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山名氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/22 11:10 UTC 版)
| 山名氏 | |
|---|---|
五七桐七葉根笹
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| 本姓 | 清和源氏新田氏流 |
| 家祖 | 山名義範 |
| 種別 | 武家 華族(男爵) |
| 主な根拠地 | 上野国多胡郡(八幡荘)山名郷 但馬国村岡 |
| 著名な人物 | 山名時氏 山名氏清 山名持豊(山名宗全) 山名豊国 |
| 支流、分家 | 山名氏分家 豊義流(武家) 清水氏(清水恒豊流)(武家) 清水氏(清水恒豊流)分家・支流 山名氏(清水熙豊流)(武家) 賀豊流(武家) 豊常流(武家) |
| 凡例 / Category:日本の氏族 | |
山名氏(やまなうじ、やまなし)は、山陰地方を中心に勢力を持った武家(守護大名・戦国大名)である。
目次 |
経歴
山名氏の起源
山名氏の本姓は源氏。家系は清和源氏の河内源氏の棟梁・鎮守府将軍源義家の子義国を祖とする名門・新田氏の一門。新田義重の庶子・三郎義範(または太郎三郎とも)が上野多胡郡(八幡荘)山名郷(現在の群馬県高崎市山名町周辺)を本貫として山名三郎と名乗ったことから、山名氏を称した。
鎌倉時代には早くから源頼朝に従いて御家人となる。山名義範は源氏門葉として優遇された(岩松氏と同様に足利氏一門という説も有る。新田氏と足利氏は共に先祖は義国流源氏=源氏の嫡流で同族である)。
南北朝時代
南北朝時代、新田義貞を中心に南朝に参加した新田一族と異なり、山名時氏は縁戚の足利尊氏に従った。尊氏が征夷大将軍に就任、室町幕府を開くと時氏も運気を掴み、守護大名として山陰地方に大勢力を張った。その後の観応の擾乱では足利直義に従ったが、2代将軍足利義詮時代には幕府側に帰参し、赤松氏や京極氏、一色氏と並んで四職家の一つにまで数えられるに至った。
時氏の子・氏清の時、一族で全国66か国中11か国の守護職を占め、「六分の一殿」と称されて権勢を誇った。しかしその結果、3代将軍足利義満から危険視され、義満は山名一族離反の謀略を試みる。そして1391年(元中8年・明徳2年)、氏清は義満の挑発に乗って甥(兄・師義の子)で婿の満幸・兄の義理と共に挙兵(明徳の乱)、同年12月には京都へ攻め入るも、幕府軍の反攻にあって氏清は戦死してしまった。満幸は逃亡したが後に捕えられて処刑、義理は出家して没落した。
戦後の山名氏は存続こそ許されたものの、氏清の3人の甥、時熙(弟・時義の子)の但馬守護職、氏之(満幸の兄)の伯耆守護職、氏家(兄・氏冬の子)の因幡守護職のみとなり、一族は大幅にその勢力を減ずるに至った。
山名宗全時代
山名持豊(宗全)は1441年(嘉吉元年)、6代将軍足利義教が赤松満祐によって暗殺(嘉吉の乱)されると、同年、赤松氏討伐の総大将として大功を挙げた。この功績によって山名氏は、備後・安芸・石見・備前・美作・播磨などの守護職を与えられ、再び全盛期を築き上げた。
宗全は、城之崎城・九日市城を詰め城とする九日市(豊岡市九日市)の丘陵に広大な守護所を構えたとされている。
しかし宗全は、幕府の主導権をめぐって管領細川勝元と対立する。また、足利将軍家や畠山氏、斯波氏などの後継者争いなど複雑な事情も重なった結果、1467年(応仁元年)には応仁の乱の勃発に至った。この時、宗全は西軍の総大将として同じく東軍総大将の勝元と戦ったが、乱の最中である1473年(文明5年)に宗全は病死する(同年に勝元も急死)。
戦国時代
宗全の死後、家督は孫(4男とも)の政豊が継いだものの、宗全死去や応仁の乱などによって一族の勢力は急速に衰退してゆく。領内では毛利次郎の乱をはじめとする国人による反乱が相次ぎ、播磨、備前、美作は赤松政則(赤松満祐の大甥)に奪われ、政豊は奪回を企てるも1488年(長享2年)に敗れ、播磨から撤退した。さらに備後守護の嫡男山名俊豊や備後国人衆とも対立した。俊豊を廃嫡して3男の致豊を後継者に決めて決着を着けた。しかしその過程で国人衆の支持を取り付けるために特権を与えたため、とりわけ守護代の垣屋氏が力をつけ、それが守護権の縮小に繋がってしまった。垣屋氏に城之崎城(豊岡城)を制圧された政豊・致豊は九日市の守護所を棄て、此隅山城に移ったが、そこも攻撃される始末であった。
さらに出雲の尼子経久、周防の大内義興、備前守護代浦上村宗らの圧迫を受けるようになり、次第に山陰道山陽道の分国は奪われていった。致豊の弟・誠豊の時代には、但馬守護は但馬上守護代垣屋氏や但馬下守護代太田垣氏の傀儡となった。因幡でも、山名豊時の孫・山名誠通がかろうじて支配するという状態になった。これを契機に山名氏宗家は但馬守護家と因幡守護家に分裂し、宗家の家督をめぐって争った。1528年(享禄元年)には誠豊が死去し山名祐豊(致豊の子)が但馬守護を継ぐ。
祐豊は垣屋氏・太田垣氏・田結庄・八木氏ら但馬の有力豪族を制し、また、一族の誠通を討って弟の豊定を因幡守護として派遣し山名氏の統一を果たす。また新興勢力毛利元就とも手を結び、守護大名山名氏を戦国大名山名氏として再興させた。
織豊時代
しかし戦国大名山名祐豊も、織田信長の勢力が伸張してくると、1580年(天正8年)信長の重臣・羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍勢に取り囲まれ降伏後死去。祐豊の子山名堯熙は降伏前に因幡へ逃げ助かる。その後堯熙は馬廻衆として秀吉に仕えることとなり、後播磨に所領を与えられた。
因幡では、山名豊定の子、山名豊国が秀吉を通じて信長に降伏したため、秀吉の家臣となった。その後、豊国は秀吉から因幡に所領を与えられ、御伽衆として迎えられた。
江戸時代
1615年(慶長20年)の大坂夏の陣で、山名堯熙の子山名堯政は大坂の豊臣方に付き、大坂城内で戦死。堯政の子、恒豊(8歳)は、山名家旧臣清水正親の養子となる。清水氏の家督継承。その後徳川家の幕臣となることが許された。改姓の願いが叶い、1700年(元禄13年)3月2日から、恒豊の孫清水時信が山名に改姓山名時信を称した。清水山名氏は明治を迎え他の幕臣同様士族となった。
一方、山名豊国(祐豊の甥で娘婿)は1600年(慶長5年)の関が原の戦いで徳川家康方についた。そのため1601年(慶長6年)、豊国は家康から但馬村岡に6700石の所領を与えられ上級旗本となる、大名待遇の交代寄合表御礼衆という家格に列した。さらに旧因幡守護家であることから屋形号も許された。豊国は「山名の嫡流は我が家。山名の氏は我が家系に限る。」とした。
1869年(明治2年)、山名義済が1万1,000石への高直しを明治政府に認められ大名となり、新たに但馬村岡藩を立藩した。1884年(明治17年)、山名氏は男爵に列せられた。
山名氏 - 但馬守護 - 御家人
- 山名義範
- 山名義節
- 山名重国
- 山名重村
- 山名義長
- 山名義俊
- 山名政氏
- 山名時氏
- 山名師義
- 山名時義
- 山名時熙
- 山名宗全(持豊)
- 山名教豊
- 山名政豊
- 山名致豊:但馬、因幡守護。
- 山名誠豊:致豊の弟。
- 山名祐豊:誠豊の養子、致豊の次男。1580年秀吉率いる織田軍に包囲される中、死去。
- 山名堯熙:祐豊の三男。1580年秀吉軍に有子山城を攻められ降伏。その後秀吉・秀頼の豊臣氏二代に仕える。大坂城に篭もる。
- 山名堯政:堯熙の子。豊臣秀頼家臣。大坂夏の陣、大坂城で戦死。
清水氏(清水恒豊流)
- 清水庄太夫某:山名祐豊家臣。
- 清水正親:山名祐豊家臣。その後天正18年(1590年)徳川家臣となる。二百八十俵。
- 清水恒豊:実父戦死時8歳。山名堯政の子。大坂の陣(1615年)で豊臣方に味方した、山名堯政の子孫として生きる事が難しいため、山名豊国の計らいにより、山名氏旧臣であり、当時幕臣となっていた、清水正親の養子になり、清水氏を称した。山名豊国の尽力で、恒豊も幕臣に列することができた。清水家の家督を継承。延宝7年(1679年)5月16日死去。禄は四百八十石。墓所は龍興寺(中野区上高田) 寺が無縁墓として処理。
- 清水豊頼:清水恒豊の次男。清水家の家督を継承。元禄15年1月14日死去。四百八十石。
- 清水豊長:豊頼の嫡子。宝永元年8月21日死去。
- 清水豊重:豊長の養子、実父は酒井重賢、母は豊頼の養女。享保8年5月10日死去。以後山名氏の血縁断絶?
- 清水豊春:豊重の嫡子。寛政6年6月21日死去。
- 清水豊信:豊春の嫡子。
- 清水豊道:豊信の嫡子。禄は三百八十石。
清水流山名氏(熙豊流)
- 清水熙豊:清水恒豊の長男。
- 山名時信:清水熙豊の子。元禄13年(1700年)3月2日から、山名に改姓。禄は四百五十俵。以後同じ禄。
- 山名時尚:時信の弟。次男服部保教(服部保昌の養子)、三男清水時庸(清水豊秋の養子)。
- 山名時連:時尚の嫡子。
- 山名時睦:時連の養子、清水豊秋次男。
- 山名時習:時睦の嫡子。子に時方、時勝、時守。
旗本 清水恒豊流分家 賀豊流
- 清水賀豊:清水恒豊の三男。
- 清水豊秋:賀豊の養子、実父は前田定能。母不詳。
- 清水時庸:豊秋の養子、実父は山名時尚。
- 清水時良:時庸の嫡子。
- 清水時親:時良の嫡子。百石
- 清水時柯:時親の子。
のちに清水氏から山名氏に改姓。
旗本 清水恒豊流分家 豊常流
- 山名豊常:清水豊頼の次男。山名氏に改姓。二百石
- 山名豊明:豊恒の養子、実父は前田定勝。
- 山名豊実:豊明の嫡孫。父豊全は家督を継がずして死去。
- 山名如風:豊実の養子、実父は清水豊春。
- 1 山名氏の概要
- 2 山名氏 - 因幡守護 - 交代寄合 - 村岡藩
- 3 庶家
固有名詞の分類
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