まつなが‐ひさひで【松永久秀】
松永久秀
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松永 久秀(まつなが ひさひで、永正5年〈1508年〉- 天正5年10月10日〈1577年11月19日〉)は、戦国時代・安土桃山時代の武将、大和国の戦国大名である。官位を合わせた松永 弾正(まつなが だんじょう)の名で知られる。弟に長頼、嫡男に久通。
注釈
- ^ 天守に火をかけた後、 『信長公記』『大かうさまくんきのうち』では焼死、『兼見卿記』『多聞院日記』『川角太閤記』では切腹したとしている。
- ^ 『川角太閤記』では切腹後に首と「古天明平蜘蛛」を火薬で処理するよう命じた。「言葉しも相たがわず、頸は鉄砲の薬にてやきわり、みじんにくだけければ、ひらぐもの釜と同前なり」
- ^ 道三も西岡出身で、天文年間に守護代から土岐氏を乗っ取ったという道三の経歴は、久秀の食指を動かしたに違いない、と、長江正一は指摘している[10]。
- ^ 光秀に惟任、長秀に惟住、簗田広正に戸次(別喜)、塙直政に原田の姓をそれぞれ名乗らせている[23]。
- ^ 同様の抜擢者は、野間長久、鳥養貞長、松山重治を挙げている[26]
- ^ 『言継卿記』では「内者弾正忠」と記され、『天文日記』では本願寺第10世法主・証如が久秀の存在を認めていた旨が記されている[28]。
- ^ 「御成」で家臣の邸宅に主君が行き歓待されることで主従関係の良好さと、主君に絶対の信頼されていることを世間に示す[34]。
- ^ もっとも、義輝のその内心を裏付ける記録もないため、あくまで一説に過ぎない[40]。
- ^ 歴史学者の田中信司は、松永久秀の御供衆としての立場は、形式だけの名誉職ではない、幕臣としての相応の実体を伴うものであったと指摘している[50][51]。
- ^ 義興に関しては久秀の毒殺説もあるが(『 足利季世記』)、一方で当時の史料である『続応仁後記』では「雑説」として否定されている[55]。
- ^ 冬康の死に関しては、久秀が病で半ば狂乱していた長慶に讒言して殺害に追い込んだとする説がある[57]。
- ^ なお、甲斐武田氏と松永氏の外交は元亀4年(1537年)段階で確認され、武田氏では親族衆の一条信龍が取次を務めており、大和国衆の岡氏を通じて交渉が行われている。
- ^ 『雑々聞撿書丁巳歳』(内閣文庫架蔵写本)による。この栄典及び翌日の昇叙によって、松永は三好長慶や三好義長に次ぐ三好家中において重要な地位に昇ったといえる。
- ^ 『雑々聞撿書丁巳歳』によれば、永禄4年1月28日付で正五位下から従四位下に昇叙しているが、このとき、氏は藤原として口宣案が出されている。ところが、将軍家の御紋下賜により氏を改め、再度、同年2月4日付では源の氏として口宣案が出された。
- ^ 父親に武家を継がないのなら摂津の領主の一族である入江の姓でなく祖母実家の松永姓を名乗るよう遺言されて、それを守り、松永姓となった[94]。
- ^ 信長家臣の林通勝(林秀貞)とは別人。
- ^ 『藩翰譜』には松永久秀による本多正信の人物評が記載されるが、久秀に仕えたかどうかは不明とされている[103]。
出典
- ^ a b 天野(編)2017, pp. 8, 25. 『多聞院日記』永禄11年(1568年)2月19日条に「当年六十一歳」と記されていることに基づく。
- ^ 『松永久秀』 - コトバンク
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- ^ 『寛政重修諸家譜 巻第九百八十五』
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- ^ 新井白石『藩翰譜 第10上−11』吉川半七、1894年、19頁 。
- ^ 2020年3月6日毎日新聞大阪版「松永久秀の肖像画初確認、実像近い?没後の原画、江戸期に模写か、大河ドラマで注目」 - 天野忠幸「前歯を描くなど、美化して描かれた一般の肖像画とは異なる表現があり、基になった原画は久秀の特徴を知る人が描いたとみられる。」2020年3月5日閲覧。
松永久秀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/28 00:33 UTC 版)
信長の重臣。大仏焼き討ちや将軍殺しの前科を持つ謀反マニアだが、建築や茶道への造詣が深く「ボクはホントは文化を愛するやさしい人なの」と自称。節操のなさは驚異的で、参加しかけた謀反の謀議に敗報が届いた瞬間に回れ右したこともある。普段は卑屈なまでに温和だが、部下には凶暴な顔を見せることもある。
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松永久秀(まつなが ひさひで)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/27 23:43 UTC 版)
「秀吉でごザル!!」の記事における「松永久秀(まつなが ひさひで)」の解説
「戦国の梟雄」と恐れられる老人。かつては信長と敵対するも、藤吉郎に敗北。その際、策謀家でありながら明るく前向きな藤吉郎の人柄に感服し、藤吉郎の部下となる。奇矯な性格で、かなりの人間不信であり、フクロウ型憑き鬼神の「沖胡桃」を「最も信頼の足る友人」として扱っている。また、「鳥の王」である沖胡桃を通じて鳥を操ることも可能。後に上杉討伐に反対したため立場が危うくなった秀吉を助けるために謀反を起こし、その一件をうやむやにした。
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松永久秀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/09 03:06 UTC 版)
大和の大名。右目に傷を負っている。信長上洛後は織田軍に属し、越前撤退戦では信長の命を救うが、後に足利義昭に寝返る。室町幕府崩壊後は再び信長に仕えるが、信長が上杉謙信と対陣する間に再び謀反を起こす。しかし信長の策により上杉軍は撤退し、彼も信貴山城に追い詰められる。最後は信長の降伏勧告を拒否し、天守閣にて茶器の平蜘蛛に火薬を詰めて爆死する。
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松永久秀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/06 01:27 UTC 版)
タケマサのクラスメイトの不良。鉄板入り鞄やメリケンサックなど不良っぽいものを武器にする。意外と率直だが、信長に騙されて警察に捕まってからは捻くれる。
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松永久秀(声:江川央生)
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「決戦III」の記事における「松永久秀(声:江川央生)」の解説
大和の戦国大名。主君の三好を裏切り、将軍足利義輝を殺し、大仏殿を焼いたため、周りから大悪党と言われているが、茶器をこよなく愛す風流な一面もある。関西弁が特徴。信長に対して降伏と裏切りを繰り返す。
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松永久秀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/07 17:58 UTC 版)
稀代の大悪人であり、足利義輝殺害や東大寺大仏殿焼き討ちに関与。「クク…」という不敵な笑いが口癖。
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松永久秀(まつなが ひさひで)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:19 UTC 版)
「センゴク」の記事における「松永久秀(まつなが ひさひで)」の解説
通称は弾正少弼。織田軍に所属する武将であったが、信長が上杉謙信と対陣する間に謀反を起こす。後日爆死。
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松永久秀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 03:06 UTC 版)
将軍・足利義輝を傀儡にして政治を行っていた人物。裏でルイス=フロイスと通じており、永禄の変を起こし義輝の従弟の足利義親を次期将軍として擁立した。
※この「松永久秀」の解説は、「戦国八咫烏」の解説の一部です。
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松永久秀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 16:10 UTC 版)
畿内の実力者。元は京郊外の農村の出身で、京を支配する三好氏の重臣である安田家に仕えていたが、その有能さを重宝されて主家の三好氏の祐筆となり、後に家老にまでのし上がって三好家の家政を牛耳り、ひいては京の実質的な支配者となった。自身の意にそぐわぬ者はたとえ主筋の人間であろうと躊躇することなく暗殺し、ついには将軍義輝までも殺し、下克上の世でも稀なほどに弑逆を繰り返した。弾正少弼の官位から「松永弾正」の名でも知られる。
※この「松永久秀」の解説は、「国盗り物語」の解説の一部です。
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