あわ〔あは〕【阿波】
阿波
阿波
阿波
阿波
姓 | 読み方 |
---|---|
阿波 | あなみ |
阿波 | あわ |
阿波 | あわさき |
阿波 | あわざき |
阿波
阿波
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 16:37 UTC 版)
羽柴秀長率いる大和・和泉・紀伊の軍勢3万は6月16日に堺から船出し、海路洲本に至る。羽柴秀次率いる摂津・近江・丹波の兵3万は明石から淡路へ渡り、両軍は福良(現南あわじ市)で合流して大小800余艘の船団で阿波の土佐泊へ上陸した。対する長宗我部方は木津城に東条関兵衛、牛岐城に香宗我部親泰、渭山城に吉田康俊、一宮城に谷忠澄・江村親俊、岩倉城に比江山親興、脇城に長宗我部親吉をそれぞれ配した。 秀長の軍は阿波上陸後、まず木津城を攻撃した。八昼夜にわたる攻撃の上に蜂須賀正勝によって水の手も絶たれたため、城将の東条関兵衛は秀吉方についた叔父の東条紀伊守の説得に応じて開城した。関兵衛は土佐へ退いたが、立腹した元親によって切腹させられた。双方が主力を投入した阿波の戦いだが、戦力を伊予・讃岐にも分散せざるを得なかった長宗我部方の劣勢が明らかとなった。牛岐城の香宗我部親泰、渭山城の吉田康俊は木津落城を聞いて城を捨てて逃れ、残る長宗我部方の拠点は一宮・岩倉・脇の三城のみとなった。この頃秀吉は自ら出陣する意思を示し、7月3日にはその先鋒が淡路に達した。しかし秀長は秀吉の出陣を諌止し、自ら一宮城攻撃の指揮を執り、秀次に脇・岩倉城攻めを任せた。秀長は7月19日付の小早川隆景に宛てた書状で、一宮・脇城攻めの近況を報告している。 9,000(または5,000)とされる一宮城兵は善戦したが、筒井定次・藤堂高虎・蜂須賀正勝・増田長盛など5万の秀長勢に兵糧を絶たれ、また城への坑道を掘り水の手を断つという寄手の奇策もあって、7月中旬には開城した。前後して脇・岩倉城も秀次・黒田・蜂須賀勢らによって陥落し、東の秀長・秀次勢、西の中国勢で元親の白地城を挟撃する態勢となった。
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阿波
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 17:02 UTC 版)
秀吉は、四国平定後の論功行賞として蜂須賀正勝(小六)に対して阿波一国約18万石を与えようとしたが、正勝は秀吉側近として仕える道を選んで辞退したため、その子息蜂須賀家政に阿波一国の領知権を与えた。ただし赤松則房領住吉1万石(板野郡)と毛利兵橘(毛利重政)領1,082石(板東郡)を除く。 家政は、当初名東郡一宮城(徳島県徳島市一宮町)に入ったが、のちに吉野川河口に近い徳島城(徳島市)に本拠を遷した。この頃、父の正勝は、豊臣政権中枢にあって四国取次の役割を担っている。 播磨国守護家の出身であった赤松則房は、中国攻めののち秀吉に臣従したが、秀吉は彼に対し播磨置塩城(兵庫県姫路市)の本領1万石を安堵したうえで阿波住吉(板野郡)1万石の領地を与えた。
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阿波
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 17:02 UTC 版)
国分当時の阿波は、元親軍が土佐に撤退した直後のことでもあり、村落は荒廃し、農民たちの多くも戦乱で疲弊していた。そこに蜂須賀氏が入部したため、入部直後の天正13年(1585年)8月、祖谷山・木屋平・大粟山・仁宇谷など山間部の土豪層が新しい支配者の到来に抵抗して蜂起する土豪一揆が起こった(天正阿波の土豪一揆)。これに対し、蜂須賀家政は一揆の加担者には徹底した武力鎮圧で臨む一方、在地有力者に対しては巧妙な懐柔策も適宜採用して土豪層の切り崩しをはかった。また、稲田氏・益田氏・山田氏・中村氏・森氏ら尾張以来の9人の腹心を領内の要地に配し、各々300名の兵によって防備させるという支城駐屯制を敷き、阿波九城を置いた。
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阿波
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 07:01 UTC 版)
阿波では東由岐(現・美波町)で家屋が百数十戸流失し死者が夥しく(『東由岐修堤碑』)、牟岐(現・牟岐町)では高さ3丈余の汐で浜先の家々数百軒が将棋倒のように破壊され、人々が山上に逃げ登り、20人余が流死した(『牟岐町誌』)。 海部郡の浅川港では前日の東海地震の揺れと津波で丘に避難し、翌日も丘で様子を見ている所に南海地震とそれに伴う津波が起きた。 宍喰(現・海陽町)では前日辰ノ下刻(午前9時頃)中ゆりの地震(東海地震)の後、俄かにあぶきを生じて宍喰川に3度津波が入り込んだ。諸人驚いて逃散し、米麦諸物を山上に運び上げ騒動となった。5日の朝、潮の狂いが少なくなり人々が荷物を携えて家に立ち戻リ始めたが、午ノ刻(正午頃)日陰が黄色に変じ人々が怪しみ、また逃げ支度をし諸物を山上に運び上げている所に申ノ下刻(16時半頃)極大地震となり、地割れから水を吹きあげた。津波により家271戸のうち141軒が流失し8人が流死(『阿波海嘯誌略』)した。宍喰浦には本地震による津波被害に加え、永正九年、慶長九年、宝永四年津波について古文書をまとめた旧記『永正九年八月四日・慶長九年十二月十六日・宝永四年十月四日・嘉永七寅年十一月五日四ヶ度之震潮記』(略して『震潮記』)が現存している。 現在の小松島市では、海岸から内陸に1キロメートル以上入った旗山や豊浦神社(赤石町)まで津波が達した(『異事時変説』や神社の碑文による)。
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阿波
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 21:12 UTC 版)
阿波の宍喰では四日辰ノ下刻(午前9時頃)中ゆりの地震が続いて、海面に俄かにあぶきを生じて阿じ島を打ち越え、宍喰川の半ばまで3度入り込み、諸人驚いて四方に逃散し、米麦諸物を山上に運び上げ騒動となった。ここでは翌日の南海地震津波により141軒が流失し8人が流死する被害を受ける(『永正九年八月四日・慶長九年十二月十六日・宝永四年十月四日・嘉永七寅年十一月五日四ヶ度之震潮記』)。
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阿波
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