北条氏綱とは? わかりやすく解説

ほうじょう‐うじつな〔ホウデウうぢつな〕【北条氏綱】

読み方:ほうじょううじつな

[1486〜1541]戦国時代の武将早雲の子伊豆・相模武蔵下総(しもうさ)などを征圧小田原城下の商業発展図り後北条氏基礎確立した


北条氏綱(ほうじょう うじつな) 1486~1541


北条氏綱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/03 15:30 UTC 版)

北条 氏綱(ほうじょう うじつな)は、戦国時代武将戦国大名後北条氏第2代当主。


注釈

  1. ^ 京都小笠原氏の当主。北条氏家臣の小笠原元続の祖父、元続の子・康広および細川家家臣小笠原少斎の曽祖父にあたる。
  2. ^ 左京大夫は北条義時泰時が任じられた官職である[26]
  3. ^ 享徳の乱以降、室町幕府による関東管領補任は行われなくなっており、山内上杉家の家督と一体化して扱われるようになっていた[57]
  4. ^ ただし、氏綱の後妻・近衛殿(北の藤)は将軍足利義晴の正妻慶寿院の姉にあたり、室町幕府が全く無関係とは考えにくいとする見解もある[58]
  5. ^ 原文は2000文字程度のもの[71]
  6. ^ 天文8年(1539年)6月7日に「御曹司」が安産祈願をしている(『快元僧都記』)。これが頼康でその妻が氏綱娘だとされる。天文17年5月の「泉沢寺阿弥陀仏像札銘写」(戦国遺文後北条氏編336)に頼貞(頼康)に続き、妻平氏女、嫡男太郎、次男次郎、三男辰房(丸)とあり、頼康との間の息子の可能性がある。永禄9年までに養子氏朝の妻に鶴松院(北条幻哲娘)を迎えた時に様々な心得を記し与えた「宗哲覚書」[74]に大方殿が見えるのでこの頃までは生存が確認できるが生没年、法名ともに不明[75]
  7. ^ 天文8年(1539年)晴氏に入稼し、以後「御台様」と称された[76]。天文12年(1543年)義氏を生んでいる(後世の系図類は同10年としているが『鎌倉公方御社次第』には同12年と明記されている)。永禄4年(1561年)7月9日死去。法名は芳春院殿雲岫宗怡大禅定尼[77][78]
  8. ^ 大永6年(1526年)生まれ[79]。天文14年(1545年)に(瀬名氏輝室)を産んだとみられているから婚姻は数年前とされる。氏元には、同19年(1550年)長男松千世、同22年(1553年)次女おふち(葛山信貞室)、弘治2年(1556年)次男竹千世、永禄4年(1561年)三男久千世が生まれているが、次女までと黒田基樹は推測している。永禄9年(1566年)12月に京都の吉田兼右にお守りの付与を依頼している[79]のが、史料上唯一の所見。死去年や法名は不明。天正元年(1573年)に氏元は武田氏によって自害させられてるが、ここまで生存した場合は同時に自害させられたとする[80]

出典

  1. ^ 贈位功臣言行録 1916, pp. 235–239.
  2. ^ 下山 2006, p. 571.
  3. ^ 黒田 2013a, p. 97.
  4. ^ 黒田 2007, pp. 53–54.
  5. ^ 黒田 2013a, p. 64.
  6. ^ 黒田 2005, pp. 16–17.
  7. ^ 黒田 2016, p. 7.
  8. ^ 森 2005, p. 56.
  9. ^ 黒田 2005, pp. 62–63.
  10. ^ a b 森 2005, p. 57.
  11. ^ 森 2005, p. 63-64.
  12. ^ 森 2005, pp. 56–57.
  13. ^ 黒田 2005, p. 64.
  14. ^ 黒田 2005, pp. 66–67.
  15. ^ クロニック戦国全史 1995, p. 207.
  16. ^ 黒田 2005, p. 67.
  17. ^ 森 2005, pp. 57–58.
  18. ^ 黒田 2005, pp. 69–70.
  19. ^ クロニック戦国全史 1995, p. 218.
  20. ^ 市村 2009, pp. 69–70.
  21. ^ a b c 森 2005, p. 60.
  22. ^ 市村 2009, pp. 68–69.
  23. ^ 黒田 2005, pp. 70–72.
  24. ^ 総論 北条氏綱論”. 戒光祥出版 (2016年6月). 2024年2月24日閲覧。
  25. ^ 森 2005, pp. 60–61.
  26. ^ a b 森 2005, p. 61.
  27. ^ 黒田 2005, p. 72.
  28. ^ a b 黒田 2016, pp. 17–19.
  29. ^ 黒田 2016, pp. 16–17.
  30. ^ 市村 2009, pp. 70–71.
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  36. ^ 黒田 2005, pp. 76–77.
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  38. ^ 黒田 2016, pp. 29–30.
  39. ^ 黒田 2005, p. 94.
  40. ^ 市村 2009, p. 73.
  41. ^ 市村 2009, p. 76.
  42. ^ 市村 2009, pp. 76–78.
  43. ^ a b 森 2005, p. 64.
  44. ^ 黒田 2016, pp. 27–28.
  45. ^ クロニック戦国全史 1995, p. 263.
  46. ^ 黒田 2021, p. 263, 大石泰史「対立から同盟へ-今川義元・氏真と氏康の関係性-」.
  47. ^ 黒田 2021, pp. 271–273, 大石泰史「対立から同盟へ-今川義元・氏真と氏康の関係性-」.
  48. ^ 黒田 2011, p. 45.
  49. ^ 市村 2009, p. 81.
  50. ^ 黒田 2005, pp. 79–80.
  51. ^ 黒田 2016, pp. 30–31.
  52. ^ 黒田 2005, p. 80.
  53. ^ 黒田 2016, p. 25.
  54. ^ 市村 2009, pp. 81–82.
  55. ^ 黒田 2011, p. 49.
  56. ^ a b 森 2005, p. 65.
  57. ^ a b 黒田 2005, p. 85.
  58. ^ 黒田 2021, pp. 245–246, 長塚孝「氏康と古河公方の政治関係」.
  59. ^ a b 黒田 2005, pp. 85–86.
  60. ^ 黒田 2005, pp. 86–89.
  61. ^ 黒田 2005, pp. 88–89.
  62. ^ 下山 1999, pp. 105–106.
  63. ^ 下山 1999, pp. 108–109.
  64. ^ 下山 1999, p. 110.
  65. ^ クロニック戦国全史 1995, p. 238.
  66. ^ クロニック戦国全史 1995, pp. 276–277.
  67. ^ a b 森 2005, p. 66.
  68. ^ a b c 黒田 2005, p. 89.
  69. ^ クロニック戦国全史 1995, p. 281.
  70. ^ クロニック戦国全史 1995, p. 283.
  71. ^ 五箇条の御書置の書き下し文と訳 - 出典サーチ”. 古今名言集~座右の銘にすべき言葉~. 2012年7月30日閲覧。
  72. ^ 黒田 2005, p. 90.
  73. ^ 黒田 2005, p. 92.
  74. ^ 「宮﨑文書」戦国遺文後北条氏編3535
  75. ^ 黒田 2007, pp. 53–55.
  76. ^ 「雀神社鰐口銘写」戦国遺文後北条氏編4355
  77. ^ 『鎌倉殿并古河・喜連川様御代之盃名帳』
  78. ^ 黒田 2007, pp. 55–56.
  79. ^ a b 『兼右卿記』
  80. ^ 黒田 2007, pp. 59–61.
  81. ^ 黒田 2013b, pp. 9–18.
  82. ^ 黒田 2005, p. 91.
  83. ^ 黒田 2007, p. 56.
  84. ^ 下山 2006, p. 572.


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北条氏綱(ほうじょう うじつな)

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センゴク」の記事における「北条氏綱(ほうじょう うじつな)」の解説

通称は新九郎当初伊勢氏名乗っていたが、伊勢家二代目当主にして北条姓を名乗った最初当主であるため「後北条家初代」とも扱われている。宗瑞からは”守成の才”があると評されており、醜男であった父・宗瑞と違い美男子で民からの支持も厚いが、すべてにおいて勝者であった宗瑞と比べてそれを引き継いだ自身全てにおいて劣る敗者たる気持ち卑下していたが、後に北条への改姓強行するなど家臣団を「先代劣らぬメチャクチャさだ」と唖然とさせた。後年には「手前唯一、父に勝るのが執拗さである」と北条包囲網との戦いに耐え抜いた

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