長宗我部国親(ちょうそかべ くにちか) 1504~1560
長宗我部国親
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/12 15:40 UTC 版)
長宗我部 国親(ちょうそかべ くにちか)は、戦国時代の土佐国の大名。長宗我部兼序の嫡男。長宗我部氏復興に尽力した。
注釈
- ^ 『長元物語』では文亀3年(1503年)。『土佐国蟲簡集』では文亀2年(1502年)の出生となっている。
- ^ 三弟の長宗我部国康(くにやす)も同様である。また、嫡子の長宗我部元親も土佐守護・細川晴元の偏諱を受けている。
- ^ 国親の富国強兵に危機感を抱きだした茂宗が攻めようとしたため、一条家が仲介したという(『土佐物語』)。ただし異説として茂宗が国親を恐れて婚姻を申し出たとされている(『土佐軍記』)。
- ^ 年代に関しては異説もある。
- ^ 『土佐物語』には「数度の高名隠れなき勇猛の士」とある。
- ^ 『土佐物語』によると剃髪の理由は幼年期に父母を失い、幸運にも御家再興を成し遂げるも常に茨の道で苦しみ、父の追福と仏道帰依の志が強まっていたという。これに対して朝倉慶景は天文24年(弘治元年、1555年)の本山茂宗の死を悼んで両家の関係強化を意図したものであったとする説を唱えている[5][6] 。
- ^ 茂宗の死は本山氏にとって打撃であったという。
出典
- 1 長宗我部国親とは
- 2 長宗我部国親の概要
- 3 参考文献
- 4 関連項目
長宗我部国親(ちょうそかべ くにちか)
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「センゴク」の記事における「長宗我部国親(ちょうそかべ くにちか)」の解説
家中では御屋形様と呼ばれる。苦難の時代の長宗我部家を率い、その再興と怨敵への復讐に生涯を費やしてきた剛直な人物。元親の異才を理解しようとせず、自身との対立でその心を閉ざさせてしまう。しかし後に三男の親泰からは情熱に突き動かされるという点において、本質的に国親と元親は似通っていたと評されている。
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