武勇
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孫恩の乱が起きたとき、数十人の兵卒を率いて偵察に出た。そこで数千の敵兵に見つかり包囲された。多くの配下が殺されたところに劉敬宣の援護を受け、撃退を果たす。このエピソードが後に「一人で数千人を殺す武勇を見せた」と伝わる。 桓玄打倒のため建康に攻め上る中、桓玄軍の剛将の呉甫之・皇甫敷と遭遇。この戦いで決起の同胞である檀憑之が戦死、あわや総崩れとなりかけたが、劉裕自ら陣頭に立ってこの両将を討ち取り、逆転勝利をおさめた。
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武勇(たけ いさむ)
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「BUYUDEN」の記事における「武勇(たけ いさむ)」の解説
本作の主人公で、イケメン、秀才、スポーツ万能と三拍子揃った少年。何でも簡単に一番になれてしまう日常に退屈していたが、後に転校してきた萌花に一目惚れしたことをきっかけにボクシングを始めたが、次第に才能を開花させていき、ボクシングにのめり込んで行く。
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武勇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/08 07:21 UTC 版)
石勒は祖逖と連戦して敗れ、彼の武威を恐れた。そのため後趙領内にある祖逖の祖父の墓地を修理して墓守を置いたりした。また祖逖の部下が罪を犯して後趙に逃れて来た際には匿わずにその首を斬って送り返すなど、常に祖逖の意を迎える事に務めたという。 朝廷の権力独占を図っていた王敦にとって目の上の瘤は祖逖だったが、その祖逖が死んだ事に喜んで以後ますます野心を露骨にし出したという。 祖逖が死ぬと、豫州の民はこぞって涙を流し、彼のために祠を建てる事が続いたという。
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武勇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 13:46 UTC 版)
利家は三間半柄(約6m30cm)の長く派手な造りの槍を持ち歩き、初陣以降、緒戦で槍先による功を挙げた武辺者であったため、槍の又左の異名で称えられた。元服前の小姓・前田犬千代として初陣した萱津の戦いでは、合戦の際に目立つ様、自ら朱色に塗った上記の三間半柄の槍を持って首級ひとつを挙げる功を立て、信長は「肝に毛が生えておるわ」と犬千代を賞賛した。 元服直後に参戦した稲生の戦いでは、合戦中に敵方の宮井勘兵衛により右目の下に矢を受け、味方が引くことを促すも、「まだ一つも首級を挙げてない」と顔に矢が刺さったまま敵陣に飛び込み、弓を射た宮井本人を討ち取る功を立て、信長が大いに喜び、「犬千代はまだかような小倅ながらもこのような功を立てたぞ」と、合戦中に味方を鼓舞したとの逸話が残る。この時、利家は矢を抜くことなく戦後の首実検にも参加したという。 稲生の合戦の後、浮野の戦いでも槍先による功を挙げ、この戦いの際に槍の又左の異名がついたとも言われる。 姉川の浅井攻めでは浅井助七郎なる者を討ち取るなどの活躍をみせ信長から「今にはじまらず比類なき槍」と賞賛され、大坂本願寺攻めでは、春日井堤を退却する味方の中でひとり踏みとどまって敵を倒し、無事味方を退却させたことから「日本無双の槍」「堤の上の槍」と称えられている。 長篠の合戦では撤退する武田軍を追撃している際に、弓削左衛門なる者に右足を深く切り込まれる重傷を負い、危うく命を獲られそうになった所を家臣の村井長頼に助けられ一命を得た。 加藤清正は利家からあまり兵法や軍略の話を聞かないと言った嫡子・利長に対し、「あれ程武略に通じた父上がおられるのに勿体ない」と言って羨ましがったという。利家は生涯38の戦に参戦し、その戦い方は織田信長の下で得たものであった。普段から合戦については「合戦の際は、必ず敵の領内に踏み込んで戦うべきだ、わずかでも自分の領国へ踏み込まれてはならない。信長公がそうであった。」と説いていた。またある時、女婿の宇喜多秀家が利家の戦法を質したところ、「先手にいくさ上手な者を一団、二団と配備し、大将は本陣にこだわらず馬を乗り回し、先手に奮戦させて思いのままに兵を動かす」という信長流の戦い方を語ったという。 坂本城の天守に夜な夜な幽霊が出るという噂が立ったとき、自ら肝試しを志願して一晩過ごし、何ごともなかったように天守から戻ってきたため、秀吉から豪胆ぶりを讃えられたと言われている。また、この時に天下五剣の一つ大典太を下賜されたと言われている。
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武勇(赤/黒)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 01:20 UTC 版)
セレクターズパックVol.11から登場。古今東西の英傑に由来。
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武勇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 00:18 UTC 版)
劉備が皇帝に即位した直後の詔勅では、張飛の事を古代の召虎に喩えて、その武勇を賞讃している。また、曹操の参謀であった程昱らから「張飛の勇猛さは関羽に次ぐ」さらに「1人で1万の兵に匹敵する」と、郭嘉も同様に張飛・関羽は共に1万の兵に匹敵するとし、劉備の為に死を以て働いていると、董昭は関羽、張飛は劉備の羽翼であり恐れるべきであると、また劉曄にも「関羽と張飛の武勇は三軍の筆頭である」と評されており、孫権軍の重鎮である周瑜からも「張飛と関羽を従えれば大事業も成せる」と評されるなど、その武勇は天下に広く評価されていた。 ただ、張飛は士大夫と呼ばれる知識人層には敬意をもって応対したものの、身分の低い者、兵卒などには暴虐であった。多すぎる死刑の数と、いつも兵士を鞭打っている上にその当人を側に仕えさせていることを、劉備からは常々注意されていた。しかし張飛は改めることができず、ついに死に直結する事態を招くこととなった。 三国志を著した陳寿は、蜀志「関張馬黄趙伝」の張飛伝の最後に張飛と関羽の人物評を併せて載せ、このように括っている。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}関羽・張飛の二人は、一騎で万の敵に対する武勇があると賞賛され、一世を風靡する剛勇の持ち主であった。関羽は顔良を斬ることで曹操に恩返しを果たして去り、張飛は厳顔の義心に感じ入ってその縄目を解き、両者並んで国士と呼ぶに相応しい気風を備えていた。しかし、関羽は剛毅が行きすぎて傲慢であり、張飛は乱暴で部下に恩愛をかける配慮が無く、これらの短所が仇となって、敢え無く最期を遂げることとなった。理数の常(=道理からして当然)である。(「關羽 張飛皆稱萬人之敵 為世虎臣 羽報效曹公 飛義釋嚴顔 並有國士之風 然羽剛而自矜 飛暴而無恩 以短敢敗 理數之常也」『蜀志巻六・関張馬黄趙伝』)。 陳舜臣はこれを、関羽も張飛も、共に低い身分から士大夫に出世したが、関羽の場合は今や同じ身分となった士大夫に対しての傲慢な振る舞いとなり、張飛の場合は士大夫に出世したことを喜んで同じ身分の者には敬意を払ったが、下の者に対して傲慢になるという正反対の行動になったと解釈している。 唐の史館が選んだ中国史上六十四名将に関羽と共に選ばれている(武廟六十四将)。
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武勇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/29 09:14 UTC 版)
「尼子十勇士」の筆頭とされる。 また、尼子武将の中で特に智勇・忠義に優れた3人、「尼子三傑」(「尼子三勇」)の1人とされる。 山名軍で猛将として知られた菊池音八や、高野監物、有名な品川将員との闘い、松永久秀配下の河合将監をいずれも一騎討ちで討ち取っている。 首供養を2度行っている。首供養は、33の首級を挙げたら1回行う。つまり、生涯で66以上の首級を挙げたことになる。 幸盛は、生まれて数ヶ月で4・5歳の子供のように見え、2・3歳頃には武勇と智略が優れ遊戯も普通の子供と異なり、8歳のとき人を討った。10歳の頃から弓馬・軍法を学び、13歳のときに敵を討ち取って手柄をたてた。成長するにつれ、器量は世に超え、心は強く深謀遠慮、人を賞するにあたって依怙贔屓(えこひいき)がなかった。 16歳のある春の日、幸盛は「今日より30日以内に武勇の誉れ(戦功)を挙げたい」と三日月に祈った。ほどなくして、主君の尼子義久が山名氏の伯耆尾高城を攻め、幸盛もこれに随行する。この戦いで幸盛は、因伯(現在の鳥取県)に鳴り響く豪傑、菊池音八を一騎討ちで討ち取り戦功を挙げる。このため幸盛は、これより一生の間、三日月を信仰したという。 永禄5年(1562年)、毛利軍は出雲へ攻め入り、尼子軍拠点の月山富田城を包囲する。幸盛が1人城下の民家で休息していると、毛利軍の兵30 - 40騎余が攻め寄せてきた。幸盛は民家から出ると、最初に乗り駆けてきた2人の兵を切って落とし、続いて来た兵も乱戦して16・17人を討ち取った。残った兵も幸盛1人で切り立てて撃退している。撃退後、幸盛は民家の年老いた尼に「飯はないか」と言って尋ね、出された椎の葉に盛られた飯を食べ、富田月山城へ帰った。 尼子氏が滅亡し、諸国を放浪していた幸盛が一晩の宿を借りて寺に泊まっていた際、盗賊14人が寺を襲ってきた。幸盛は謀略を用い、1人で盗賊すべてを生け捕りにしてしまった。盗賊は「今まで盗みをすること約100回、戦いも70回あまり行いましたが、このようなことは初めてです。名前を教えてください」と尋ねたが、幸盛は「何を言う、さっさと去れ」と言って、名前を告げずに立ち去った。 品川大膳との一騎討ちについては、史料により異同がある。尼子側の記述『雲陽軍実記』や『太閤記』では、品川は弓を使って鹿介を攻撃しようとしたが、尼子氏の武将に弓を用いて邪魔をされ失敗し、鹿介と品川は接近戦を行い、一進一退の攻防の末に鹿介が品川を見事に討ち取ったと記されている。毛利側の資料『陰徳太平記』では、品川が優勢に勝負を進め、鹿介は追い詰められたが僚友の秋上宗信の助力で勝ったと記されている。史料によって異同があり事実は不明であるが、参考として史料の成立としては『雲陽軍実記』の方が『陰徳太平記』より100年前後古く、『太閤記』は『陰徳太平記』より数十年早く執筆されている。なお、それぞれの史書は、その成立上の経緯もあり、歴史上の事実とは異なる部分も多く、一次資料としての信憑性については、各項目を参照のこと(詳細は「山中幸盛・品川将員の一騎討ち」を参照)。
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武勇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 01:07 UTC 版)
「英雄伝説 軌跡シリーズの登場人物」の記事における「武勇」の解説
尋常ではない達人が居並ぶ結社の中でも最強と目されており、あらゆる武術に精通し、《理》に至った達人であるアリオスをしてその強さは「人の域を超える」と言わせ、《聖痕》を持つワジをして「人間の身では勝てないことが決まっているような強さ」と言わしめるほどの圧倒的な武力を誇る。
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「武勇」の例文・使い方・用例・文例
- 武勇絶倫
- (方略戦に対する)武勇戦
- 我れの武勇をもって彼れの金力に対抗する
- 日本人の武勇は宇内に冠絶す
- 武勇戦に負けて軍略戦で勝つ
- (武勇戦に対する)方略戦
- 武勇戦に負けて方略戦に勝つ
- 彼は武勇のためにメダルを貰った
- 「任務の要求を越えた」戦闘における勇気と武勇に対して与えられる米軍の最高の勲章
- 武装した敵に対しての並はずれた武勇に対する米国軍の勲章
- 軍事的な敵に対する並はずれた武勇に与えられる米国海軍の勲章
- 武勇で有名な古代ギリシャの都市
- 武勇のために尊敬された騎士
- 坂田金平になぞらえた武勇の姿をした浄瑠璃の操り人形
- 金平物という,坂田金平の武勇談を扱った浄瑠璃
- 武勇にすぐれた武士
- 武勇にすぐれた人の伝記
- 武勇にすぐれていること
- 武勇に抜きんでているさま
- 東洋風の武勇伝と西洋風の科学冒険物を組み合わせた冒険小説
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