松永久秀と三好三人衆の対立とは? わかりやすく解説

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松永久秀と三好三人衆の対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/21 03:56 UTC 版)

三好政権」の記事における「松永久秀と三好三人衆の対立」の解説

しかし、連立政権内において松永氏勢力危険視した三人衆は、永禄の変から7ヶ月ほどたった永禄8年12月、かつて久秀に筒井城奪われて(筒井城の戦い放浪していた筒井順慶大和の国衆ら手を結んで大和侵攻し、久秀を討とうとした。これにより、三人衆と久秀の対立先鋭化する。また、丹波大名となっていた久秀の弟長頼が荻野直正討ち取られた(連立政権丹波を失う)。 一方義輝には弟・覚慶がおり、義輝旧臣擁立され、永禄9年1566年2月還俗し足利義秋(後の義昭)と名乗り同年4月21日には従五位下左馬頭次期将軍が就く官職)に叙位任官した。これに対し三人衆は、かつての堺公方であった阿波公方足利義維の子である足利義栄14代将候補として擁立した。義栄は永禄10年1567年1月従五位下左馬頭叙任された。 三人衆は久秀との戦いにおいて義継を擁し永禄9年9月には、阿波讃岐軍勢率いた実休の子三好長治、実休の重臣篠原長房三好康長阿波細川家細川真之将軍候補方・足利義栄合流し圧倒的に優勢であった。しかし永禄10年4月当主の義継が突如出奔、久秀に保護求めた。これにより久秀方は息を吹き返したが、やはり依然として劣勢であった東大寺大仏殿の戦い)。三人衆方の篠原長房松永方の摂津越水城奪い、ここを拠点として大和ほか各地転戦した。この時期の長房について、『フロイス日本史』に「この頃、彼ら(三好三人衆以上に勢力有し、彼らを管轄んばかりであったのは篠原殿で、彼は阿波国において絶対的権力有する執政であった」と記されている。

※この「松永久秀と三好三人衆の対立」の解説は、「三好政権」の解説の一部です。
「松永久秀と三好三人衆の対立」を含む「三好政権」の記事については、「三好政権」の概要を参照ください。

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