はこれを無視して9月2日には岩井郡厨河(現在の盛岡市厨川)へ向けて進軍開始する。厨河柵はかつて前九年の役源頼義安倍貞任らを討った地であり、頼朝はその佳例倣い、厨河柵での泰衡討伐望んだのである9月3日、泰衡はその郎従である河田次郎の裏切りにより討たれ、その首は6日に陣岡にいた頼朝届けられた。頼朝河田次郎八虐の罪(主君の裏切りを含む)に値するとして斬罪処し前九年の役祖先源頼義安倍貞任の首を晒した故事倣って泰衡の首を晒した9日京都一条能保から7月19日付の泰衡追討宣旨頼朝の下へ届いた12日頼朝は陣岡を出て厨河柵に入り19日まで逗留して降人赦免奥州藤原氏建立した中尊寺毛越寺宇治平等院模した無量光院寺領安堵などの処理を行った平泉戻って諸寺を巡り感銘受けた頼朝は、鎌倉戻った後に中尊寺境内大長寿院模した永福寺建立している。22日頼朝奥州支配体制固めるため葛西清重奥州総奉行任命すると、28日平泉発ち、翌10月24日鎌倉帰着した。 この奥州合戦には関東のみならず全国各地武士動員された。また、かつて敵対して捕虜となったに対しても、この合戦に従って戦功上げるという挽回機会与えられていた。さらに、前九年の役源頼義先例随時持ち出すことによって、坂東武士達と頼朝との主従関係をさらに強固にする役割果たした。 この奥州合戦の終了治承4年1180年)に起きた治承・寿永の乱から続いていた内乱終結迎えることになる。

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