山名氏とは? わかりやすく解説

山名氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/20 16:31 UTC 版)

日本氏族。幾つかの流れがある。


  1. ^ a b c 尊卑分脈』足利氏の項によると、家祖の山名義範は足利氏一門の矢田義清と新田義重の娘の間の子と記され、山名氏は足利一門として扱われている。
  2. ^ 市川、2018年、P8-9
  3. ^ 市川、2017年、P134-137
  4. ^ 正確には68か国だが、1.陸奥・出羽は守護不設置なので除く、2.「」扱いなので対馬壱岐を除く、3.狭島・遠島扱いの隠岐とあまりにも領土が狭いため伊勢守護が室町時代を通じて兼任の属領扱いの志摩を除いたため通称全国66か国にしたとの3説あり
  5. ^ 市川、2017年、P193-194
  6. ^ 市川、2017年、P201
  7. ^ 市川、2017年、P201-202
  8. ^ 市川、2017年、P202・206・210
  9. ^ 市川、2017年、P210
  10. ^ 。岡村吉彦「戦国期因幡国における守護支配の展開と構造」(初出:『鳥取地域史研究』5号(2003年)/所収:市川裕士 編『シリーズ・中世西国武士の研究 第五巻 山陰山名氏』(戎光祥出版、2018年) ISBN 978-4-86403-293-3) 2018年、P86-125.
  11. ^ 隠居とは名ばかりで亡くなる直前まで実権は祐豊が握っていた(このことが山名氏の衰退の原因であった)
  12. ^ 新田完三 1984, p. 828.
  13. ^ a b c d e f 松田敬之 2015, p. 767.
  14. ^ a b c d 新田完三 1984, p. 829.
  15. ^ 笹間良彦 1999, p. 127.
  16. ^ 但馬の殿様 吉盛智侊著 神戸新聞
  17. ^ 伊豆守 因幡守等 名前は 当人が先祖に所縁のある名前を他の人と重複しないように希望し、与えられた 。伊豆守は他に、松平伊豆守 真田伊豆守等。
  18. ^ 新田完三 1984, p. 830.
  19. ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 467.
  20. ^ 寛政重修諸家譜』による。『寛政重修諸家譜』では清水庄太夫某を初代としている。また清水氏流山名氏は、恒豊流清水氏の 支流、分家となっている。 なお、清水氏・清水氏流山名一門では清水恒豊を初代としている。
  21. ^ a b 兵庫県史編集専門委員会 1975, p. 831.
  22. ^ a b c 総会資料等/一族会の歩み”. 山名氏史料館『山名蔵』 (2014年12月). 2017年4月21日閲覧。
  23. ^ 山名会再興についてご連絡”. 山名氏史料館『山名蔵』 (2011年10月). 2017年4月21日閲覧。
  24. ^ 全國山名一族会 平成24年再興総会” (PDF). 山名会再興準備会 (2012年10月). 2017年4月21日閲覧。
  25. ^ 全國山名氏一族会再興総会のご案内”. 山名氏史料館『山名蔵』 (2012年10月20日). 2017年4月21日閲覧。



山名氏

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七頭」の記事における「山名氏」の解説

侍所所司四職一つ清和源氏のうち河内源氏新田一門

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山名氏

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相伴衆」の記事における「山名氏」の解説

但馬備後安芸守護侍所所司四職家

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山名氏(伯耆家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/08/25 15:23 UTC 版)

国持衆」の記事における「山名氏(伯耆家)」の解説

伯耆守護

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山名氏(石見家)

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国持衆」の記事における「山名氏(石見家)」の解説

石見守護

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山名氏(因幡家)

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国持衆」の記事における「山名氏(因幡家)」の解説

因幡守護

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山名氏

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花の乱」の記事における「山名氏」の解説

山名持豊山名宗全(同「右衛門督」「入道」):萬屋錦之介一休いわく「毘沙門天生まれ変わり」。富子がまだ椿名乗っていた幼い頃一度椿の庄で会ったことがあった。宿老として幕府中枢座していたが赤松家再興巡って義政対立し領国但馬にて長年蟄居する。のち富子や勝元、その妻であり宗全の娘でもある綾のとりなしにより義政和解、京に帰還し河内国岳山城抵抗続けていた義就討伐向かいこれを鎮圧するその折影武者使い自らは一兵卒に身をやつし攻め込んできた義就の正体を見破り、これを許した。春王誕生後は、かつてより因縁のあった富子の後ろ盾として春王擁立為に動き、わざと義政対し偽りの謀反の兵を起こすが、富子の願いもあり頓挫。しかし富子との結びつきは一層強くなり、罪人となっていた義就を上洛させ義政和解させたことで、勝元や政長ら義視派に対抗。見事義就を畠山家正式な当主に就かせ政長も撃退した戦勝酔いしれていたが、その不意を突かれ勝元挙兵したため、急ぎ自らも兵を挙げ西軍指揮する挙兵の際に後手回ったためしばらくは劣勢だったが、多大な戦力を誇る政弘の上洛で次第巻き返し図っていく。自分叱咤信頼してくれる富子の身を案じ、政弘の花の御所一斉攻撃進言退け相国寺戦場に選ぶ。激し合戦の末、一度相国寺占拠するが、東軍捨て身反撃により奪回されてしまう。その後泥仕合化し始めた戦の成り行き憂い次第勝元同時に和睦の道を探索した。だが和睦交渉失敗面目を失い、富子のことを回想しながら切腹し果てた山名政豊安藤一志本作では宗全の孫という設定義政寵臣で後に10代11代将軍を擁立。 毘沙王丸→山名豊久稲葉貴姉婿・細川勝元養子だったが、甥・政元の誕生機に仏門入れられる。後に実父によって還俗させられる

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