長宗我部家とは? わかりやすく解説

長宗我部氏

(長宗我部家 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/14 23:04 UTC 版)

長宗我部氏(ちょうそかべし/ちょうすがめし)は、日本武家の一つ。長曽(曾)我部とも記される。室町時代以降、通字に「」を用いた。家紋は「七つ酢漿草かたばみ」。


注釈

  1. ^ 盛親の子孫を名乗る者は複数いるが、何れの場合も子孫であるとは証明されていない。
  2. ^ 秦氏の先祖弓月君は秦の始皇帝の後裔であるという(『新撰姓氏録』太秦公宿禰 項)。
  3. ^ この書状により、能俊入国の3つ目の説は否定されうる。
  4. ^ 伝統的な字体の「曾」、略字体の「曽」とも長らく表外漢字であったが、2000年平成12年)の表外漢字字体表では曾・が印刷標準字体、曽・が簡易慣用字体とされた。一方、2010年(平成22年)の常用漢字表改定では曽・が常用漢字として採用され、曾・はその旧字体と位置付けられることになった。ただ、表外漢字字体表はそのままであり、2020年令和2年)現在MS-IMEは曾・を印刷標準字体、「曽」を簡易慣用字体と表示している。
  5. ^ 友親の著書からは、「ちょうそがべ」が地元での通称なのか、戸籍上名前なのかまでは判然としない[9]
  6. ^ 土佐物語』には文明10年(1478年)に文兼が迎えたと記しているが、実際には『大乗院寺社雑事記』の記事の応仁2年(1468年)に大平氏の船で入国したと思われる[2]
  7. ^ 修行に出たのは長宗我部元勝とされるが、『土佐国編年紀事略』では元門の誤りである、としている。『土佐物語』・『四国軍記』では「元勝が応永年間に武者修行」と記すが、「元門が応仁年間に」の間違いと考えられる[2]
  8. ^ 四国攻め#長宗我部による四国統一についてを参照。
  9. ^ ただし、天正13年(1585年)には元親が既に大高坂を本拠にしていたとする説もある[14]

出典

  1. ^ 続群書類従』長宗我部氏系図
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n 山本 1974.
  3. ^ a b 『更級郡誌』(1914年大正3年)、長野県更級郡役所)。
  4. ^ 『土佐諸家系図一』「?姓系図」能俊項。
  5. ^ 山本大「長宗我部苗字考」『土佐史談』90号、1957年。 
  6. ^ 海音寺潮五郎『海音寺潮五郎全集 第17巻』(朝日新聞社1970年(昭和45年))
  7. ^ 和名類聚抄
  8. ^ 多聞院日記 第三巻』(三教書院、1926年(大正15年)) p.426(天正十三年六月廿一日)
  9. ^ 長宗我部 2017.
  10. ^ a b c 『土佐国編年紀事略』巻4。
  11. ^ a b 市村高男「戦国の群雄と土佐国」『高知県の歴史』山川出版社、2001年。 
  12. ^ a b 平井 2008.
  13. ^ 横川末吉『長宗我部地検帳の研究』(高知市民図書館1961年昭和36年))
  14. ^ 目良裕昭 著「戦国末~豊臣期土佐国における城下町の形成と展開」、市村高男 編『中世土佐の世界と一条氏』高志書院、2010年。ISBN 978-4-86215-080-6 
  15. ^ 津野倫明「長宗我部盛親の家督継承」(初出:図録『長宗我部盛親』(高知県立歴史民俗資料館2006年(平成18年))/所収:津野『長宗我部氏の研究』(吉川弘文館2012年(平成24年))ISBN 978-4-642-02907-0
  16. ^ 空飛ぶ庭-長宗我部の庭 (日本語)
  17. ^ a b “(天声人語)猛将・長宗我部の悩み”. 朝日新聞朝刊. (2017年5月22日). http://www.asahi.com/articles/DA3S12949554.html 
  18. ^ 明田 1986, p. 98.
  19. ^ 長宗我部 2017, p. 95.
  20. ^ 『元親記』。
  21. ^ 『長元記』(『土佐国群書類従』4(高知県立図書館2001年(平成13年)))。


「長宗我部氏」の続きの解説一覧

長宗我部家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/09 02:25 UTC 版)

戦極姫 -戦乱の世に焔立つ-」の記事における「長宗我部家」の解説

土佐一部支配する豪族モデル長宗我部氏長宗我部元親ちょうそかべ もとちかモデル長宗我部元親 絵師西脇ゆぅりさいばし(PS2/PSP版) CV高槻つばさ雪野梨沙(PS2/PSP版) 「姫若子」と呼ばれる小柄華奢な身体長い濡れ羽色黒髪を持つ何処をどう見て可憐な少女容貌をした少年性別は男だがサブヒロインキャラである。本人チカ惚れていて、男らしくろうとしている。 久武チカ(ひさたけ -) モデル久武親直 絵師西脇ゆぅりさいばし(PS2/PSP版) CV野宮香央里宮沢ゆあな(PS2/PSP版) 親信の妹。よく元親をいじめている。これは好意の裏返しではなく単純に気に入らないからである。 久武親信ひさたけ ちかのぶモデル久武親信 絵師真紅 CV:なし 誠実で、軍事優れた手腕を持つ長宗我部家の重臣土佐の「一領具足制度下で元親を御旗家中をまとめ上げた。元親への忠義が行過ぎて空回りする事が多い。

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長宗我部家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/04 05:44 UTC 版)

戦極姫3〜天下を切り裂く光と影〜」の記事における「長宗我部家」の解説

土佐国一部支配する豪族絵師ネムネムモデル長宗我部氏長宗我部 元親ちょうそかべ もとちかモデル:長宗我部元親 声 - 高つばさ→雪野梨沙(PSP版) 長宗我部家当主。「姫若子」と呼ばれる小柄華奢な身体長い濡れ羽色黒髪を持つ何処をどう見て可憐な少女容貌をした少年本人チカ惚れていて、男らしくろうとしている。 久武 チカ(ひさたけ チカモデル:久武親直 声 - 宮沢ゆあな→同じ(PSP版) 長宗我部家武将自分よりも元親の方が可愛らしく、もてているのが気に食わない

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長宗我部家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/07 17:58 UTC 版)

殿といっしょ」の記事における「長宗我部家」の解説

長宗我部国親 声 - 杉野博臣ドラマCD) 長宗我部家当主。元親に萌えない一人であり、息子軟弱ぶりと、その息子萌えまくる家臣たちに頭痛毎日を送る。作中亡くなった描写描かれ数少ない一人長宗我部元親 声 - 能登麻美子ドラマCDアニメ姫若子女の子のように大人しい子)と呼ばれていた史実拡大解釈し、少女趣味華奢美少女見え美青年として登場愛称は「モトチーナ」だが、ガッシーからは「もとちん」と呼ばれる。 馬に乗るのを怖がり、剣の稽古ままならず、庭の花や小鳥話しかけるなど、深窓の令嬢のように臆病で軟弱な性格料理好きで、ことあるごとにお菓子弁当作っている。外見違わぬ平和主義者であり戦争好まない心優しい性格だが、「毛虫がいる」と言われただけで泣いて怯えるなど、一国領主としてはあまりにも臆病すぎる一面もある。また、天然ボケ気味でぶりっ子かつおバカキャラ的なところもある。しかしその可愛らしさゆえに家臣たちに絶大な人気誇り男子であるにもかかわらず萌えまくられ甘やかされ、元親親衛隊が組織されている。悩む父の姿に心を痛め男らしくなる」と宣言したこともあるが、スクール水着ナース服を平然と着こなすなど奇抜な行動も目立つ。その個性逆手取り恐るべき方法用いて初陣勝利した当主となってからは、その愛らしさ他国ファン作るほどの統率力実際アイドル的人気)を見せるものの、親衛隊誤った情報吹き込まれたため、一領具足後援会名だと、勘違いしていた。また、敵国にも友好的だが、元親が自分たち以外のものになることを親泰や親衛隊危惧し、彼らを敵視している。そして、当主になったため「姫若子」から「殿若子」と呼ばれるようになった。なお、本山茂辰嫁いだ彼の姉は親泰似で、「親泰は姉のことが好き」と誤解した元親からの「茂辰と親泰のどちらが好きか」という書状を受け、夫に掛け合って長宗我部家に降伏してもらった。 7巻からは次弟親貞の勧めもあって遂に正室迎えることとなった8巻父親となる(史実通りなら既に26歳である)が、性格性質変化はなく、1年もの間、親貞以外の誰もがその事実を知らなかったそれどころか、8年経過した10巻でもより女性的になっただけでまるで進歩していない。 吉良親貞 国親の次男であり、元親の弟。7巻から登場顔立ち童顔大人しめな風貌ではあるが、外見とは裏腹にやや荒い口調毒舌家頭を掻く癖がある。少女趣味長兄を「変態兄キ」、元親に萌える弟や親衛隊を「ドヘンタイども」と罵倒し、親泰や親衛隊目の前で元親にビンタ食らわせることも辞さないなど、家中で最も常識的な価値観と、容赦なく正論述べる非常に辛辣な性格持ち主で、国親が亡くなった現在では、この国で唯一元親に萌えない男。国親や親泰と異なり表情一つ変えずに元親らにきついツッコミ入れる。こうした性格のため彼が吉良家養子に行くまでは、元親の親衛隊は辛い日々送っていたとのこと史実では吉良家養子出されたのは、元親の結婚後である)。なお、弟の親泰が兄萌えであったことは幼少期には既に気付いていた模様(親泰本人成年達するまで気付かれていない思っていた)。そのため元親の性格矯正に関しては親泰には全く期待していなかった。 吉良家からの里帰り方々、兄の性格矯正きっかけとすべく独断進めていた元親の縁談話を切り出して家中震撼させる。己の本音目的こそハッキリ明言しているものの、一方で美濃斎藤氏縁続きでもある石谷氏縁戚関係を結ぶという政略上の理を説くことで、元親萌え以外の理由彼の結婚に異を唱えられない親泰達反対派反論を完全に封殺するなど、非常に隙が無い。その結果目論見通りに元親の婚姻成立させることには成功するが、正室迎えた元親の妻(後述)の性格及び嗜好までは計算外だったようで(親貞は石谷頼辰に「女なら何でも」と頼んでいた)、最大目的であった元親の性格矯正失敗に終わる。 10巻では敗走した一条家引き取るという名目で、兼定鉄砲玉仕立て上げ相も変わらず軟弱なままの元親に謀反起こす香宗我部親泰 声 - 平川大輔アニメ第2期) 国親の三男であり、元親の弟。4巻から登場父親似で、精悍な顔立ちをしている。父と同じく、元親には男らしくなって欲しいと願い、兄や彼に萌えまくる家臣たちを叱咤しているが、実は自らも人一倍萌えている。当初こそ本人はそれを否定し登場初期には動揺している反動家臣への突っ込み方が親貞レベルきつかったが、親衛隊代表格便宜上本作で「親衛隊A」と名付けられた)に自分が元親に萌えていることを悟られたあたりから徐々にペース巻き込まれ親衛隊結束したり、親衛隊以上に暴走したりする場面増え始める。元親を敵国から守るために外交一手引き受けているが、ライバル除きたい親衛隊目論見により元親と形の上だけ絶縁する役割回されるなど苦し役回り押しつけられることになり、長宗我部家の安泰と兄への思慕との間で葛藤する。 幼年期幼名弥七郎)に怪我をした際、元親(当時弥三郎)が治療をしようとして近付いた鼻血吹いたのを見て父親である国親が香宗我部家へ養子出した。 7巻からは元親に萌えない次兄・親貞が登場したこともあって、本気で元親の性格矯正目指す彼とは何かと衝突することになる。8巻にて元親に子供出来たことを知った時には親衛隊たちと共に寝込むほど落ち込み変態極み呼べるような言動をした上で号泣し一時は元親萌え卒業しようとした。しかし、まだ萌えられることに気づいたため、復活した。そして弥三郎はやがて両親譲り美少年育ち、すっかり親バカならぬ叔父バカなり果てることとなる。 なお、5巻巻末おまけマンガでは髭を蓄えた壮年期描かれており、一方の兄・元親は、容姿が全く変わっておらず、俊崇坊に親泰(元親と間違えられた)の妻か娘と思われるほどであったガッシー 元親の妻。石谷頼辰義理の妹で、何時まで経って男らしくならない長兄対し「女与えりゃさすがのコイツも男の本能目覚める」との目論見で親貞がまとめてきた縁談相手。7巻から登場。 元親同様、美少女風貌をしており、ところどころフリル施され下半身部分スカートようになった和服着用している。やや間延びした口調で話す。嫁いでくる前までは「我らの殿を奪おうノコノコやってくる女」として一領具足から目の敵にされていたが、いざ嫁いでくると元親とは似た者夫婦であり、夫とアイドルユニット「ナナツカタバミィ(七つ方喰=長宗我部家紋)」を結成するや否やあっさりと彼らにも受け入れられてしまう。8巻で母となる。 「ガッシー」とは真っ先に彼女に転んだ一領具足命名で、石谷氏出身であることを理由名付けられ愛称であり、本人曰く本名年齢非公開らしい。また史実上の元親夫人も名と生年伝わっていない。 長宗我部弥三郎 元親とガッシーの子供。親貞からの「お前(元親)みたいなヘンタイの子誰からも祝われない」という発言から、存在1年ほど隠されてきた。その後、親泰と一領具足幹部面会した顔立ち父親似で、髪型母親似赤ん坊だけあって、親貞も彼に手を上げていない。 10巻では少し成長した姿で登場両親美貌受け継いだ紅顔の美少年に育つ。本人乙女すぎる父親見て強くあろう」としているが、両親譲り少女趣味抜け切っておらず、周囲からも甘やかされている。その軟弱ぶりには親貞からも甚だ呆れられてはいるが、それ以上バカである元親一派怒り矛先向けられているためそこまで弾劾されてはいない。

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長宗我部家


長宗我部家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:19 UTC 版)

センゴク」の記事における「長宗我部家」の解説

一統記』から登場土佐拠点とする戦国大名家。かつては土佐七雄一角として君臨していたが没落し土佐一条家庇護元に再興した一領具足呼ばれる軍制敷き四国水運発達による海部拠点とした上方への木材輸出主要な産業とした元親の代に急速に勢力伸ばしている。 自身と同じ商業中心とした国作りと戦を行う織田家には親近感抱いて同盟結んでいたが、途中で信長が反長宗我部側と結んだ事で敵対関係転じた本能寺の変による織田家四国遠征中断する中、中富川の戦い反長宗我部勢力残余一掃し四国統一目前とする。しかし日ノ本最大勢力となった羽柴家からの再三臣従要求拒否したことから、四国征伐招き羽柴毛利両家圧倒的物量差による多方面同時侵攻により降伏本領土佐以外は没収となった。 後に十河存保と共に権兵衛最大失敗関わることになる。 長宗我部国親ちょうそかべ くにちか家中では御屋形様と呼ばれる苦難の時代の長宗我部家を率い、その再興怨敵への復讐生涯費やしてきた剛直な人物。元親の異才理解しようとせず、自身との対立でその心を閉ざさせてしまう。しかし後に三男の親泰からは情熱突き動かされるという点において、本質的に国親と元親は似通っていたと評されている。 長宗我部元親ちょうそかべ もとちか通称宮内少輔幼名弥三郎恵まれた体格他者理解できない天稟才覚持ち土佐の出来人呼ばれている他、巨鯨にも例えられる生類を殺す事を嫌い、徒な領土拡張好まない静謐人物だが、理想に必要と判断すれば多勢犠牲となる戦も躊躇わない。大名として極めて穏健で、実際に会った秀吉権兵衛拍子抜けしていた。 夢で見た都を追い求めるという夢想耽った日々過ごし成長見守っていた谷忠澄を除く家中からは奇人扱いを受け、廃嫡すら企てられていた。大柄な体に関わらず初陣すら踏まず家臣はおろか民からも姫若子揶揄されても生き様変える事は無かった。しかし国親の死際に唯一の理解者であった忠澄からも突き放され、齢二十二にして遂に戦場立った初陣では秦泉寺豊後助言真に受けて当主自身先駆けに出るという命知らずぶりを見せ姫若子から一転して鬼若子畏れられる。 夢見通りの都を作り上げるべく、巧み内政と外交土佐商業国家として発展させ、また合戦でも結末先読みしていたかのような人間離れし指揮執る中富川の戦いでは天候による増水予測し引田の戦いでは砂時計使った時間差行軍羽柴三好軍を破ったその後四国国造り構想する一方秀吉から再三臣従要求受けており、内心では“国の安泰より夢想第一義”と思いつつ大名として抗戦臣従かを葛藤する。しかし寵愛する嫡男信親や兵達の意気目の当たりにして、羽柴方の予想遥かに超える四万軍勢動員して四国中心に位置する白地城羽柴家迎え撃つ秀吉不在羽柴軍を各個撃破すべく、「植田城での包囲殲滅策」「海部への誘引策」を打つも、引田の戦い権兵衛三郎取り逃がしていたことで二人から情報得た官兵衛によってことごとく看破されることになり、羽柴毛利軍侵攻前に降伏本領土佐一国のみ安堵された。その後秀吉恭順しており、旧敵である権兵衛三郎取次として訪れた際には、秀吉の命に従い四国連合軍への従軍受諾する秀吉九州征伐思惑悟り権兵衛忠告する嫡男信親桑名伴って権兵衛三好と共に豊後上陸評定では戦略疎い将に代わって軍師立場務めた仙石と共に謀反した国人討伐を行う中で、信親が学ばんとしてることを察しており、信親が殿に志願した際は権兵衛に「我が子若輩ゆえ試練お与えを」とその意思汲んでいる。島津家久)軍が豊後侵攻してきたことで島津家との火種作るという目標達成した一転権兵衛家久軍との独断開戦決める。秀吉の命にも違反することから長宗我部家は離脱方向固まったが、豊臣の世は長く続かないことを確信しており、「秀吉死す日まで雌伏の時を過ごす」と言い含めていた信親反意する。信親の意を汲み鶴ヶ城救援までという条件長宗我部勢も加勢することを決め権兵衛大雑把な戦術呆れつつも少しでもリスク回避するため、元親が考えた陣立案が採用される。「戸次川の戦い」では自身後陣主将として退路確保しつつ、予想される伏兵備えていたが、早い時期から囮戦術釣り野伏せ)の可能性疑っていた。伏兵の上井・樺山勢を難なく退け信親勇戦もあって家久軍の第一波撃退したが、神降りした家久軍の猛烈な第二波前に全滅可能性危惧し権兵衛全軍退却指示する終盤逃走する伝えてきた信親には「予は息子卑怯者たることを切に願う暴風荒ぶ如き合戦卑怯者でなくば生き残れぬ」とその身を案じ家久軍の猛烈な追撃から逃れるため、勘で同調した仙石と共に家久軍を挟撃し、家久軍の混乱乗じて退却成功した帰国後、悲嘆に暮れる権兵衛を恨む計羅に対して恨み自分晴らすよう伝え、「敵であれ味方であれ同じ戦場立った者を恨む事を信親好まぬ故だ」と諭し二人で信親誇り弔った長宗我部信親ちょうそかべ のぶちか通称弥三郎幼名は千雄丸。正室石谷頼辰の娘・計羅。元親の嫡男若き日の元親に瓜二つの女と見間違うほど眉目秀麗青年一人で巨京を仕留める勇敢さに父・元親の夢想国造りにも理解を示す聡明さ持ち合わせ、「光」と呼ばれるほど元親の寵愛一身に受ける。一方、その清廉潔白ぶりは計羅からは「心は童のまま」と危惧されてもいた。権兵衛からは「土佐の倅」と呼ばれる四国征伐では元親と共に白地城入り羽柴軍に寝返った東条兵衛を自ら誅殺する。元親の策がことごとく失敗終わり大勢決した中での評定では降伏に傾く重臣達に反発し土佐本国での羽柴軍との決戦主張するも、その中で東条兵衛寝返りが元親の策によるものだったことを知らされ、己の浅慮悔い戦意喪失する。豊臣家降伏後未だに敗戦受け入れられず、旧敵の権兵衛三郎取次として訪れた際には敵意隠そうともせず一触即発となるが「武功挽回したいと思わんのかい」という権兵衛言葉毒気抜かれてしまった。東条誅殺してしまったのは己の心の弱さ故と悔い良き主君になろうと成長することを胸に秘めて九州征伐では父と共に九州赴く府内乗馬苦戦していた田宮素性隠して乗馬指南し、共に四国出身で歳が近いこともあって意気投合して「いつか両家打ち解ける」ことを夢見るその後大友領内謀反が相次ぎ仙石三好隊と長宗我部隊との間での不和生じないよう、自ら武功挙げるべく果敢に出兵して、時には殿の大役果たしたことで権兵衛もその働き認める。豊後侵攻してきた島津家久)軍と独断開戦決めた権兵衛に対して元親や親光は反対したが、信親だけは賛意し、「来るべき日のみを待ち徒に老いてゆくことは耐え難きこと」と元親に告げる。「戸次川の戦い」では自身無類合戦好きであることを自覚して先陣中央の将として若き日の元親のように自ら先頭立って序盤は倍の家久軍を圧倒する武勇見せ釣り野伏による伏兵で隊が混乱陥る中でも兵達の権兵衛への讒言一蹴し先頭立って戦うことで兵達を鼓舞し、その意気応える形で両翼十河桑名隊、後備え仙石隊も加勢し家久軍の第一波撃退する。しかし神降りした家久軍の第二波前に両翼壊滅敵中孤立するになって踏みとどまって救援駆け付けた田宮と共に奮戦したが、田宮討死する。田宮討死知らされても形見を拾うべく、戦い続け自身大名向いてない故に元親が生き残るべきと元親には退却したとの虚報伝え、殿として最後一人になるまで奮戦した後、力尽きた島津兵もその勇戦ぶりに敬意表して、首を取らなかった。 石谷氏(いしがいし) 通称計羅。長宗我部家臣・石谷頼辰の娘で信親正室美女だが思いつめやすい性格四国征伐直前婚姻たばかりだが、夫・信親を「心は童のまま」と危惧合戦に行かせまい寝ている信親の目を抉ろうと逡巡したことを告白するほど信親愛している。 四国征伐後に一時豊臣秀吉によって故明智光秀の娘という根も葉もない嫌疑かけられ実際服従したばかりの長宗我部家の反応を見るためと思われる)、嫌疑確認に来た権兵衛や存保とも対面している。「戸次川の戦い」で最愛信親のみならず、父・頼辰も失い権兵衛を恨むが、元親に諭される。 吉良親貞きら ちかさだ通称左京進。国親の次男で元親の弟。 家督継いだ兄・元親を補佐し土佐平定貢献する。元親に「四国の王」になるよう進言するが、兄に先立って死亡している。 香宗我部親泰こうそかべ ちかやす通称安芸守。国親の三男で元親の弟。長宗我部家の親族である香宗我部家を継承している。 野心高く冷徹で、兄の才覚をもってすれば四国統一はおろか、長宗我部家を畿内にまで躍り出る大国拡大できる考えている。しかし献策は戦の拡大好まない元親に退けられ逆に憎む理由もない生類殺めねばならない乱世残酷さを諭された。一方、兄が時に見せ自分上の冷酷さ気圧される事もある。引田の戦いでは時間差での行軍命じられ山道塞いで羽柴三好包囲一手築いた四国征伐の際は阿波牛城主務めたが、病を発し早々に城を放棄することになり、元親の誤算一つとなった谷忠澄たに ただずみ通称忠兵衛。長宗我部家の重臣四国征伐の際は一宮城主。 元は土佐神社神主で、家中奇人扱いされていた若き日の元親の相談相手務めており、早くから元親の異才気付いていた。元親が当主となってからは側近務め四国征伐の際は一宮城包囲される中で秀長と会談その後評定にて死も辞さない覚悟羽柴家から提示され和睦降伏条件を元親に伝える。 戸波親武(へわ ちかたけ) 通称右兵衛。長宗我部家の一門衆で元親とは従兄弟間柄讃岐植田城主讃岐方面軍植田城を包囲され使者官兵衛と正勝開城確約するが、それは元親の包囲殲滅策であり、家臣の首を差し出して元親率い本隊到着まで決死時間稼ぎを図るも、策は官兵衛によって看破され失敗終わった東条実光とうじょう さねみつ) 通称は関兵衛。長宗我部家の重臣で妻は元親の養女木津城主。 木津城が秀長率い羽柴軍に包囲された際に、叔父東条紀伊守は三好家臣で羽柴方に付いていたため、羽柴方の調略受けて寝返り土佐本国への先導役を務める。しかしその寝返り南下侵攻企図させ、各個撃破するために海部城羽柴軍を誘引するための偽りの寝返りであったが、官兵衛によって看破され失敗終わったその後、元親の策であることを知らず詰問訪れた信親思いやり弁明することなく切腹した。 香川信景(かがわ のぶかげ) 通称兵部大輔。長宗我部家の武将引田の戦いでは大西頼包と共に長宗我部軍の先遣隊五千の将を務め引田城進軍する待ち構えていた仙石隊に奇襲を受けるも劣勢と見るやすぐに後退する機転良さ見せる。その後仙石隊に逆襲仕掛けようとするも抜群の勘の良さ見せ権兵衛苦渋強いられるが、当初から仙石隊の動きをすべて予測していた元親の策に従い本隊合流して仙石隊を打ち破った金子元宅(かねこ もといえ) 通称備後守伊予の国人で長宗我部家の武将長宗我部軍の伊予侵攻の際に降伏して長宗我部家の武将となるも、四国征伐の際は元親の後詰をほとんど得られず、毛利軍前に伊予高尾城孤立無援戦い強いられ総大将の隆景から降伏勧告出ていたが、それを拒否して毛利軍戦った末、自決した桑名親光くわな ちかみつ通称太郎左衛門。長宗我部家の重臣。齢は三十九歳だが、老け顔権兵衛からは「(桑名の)若ジジイ」と呼ばれる九州征伐では、長宗我部家父子補佐として従軍軍議では主君・元親に委ねていることから発言せず、権兵衛独断島津家久)軍との開戦決めた際には元親と共に反対に回った最終的に信親意思尊重する形で長宗我部家も合戦加勢し自身先陣右翼配置する戸次川の戦いでは中央の信親隊を守るべく左翼十河隊と援護家久軍の第一波撃退したが、神降りした家久軍の第二波では他の隊より疲弊していたことを家久見抜かれ最初標的とされて家久軍の突撃を受ける。尋常でない家久軍を目の当たりにして片目失いながらも、必死に配下の兵達に信親逃げるよう伝えよと叫ぶが、島津兵に討ち取られた。

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