松永久秀と三好三人衆の対立
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「三好政権」の記事における「松永久秀と三好三人衆の対立」の解説
しかし、連立政権内において松永氏の勢力を危険視した三人衆は、永禄の変から7ヶ月ほどたった永禄8年12月、かつて久秀に筒井城を奪われて(筒井城の戦い)放浪していた筒井順慶ら大和の国人衆らと手を結んで大和に侵攻し、久秀を討とうとした。これにより、三人衆と久秀の対立が先鋭化する。また、丹波の大名となっていた久秀の弟長頼が荻野直正に討ち取られた(連立政権は丹波を失う)。 一方、義輝には弟・覚慶がおり、義輝の旧臣に擁立され、永禄9年(1566年)2月に還俗し足利義秋(後の義昭)と名乗り、同年4月21日には従五位下・左馬頭(次期将軍が就く官職)に叙位・任官した。これに対し三人衆は、かつての堺公方であった阿波公方・足利義維の子である足利義栄を14代将軍候補として擁立した。義栄は永禄10年(1567年)1月従五位下・左馬頭に叙任された。 三人衆は久秀との戦いにおいて義継を擁し、永禄9年9月には、阿波・讃岐の軍勢を率いた実休の子三好長治、実休の重臣篠原長房・三好康長、阿波細川家の細川真之、将軍候補方・足利義栄も合流し、圧倒的に優勢であった。しかし永禄10年4月に当主の義継が突如出奔、久秀に保護を求めた。これにより久秀方は息を吹き返したが、やはり依然として劣勢であった(東大寺大仏殿の戦い)。三人衆方の篠原長房は松永方の摂津越水城を奪い、ここを拠点として大和ほか各地に転戦した。この時期の長房について、『フロイス日本史』に「この頃、彼ら(三好三人衆)以上に勢力を有し、彼らを管轄せんばかりであったのは篠原殿で、彼は阿波国において絶対的(権力を有する)執政であった」と記されている。
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