ちょうそかべ〔チヤウそかべ〕【長宗我部/長曽我部】
長宗我部
姓 | 読み方 |
---|---|
長宗我部 | ちょうそかべ |
長宗我部氏
(長宗我部 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/16 07:09 UTC 版)
長宗我部氏(ちょうそかべし/ちょうすがめし)は、日本の武家の一つ。長曽(曾)我部とも記される。室町時代以降、通字に「親」を用いた。家紋は「七つ酢漿草」。
注釈
- ^ 盛親の子孫を名乗る者は複数いるが、何れの場合も子孫であるとは証明されていない。
- ^ 秦氏の先祖弓月君は秦の始皇帝の後裔であるという(『新撰姓氏録』太秦公宿禰 項)。
- ^ この書状により、能俊入国の3つ目の説は否定されうる。
- ^ 伝統的な字体の「曾」、略字体の「曽」とも長らく表外漢字であったが、2000年(平成12年)の表外漢字字体表では曾・が印刷標準字体、曽・が簡易慣用字体とされた。一方、2010年(平成22年)の常用漢字表改定では曽・が常用漢字として採用され、曾・はその旧字体と位置付けられることになった。ただ、表外漢字字体表はそのままであり、2020年(令和2年)現在、MS-IMEは曾・を印刷標準字体、「曽」を簡易慣用字体と表示している。
- ^ 友親の著書からは、「ちょうそがべ」が地元での通称なのか、戸籍上の名前なのかまでは判然としない[9]。
- ^ 『土佐物語』には文明10年(1478年)に文兼が迎えたと記しているが、実際には『大乗院寺社雑事記』の記事の応仁2年(1468年)に大平氏の船で入国したと思われる[2]。
- ^ 修行に出たのは長宗我部元勝とされるが、『土佐国編年紀事略』では元門の誤りである、としている。『土佐物語』・『四国軍記』では「元勝が応永年間に武者修行」と記すが、「元門が応仁年間に」の間違いと考えられる[2]。
- ^ 四国攻め#長宗我部による四国統一についてを参照。
- ^ ただし、天正13年(1585年)には元親が既に大高坂を本拠にしていたとする説もある[14]。
出典
- ^ 『続群書類従』長宗我部氏系図。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 山本 1974.
- ^ a b 更級郡役所『更級郡誌』長野縣更級郡役所、1914年。
長野県更級郡役所 編『更級郡誌』名著出版、1973年。NDLJP:9536465 。"国立国会図書館デジタルコレクション"。 - ^ 『土佐諸家系図一』「?姓系図」能俊項。
- ^ 山本大「長宗我部苗字考」『土佐史談』第90号、1957年。
- ^ 海音寺潮五郎『海音寺潮五郎全集 第17巻』(朝日新聞社、1970年(昭和45年))
- ^ 『和名類聚抄』
- ^ 『多聞院日記 第三巻』(三教書院、1926年(大正15年)) p.426(天正十三年六月廿一日)
- ^ 長宗我部 2017.
- ^ a b c 『土佐国編年紀事略』巻4。
- ^ a b 市村高男「戦国の群雄と土佐国」『高知県の歴史』山川出版社、2001年。
- ^ a b 平井 2008.
- ^ 横川末吉『長宗我部地検帳の研究』高知市立市民図書館〈市民叢書〉、1961年。 NCID BN05087985 。
- ^ 目良裕昭 著「戦国末~豊臣期土佐国における城下町の形成と展開」、市村高男 編『中世土佐の世界と一条氏』高志書院、2010年。ISBN 978-4-86215-080-6。
- ^ 津野倫明「長宗我部盛親の家督継承」(初出:図録『長宗我部盛親』(高知県立歴史民俗資料館、2006年(平成18年))/所収:津野『長宗我部氏の研究』(吉川弘文館、2012年(平成24年))ISBN 978-4-642-02907-0)
- ^ 空飛ぶ庭-長宗我部の庭
- ^ a b “(天声人語)猛将・長宗我部の悩み”. 朝日新聞朝刊. (2017年5月22日)
- ^ 明田 1986, p. 98.
- ^ 長宗我部 2017, p. 95.
- ^ 『元親記』。
- ^ 『長元記』(『土佐国群書類従』4(高知県立図書館、2001年(平成13年)))。
- 1 長宗我部氏とは
- 2 長宗我部氏の概要
- 3 歴史
- 4 歴代当主
- 5 分国法
- 6 外部リンク
長宗我部(ちょうそかべ)
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普段は小学校で社会科の教師を務める。松平が大阪国を訪問した際に、議事堂までの案内と書記を担当。
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