長宗我部氏
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長宗我部氏(ちょうそかべし/ちょうすがめし)は、日本の武家の一つ。長曽(曾)我部とも記される。室町時代以降、通字に「親」を用いた。家紋は「七つ酢漿草」。
注釈
- ^ 盛親の子孫を名乗る者は複数いるが、何れの場合も子孫であるとは証明されていない。
- ^ 秦氏の先祖弓月君は秦の始皇帝の後裔であるという(『新撰姓氏録』太秦公宿禰 項)。
- ^ この書状により、能俊入国の3つ目の説は否定されうる。
- ^ 伝統的な字体の「曾」、略字体の「曽」とも長らく表外漢字であったが、2000年(平成12年)の表外漢字字体表では曾・が印刷標準字体、曽・が簡易慣用字体とされた。一方、2010年(平成22年)の常用漢字表改定では曽・が常用漢字として採用され、曾・はその旧字体と位置付けられることになった。ただ、表外漢字字体表はそのままであり、2020年(令和2年)現在、MS-IMEは曾・を印刷標準字体、「曽」を簡易慣用字体と表示している。
- ^ 友親の著書からは、「ちょうそがべ」が地元での通称なのか、戸籍上の名前なのかまでは判然としない[9]。
- ^ 『土佐物語』には文明10年(1478年)に文兼が迎えたと記しているが、実際には『大乗院寺社雑事記』の記事の応仁2年(1468年)に大平氏の船で入国したと思われる[2]。
- ^ 修行に出たのは長宗我部元勝とされるが、『土佐国編年紀事略』では元門の誤りである、としている。『土佐物語』・『四国軍記』では「元勝が応永年間に武者修行」と記すが、「元門が応仁年間に」の間違いと考えられる[2]。
- ^ 四国攻め#長宗我部による四国統一についてを参照。
- ^ ただし、天正13年(1585年)には元親が既に大高坂を本拠にしていたとする説もある[14]。
出典
- ^ 『続群書類従』長宗我部氏系図。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 山本 1974.
- ^ a b 『更級郡誌』(1914年(大正3年)、長野県更級郡役所)。
- ^ 『土佐諸家系図一』「?姓系図」能俊項。
- ^ 山本大「長宗我部苗字考」『土佐史談』90号、1957年。
- ^ 海音寺潮五郎『海音寺潮五郎全集 第17巻』(朝日新聞社、1970年(昭和45年))
- ^ 『和名類聚抄』
- ^ 『多聞院日記 第三巻』(三教書院、1926年(大正15年)) p.426(天正十三年六月廿一日)
- ^ 長宗我部 2017.
- ^ a b c 『土佐国編年紀事略』巻4。
- ^ a b 市村高男「戦国の群雄と土佐国」『高知県の歴史』山川出版社、2001年。
- ^ a b 平井 2008.
- ^ 横川末吉『長宗我部地検帳の研究』(高知市民図書館、1961年(昭和36年))
- ^ 目良裕昭 著「戦国末~豊臣期土佐国における城下町の形成と展開」、市村高男 編『中世土佐の世界と一条氏』高志書院、2010年。ISBN 978-4-86215-080-6。
- ^ 津野倫明「長宗我部盛親の家督継承」(初出:図録『長宗我部盛親』(高知県立歴史民俗資料館、2006年(平成18年))/所収:津野『長宗我部氏の研究』(吉川弘文館、2012年(平成24年))ISBN 978-4-642-02907-0)
- ^ 空飛ぶ庭-長宗我部の庭 (日本語)
- ^ a b “(天声人語)猛将・長宗我部の悩み”. 朝日新聞朝刊. (2017年5月22日)
- ^ 明田 1986, p. 98.
- ^ 長宗我部 2017, p. 95.
- ^ 『元親記』。
- ^ 『長元記』(『土佐国群書類従』4(高知県立図書館、2001年(平成13年)))。
- 1 長宗我部氏とは
- 2 長宗我部氏の概要
- 3 歴史
- 4 歴代当主
- 5 分国法
- 6 外部リンク
長宗我部家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/09 02:25 UTC 版)
「戦極姫 -戦乱の世に焔立つ-」の記事における「長宗我部家」の解説
土佐の一部を支配する豪族。モデルは長宗我部氏。 長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか) モデル:長宗我部元親 絵師:西脇ゆぅり→さいばし(PS2/PSP版) CV:高槻つばさ、雪野梨沙(PS2/PSP版) 「姫若子」と呼ばれる、小柄で華奢な身体に長い濡れ羽色の黒髪を持つ何処をどう見ても可憐な少女の容貌をした少年。性別は男だがサブヒロインキャラである。本人はチカに惚れていて、男らしくなろうとしている。 久武チカ(ひさたけ -) モデル:久武親直 絵師:西脇ゆぅり→さいばし(PS2/PSP版) CV:野宮香央里、宮沢ゆあな(PS2/PSP版) 親信の妹。よく元親をいじめている。これは好意の裏返しではなく、単純に気に入らないからである。 久武親信(ひさたけ ちかのぶ) モデル:久武親信 絵師:真紅 CV:なし 誠実で、軍事に優れた手腕を持つ長宗我部家の重臣。土佐の「一領具足」制度下で元親を御旗に家中をまとめ上げた。元親への忠義が行き過ぎて空回りする事が多い。
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長宗我部家
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「戦極姫3〜天下を切り裂く光と影〜」の記事における「長宗我部家」の解説
土佐国の一部を支配する豪族。絵師はネムネム。モデルは長宗我部氏。 長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか) モデル:長宗我部元親 声 - 高槻つばさ→雪野梨沙(PSP版) 長宗我部家当主。「姫若子」と呼ばれる、小柄で華奢な身体に長い濡れ羽色の黒髪を持つ何処をどう見ても可憐な少女の容貌をした少年。本人はチカに惚れていて、男らしくなろうとしている。 久武 チカ(ひさたけ チカ) モデル:久武親直 声 - 宮沢ゆあな→同じ(PSP版) 長宗我部家武将。自分よりも元親の方が可愛らしく、もてているのが気に食わない。
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長宗我部家
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長宗我部国親 声 - 杉野博臣(ドラマCD) 長宗我部家当主。元親に萌えない一人であり、息子の軟弱ぶりと、その息子に萌えまくる家臣たちに頭痛の毎日を送る。作中で亡くなった描写が描かれた数少ない一人。 長宗我部元親 声 - 能登麻美子(ドラマCD、アニメ) 姫若子(女の子のように大人しい子)と呼ばれていた史実を拡大解釈し、少女趣味で華奢で美少女に見える美青年として登場。愛称は「モトチーナ」だが、ガッシーからは「もとちん」と呼ばれる。 馬に乗るのを怖がり、剣の稽古もままならず、庭の花や小鳥に話しかけるなど、深窓の令嬢のように臆病で軟弱な性格。料理好きで、ことあるごとにお菓子や弁当を作っている。外見に違わぬ平和主義者であり戦争を好まない心優しい性格だが、「毛虫がいる」と言われただけで泣いて怯えるなど、一国の領主としてはあまりにも臆病すぎる一面もある。また、天然ボケ気味でぶりっ子かつおバカキャラ的なところもある。しかしその可愛らしさゆえに家臣たちに絶大な人気を誇り、男子であるにもかかわらず萌えまくられ甘やかされ、元親親衛隊が組織されている。悩む父の姿に心を痛め「男らしくなる」と宣言したこともあるが、スクール水着やナース服を平然と着こなすなど奇抜な行動も目立つ。その個性を逆手に取り、恐るべき方法を用いて初陣を勝利した。 当主となってからは、その愛らしさで他国にファンを作るほどの統率力(実際はアイドル的人気)を見せるものの、親衛隊に誤った情報を吹き込まれたため、一領具足を後援会名だと、勘違いしていた。また、敵国にも友好的だが、元親が自分たち以外のものになることを親泰や親衛隊が危惧し、彼らを敵視している。そして、当主になったため「姫若子」から「殿若子」と呼ばれるようになった。なお、本山茂辰に嫁いだ彼の姉は親泰似で、「親泰は姉のことが好き」と誤解した元親からの「茂辰と親泰のどちらが好きか」という書状を受け、夫に掛け合って長宗我部家に降伏してもらった。 7巻からは次弟親貞の勧めもあって遂に正室を迎えることとなった。8巻で父親となる(史実通りなら既に26歳である)が、性格や性質に変化はなく、1年もの間、親貞以外の誰もがその事実を知らなかった。それどころか、8年が経過した10巻でもより女性的になっただけでまるで進歩していない。 吉良親貞 国親の次男であり、元親の弟。7巻から登場。 顔立ちは童顔で大人しめな風貌ではあるが、外見とは裏腹にやや荒い口調の毒舌家。頭を掻く癖がある。少女趣味の長兄を「変態兄キ」、元親に萌える弟や親衛隊を「ドヘンタイども」と罵倒し、親泰や親衛隊の目の前で元親にビンタを食らわせることも辞さないなど、家中で最も常識的な価値観と、容赦なく正論を述べる非常に辛辣な性格の持ち主で、国親が亡くなった現在では、この国で唯一元親に萌えない男。国親や親泰と異なり、表情一つ変えずに元親らにきついツッコミを入れる。こうした性格のため彼が吉良家に養子に行くまでは、元親の親衛隊は辛い日々を送っていたとのこと(史実では吉良家に養子に出されたのは、元親の結婚後である)。なお、弟の親泰が兄萌えであったことは幼少期には既に気付いていた模様(親泰本人は成年に達するまで気付かれていないと思っていた)。そのため元親の性格矯正に関しては親泰には全く期待していなかった。 吉良家からの里帰り方々、兄の性格矯正のきっかけとすべく独断で進めていた元親の縁談話を切り出して家中を震撼させる。己の本音と目的こそハッキリと明言しているものの、一方で美濃斎藤氏と縁続きでもある石谷氏と縁戚関係を結ぶという政略上の理を説くことで、元親萌え以外の理由で彼の結婚に異を唱えられない親泰達反対派の反論を完全に封殺するなど、非常に隙が無い。その結果、目論見通りに元親の婚姻を成立させることには成功するが、正室に迎えた元親の妻(後述)の性格及び嗜好までは計算外だったようで(親貞は石谷頼辰に「女なら何でも」と頼んでいた)、最大の目的であった元親の性格矯正は失敗に終わる。 10巻では敗走した一条家を引き取るという名目で、兼定を鉄砲玉に仕立て上げ、相も変わらず軟弱なままの元親に謀反を起こす。 香宗我部親泰 声 - 平川大輔(アニメ第2期) 国親の三男であり、元親の弟。4巻から登場。 父親似で、精悍な顔立ちをしている。父と同じく、元親には男らしくなって欲しいと願い、兄や彼に萌えまくる家臣たちを叱咤しているが、実は自らも人一倍萌えている。当初こそ本人はそれを否定し、登場初期には動揺している反動で家臣への突っ込み方が親貞レベルにきつかったが、親衛隊の代表格(便宜上本作で「親衛隊A」と名付けられた)に自分が元親に萌えていることを悟られたあたりから徐々にペースに巻き込まれ、親衛隊と結束したり、親衛隊以上に暴走したりする場面も増え始める。元親を敵国から守るために外交を一手に引き受けているが、ライバルを除きたい親衛隊の目論見により元親と形の上だけ絶縁する役割を回されるなど苦しい役回りを押しつけられることになり、長宗我部家の安泰と兄への思慕との間で葛藤する。 幼年期(幼名は弥七郎)に怪我をした際、元親(当時は弥三郎)が治療をしようとして近付いたら鼻血を吹いたのを見て、父親である国親が香宗我部家へ養子に出した。 7巻からは元親に萌えない次兄・親貞が登場したこともあって、本気で元親の性格矯正を目指す彼とは何かと衝突することになる。8巻にて元親に子供が出来たことを知った時には、親衛隊たちと共に寝込むほど落ち込み、変態の極みと呼べるような言動をした上で号泣し、一時は元親萌えを卒業しようとした。しかし、まだ萌えられることに気づいたため、復活した。そして弥三郎はやがて両親譲りの美少年に育ち、すっかり親バカならぬ叔父バカになり果てることとなる。 なお、5巻巻末のおまけマンガでは髭を蓄えた壮年期が描かれており、一方の兄・元親は、容姿が全く変わっておらず、俊崇坊に親泰(元親と間違えられた)の妻か娘と思われるほどであった。 ガッシー 元親の妻。石谷頼辰の義理の妹で、何時まで経っても男らしくならない長兄に対し「女与えりゃさすがのコイツも男の本能が目覚める」との目論見で親貞がまとめてきた縁談の相手。7巻から登場。 元親同様、美少女の風貌をしており、ところどころにフリルが施され、下半身部分がスカートのようになった和服を着用している。やや間延びした口調で話す。嫁いでくる前までは「我らの殿を奪おうとノコノコやってくる女」として一領具足から目の敵にされていたが、いざ嫁いでくると元親とは似た者夫婦であり、夫とアイドルユニット「ナナツカタバミィ(七つ方喰=長宗我部の家紋)」を結成するや否やあっさりと彼らにも受け入れられてしまう。8巻で母となる。 「ガッシー」とは真っ先に彼女に転んだ一領具足の命名で、石谷氏の出身であることを理由に名付けられた愛称であり、本人曰く本名・年齢は非公開らしい。また史実上の元親夫人も名と生年は伝わっていない。 長宗我部弥三郎 元親とガッシーの子供。親貞からの「お前(元親)みたいなヘンタイの子は誰からも祝われない」という発言から、存在を1年ほど隠されてきた。その後、親泰と一領具足の幹部と面会した。顔立ちは父親似で、髪型は母親似。赤ん坊なだけあって、親貞も彼には手を上げていない。 10巻では少し成長した姿で登場。両親の美貌を受け継いだ紅顔の美少年に育つ。本人は乙女すぎる父親を見て「強くあろう」としているが、両親譲りの少女趣味は抜け切っておらず、周囲からも甘やかされている。その軟弱ぶりには親貞からも甚だ呆れられてはいるが、それ以上のバカである元親一派に怒りの矛先が向けられているためそこまで弾劾されてはいない。
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長宗我部家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 21:41 UTC 版)
パーソナルカラーは藤色、イラストには注連縄、農具などを所持する。騎馬隊・槍足軽・鉄砲隊・弓足軽・足軽で構成され、軽騎馬隊はUC吉良親実のみ存在する。特技「一領」を持つ武将は他の武家の同コスト帯に比べ、武力と統率力が低く設定されている。一領のモードで効果が異なる計略、設置陣形、城内の敵にダメージ、一領の付与などテクニカルな計略を持つ。 栄音 江村親家 大西頼包 吉良親貞 吉良親実 桑名吉成 香宗我部親泰 河野通直 佐竹親直 島親益 祥鳳 秦泉寺豊後 水心 長宗我部国親 長宗我部信親 長宗我部元親 中島可之助 波川清宗 久武親直 久武親信 非有 福留親政 福留儀重 戸波親武 細川真之 本山親茂 本山夫人 吉田貞重 吉田重俊 吉田孝頼 公文重忠 香宗我部親秀 長宗我部兼序 長宗我部親吉 理春尼 阿古姫 立石正賀 長宗我部盛親 津野親忠 戸波親清 吉田政重 長宗我部盛胤 長宗我部康豊 養甫尼 久万俊政
※この「長宗我部家」の解説は、「戦国大戦」の解説の一部です。
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長宗我部家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:19 UTC 版)
『一統記』から登場。土佐を拠点とする戦国大名家。かつては土佐七雄の一角として君臨していたが没落し、土佐一条家の庇護の元に再興した。一領具足と呼ばれる軍制を敷き、四国の水運の発達による海部を拠点とした上方への木材輸出を主要な産業とした元親の代に急速に勢力を伸ばしている。 自身と同じ商業を中心とした国作りと戦を行う織田家には親近感を抱いて同盟を結んでいたが、途中で信長が反長宗我部側と結んだ事で敵対関係に転じた。本能寺の変による織田家の四国遠征が中断する中、中富川の戦いで反長宗我部勢力の残余を一掃し、四国統一を目前とする。しかし日ノ本最大の勢力となった羽柴家からの再三の臣従要求を拒否したことから、四国征伐を招き、羽柴・毛利両家の圧倒的物量差による多方面同時侵攻により降伏、本領の土佐以外は没収となった。 後に十河存保と共に権兵衛最大の失敗に関わることになる。 長宗我部国親(ちょうそかべ くにちか) 家中では御屋形様と呼ばれる。苦難の時代の長宗我部家を率い、その再興と怨敵への復讐に生涯を費やしてきた剛直な人物。元親の異才を理解しようとせず、自身との対立でその心を閉ざさせてしまう。しかし後に三男の親泰からは情熱に突き動かされるという点において、本質的に国親と元親は似通っていたと評されている。 長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか) 通称は宮内少輔、幼名は弥三郎。恵まれた体格と他者に理解できない天稟の才覚を持ち、土佐の出来人と呼ばれている他、狢や巨鯨にも例えられる。生類を殺す事を嫌い、徒な領土拡張も好まない静謐な人物だが、理想に必要と判断すれば多勢が犠牲となる戦も躊躇わない。大名としては極めて穏健で、実際に会った秀吉や権兵衛も拍子抜けしていた。 夢で見た都を追い求めるという夢想に耽った日々を過ごし、成長を見守っていた谷忠澄を除く家中からは奇人扱いを受け、廃嫡すら企てられていた。大柄な体に関わらず初陣すら踏まず、家臣はおろか民からも姫若子と揶揄されても生き様を変える事は無かった。しかし国親の死際に唯一の理解者であった忠澄からも突き放され、齢二十二にして遂に戦場に立った。初陣では秦泉寺豊後の助言を真に受けて当主自身が先駆けに出るという命知らずぶりを見せ、姫若子から一転して鬼若子と畏れられる。 夢見通りの都を作り上げるべく、巧みな内政と外交で土佐を商業国家として発展させ、また合戦でも結末を先読みしていたかのような人間離れした指揮を執る。中富川の戦いでは天候による増水を予測し、引田の戦いでは砂時計を使った時間差行軍で羽柴・三好軍を破った。その後も四国の国造りを構想する一方、秀吉から再三の臣従要求を受けており、内心では“国の安泰より夢想が第一義”と思いつつも大名として抗戦か臣従かを葛藤する。しかし寵愛する嫡男・信親や兵達の意気を目の当たりにして、羽柴方の予想を遥かに超える四万の軍勢を動員して四国の中心に位置する白地城で羽柴家を迎え撃つ。秀吉不在の羽柴軍を各個撃破すべく、「植田城での包囲殲滅策」「海部への誘引策」を打つも、引田の戦いで権兵衛、三郎を取り逃がしていたことで二人から情報を得た官兵衛によってことごとく看破されることになり、羽柴・毛利軍の侵攻の前に降伏、本領の土佐一国のみ安堵された。その後は秀吉に恭順しており、旧敵である権兵衛や三郎が取次として訪れた際には、秀吉の命に従い、四国連合軍への従軍を受諾するが秀吉の九州征伐の思惑を悟り、権兵衛に忠告する。 嫡男・信親や桑名を伴って権兵衛や三好と共に豊後に上陸、評定では戦略に疎い両将に代わって軍師的立場を務めた。仙石隊と共に謀反した国人討伐を行う中で、信親が学ばんとしてることを察しており、信親が殿に志願した際は権兵衛に「我が子、若輩ゆえ試練をお与えを」とその意思を汲んでいる。島津(家久)軍が豊後に侵攻してきたことで島津家との火種を作るという目標は達成したが一転、権兵衛は家久軍との独断開戦を決める。秀吉の命にも違反することから長宗我部家は離脱の方向で固まったが、豊臣の世は長く続かないことを確信しており、「秀吉が死す日まで雌伏の時を過ごす」と言い含めていた信親は反意する。信親の意を汲み、鶴ヶ城の救援までという条件で長宗我部勢も加勢することを決め、権兵衛の大雑把な戦術に呆れつつも少しでもリスクを回避するため、元親が考えた陣立案が採用される。「戸次川の戦い」では自身は後陣の主将として退路を確保しつつ、予想される敵伏兵に備えていたが、早い時期から囮戦術(釣り野伏せ)の可能性を疑っていた。伏兵の上井・樺山勢を難なく退け、信親の勇戦もあって家久軍の第一波を撃退したが、神降りした家久軍の猛烈な第二波の前に全滅の可能性を危惧し、権兵衛に全軍退却を指示する。終盤、逃走すると伝えてきた信親には「予は息子に卑怯者たることを切に願う。暴風荒ぶ如き合戦…卑怯者でなくば生き残れぬ」とその身を案じ、家久軍の猛烈な追撃から逃れるため、勘で同調した仙石隊と共に家久軍を挟撃し、家久軍の混乱に乗じて退却に成功した。帰国後、悲嘆に暮れるが権兵衛を恨む計羅に対しては恨みは自分に晴らすよう伝え、「敵であれ味方であれ同じ戦場に立った者を恨む事を信親が好まぬ故だ」と諭し、二人で信親を誇りと弔った。 長宗我部信親(ちょうそかべ のぶちか) 通称は弥三郎、幼名は千雄丸。正室は石谷頼辰の娘・計羅。元親の嫡男で若き日の元親に瓜二つの女と見間違うほど眉目秀麗な青年。一人で巨京を仕留める勇敢さに父・元親の夢想の国造りにも理解を示す聡明さを持ち合わせ、「光」と呼ばれるほど元親の寵愛を一身に受ける。一方、その清廉潔白ぶりは計羅からは「心は童のまま」と危惧されてもいた。権兵衛からは「土佐の倅」と呼ばれる。 四国征伐では元親と共に白地城に入り、羽柴軍に寝返った東条関兵衛を自ら誅殺する。元親の策がことごとく失敗に終わり、大勢が決した中での評定では降伏に傾く重臣達に反発し、土佐本国での羽柴軍との決戦を主張するも、その中で東条関兵衛の寝返りが元親の策によるものだったことを知らされ、己の浅慮を悔い、戦意喪失する。豊臣家に降伏後も未だに敗戦を受け入れられず、旧敵の権兵衛や三郎が取次として訪れた際には敵意を隠そうともせず、一触即発となるが「武功で挽回したいと思わんのかい」という権兵衛の言葉に毒気を抜かれてしまった。東条を誅殺してしまったのは己の心の弱さ故と悔い、良き主君になろうと成長することを胸に秘めて、九州征伐では父と共に九州へ赴く。 府内で乗馬に苦戦していた田宮に素性を隠して乗馬を指南し、共に四国出身で歳が近いこともあって意気投合して「いつか両家が打ち解ける」ことを夢見る。その後、大友領内で謀反が相次ぎ、仙石・三好隊と長宗我部隊との間での不和が生じないよう、自ら武功を挙げるべく果敢に出兵して、時には殿の大役も果たしたことで権兵衛もその働きを認める。豊後へ侵攻してきた島津(家久)軍と独断で開戦を決めた権兵衛に対して元親や親光は反対したが、信親だけは賛意し、「来るべき日のみを待ち、徒に老いてゆくことは耐え難きこと」と元親に告げる。「戸次川の戦い」では自身が無類の合戦好きであることを自覚して、先陣中央の将として若き日の元親のように自ら先頭に立って序盤は倍の家久軍を圧倒する武勇を見せ、釣り野伏による伏兵で隊が混乱に陥る中でも兵達の権兵衛への讒言を一蹴し、先頭に立って戦うことで兵達を鼓舞し、その意気に応える形で両翼の十河・桑名隊、後備えの仙石隊も加勢し、家久軍の第一波を撃退する。しかし神降りした家久軍の第二波の前に両翼は壊滅、敵中に孤立する形になっても踏みとどまって救援に駆け付けた田宮隊と共に奮戦したが、田宮は討死する。田宮の討死を知らされても形見を拾うべく、戦い続け、自身は大名に向いてない故に元親が生き残るべきと元親には退却したとの虚報を伝え、殿として最後の一人になるまで奮戦した後、力尽きた。島津兵もその勇戦ぶりに敬意を表して、首を取らなかった。 石谷氏(いしがいし) 通称は計羅。長宗我部家臣・石谷頼辰の娘で信親の正室。美女だが思いつめやすい性格。四国征伐直前に婚姻したばかりだが、夫・信親を「心は童のまま」と危惧、合戦に行かせまいと寝ている信親の目を抉ろうと逡巡したことを告白するほど信親を愛している。 四国征伐後に一時、豊臣秀吉によって故明智光秀の娘という根も葉もない嫌疑をかけられ(実際は服従したばかりの長宗我部家の反応を見るためと思われる)、嫌疑の確認に来た権兵衛や存保とも対面している。「戸次川の戦い」で最愛の信親のみならず、父・頼辰も失い、権兵衛を恨むが、元親に諭される。 吉良親貞(きら ちかさだ) 通称は左京進。国親の次男で元親の弟。 家督を継いだ兄・元親を補佐し、土佐平定に貢献する。元親に「四国の王」になるよう進言するが、兄に先立って死亡している。 香宗我部親泰(こうそかべ ちかやす) 通称は安芸守。国親の三男で元親の弟。長宗我部家の親族である香宗我部家を継承している。 野心高く冷徹で、兄の才覚をもってすれば四国統一はおろか、長宗我部家を畿内にまで躍り出る大国へ拡大できると考えている。しかし献策は戦の拡大を好まない元親に退けられ、逆に憎む理由もない生類を殺めねばならない乱世の残酷さを諭された。一方、兄が時に見せる自分以上の冷酷さに気圧される事もある。引田の戦いでは時間差での行軍を命じられ、山道を塞いで羽柴・三好軍包囲の一手を築いた。四国征伐の際は阿波牛岐城主を務めたが、病を発し、早々に城を放棄することになり、元親の誤算の一つとなった。 谷忠澄(たに ただずみ) 通称は忠兵衛。長宗我部家の重臣。四国征伐の際は一宮城主。 元は土佐神社の神主で、家中で奇人扱いされていた若き日の元親の相談相手を務めており、早くから元親の異才に気付いていた。元親が当主となってからは側近を務め、四国征伐の際は一宮城が包囲される中で秀長と会談、その後の評定にて死も辞さない覚悟で羽柴家から提示された和睦降伏の条件を元親に伝える。 戸波親武(へわ ちかたけ) 通称は右兵衛。長宗我部家の一門衆で元親とは従兄弟の間柄。讃岐・植田城主。 讃岐方面軍に植田城を包囲され、使者の官兵衛と正勝に開城を確約するが、それは元親の包囲殲滅策であり、家臣の首を差し出して元親率いる本隊到着まで決死の時間稼ぎを図るも、策は官兵衛によって看破され、失敗に終わった。 東条実光(とうじょう さねみつ) 通称は関兵衛。長宗我部家の重臣で妻は元親の養女。木津城主。 木津城が秀長率いる羽柴軍に包囲された際に、叔父の東条紀伊守は三好家臣で羽柴方に付いていたため、羽柴方の調略を受けて寝返り、土佐本国への先導役を務める。しかしその寝返りは南下侵攻を企図させ、各個撃破するために海部城へ羽柴軍を誘引するための偽りの寝返りであったが、官兵衛によって看破され失敗に終わった。その後、元親の策であることを知らずに詰問に訪れた信親を思いやり、弁明することなく切腹した。 香川信景(かがわ のぶかげ) 通称は兵部大輔。長宗我部家の武将。 引田の戦いでは大西頼包と共に長宗我部軍の先遣隊五千の将を務め、引田城に進軍するも待ち構えていた仙石隊に奇襲を受けるも劣勢と見るやすぐに後退する機転の良さを見せる。その後も仙石隊に逆襲を仕掛けようとするも抜群の勘の良さを見せる権兵衛に苦渋を強いられるが、当初から仙石隊の動きをすべて予測していた元親の策に従い本隊に合流して仙石隊を打ち破った。 金子元宅(かねこ もといえ) 通称は備後守。伊予の国人で長宗我部家の武将。長宗我部軍の伊予侵攻の際に降伏して長宗我部家の武将となるも、四国征伐の際は元親の後詰をほとんど得られず、毛利軍を前に伊予高尾城で孤立無援の戦いを強いられ、総大将の隆景から降伏勧告も出ていたが、それを拒否して毛利軍と戦った末、自決した。 桑名親光(くわな ちかみつ) 通称は太郎左衛門。長宗我部家の重臣。齢は三十九歳だが、老け顔で権兵衛からは「(桑名の)若ジジイ」と呼ばれる。 九州征伐では、長宗我部家父子の補佐として従軍、軍議では主君・元親に委ねていることから発言せず、権兵衛が独断で島津(家久)軍との開戦を決めた際には元親と共に反対に回った。最終的に信親の意思を尊重する形で長宗我部家も合戦に加勢し、自身は先陣右翼に配置する。戸次川の戦いでは中央の信親隊を守るべく左翼の十河隊と援護、家久軍の第一波を撃退したが、神降りした家久軍の第二波では他の隊より疲弊していたことを家久に見抜かれ、最初の標的とされて家久軍の突撃を受ける。尋常でない家久軍を目の当たりにして片目を失いながらも、必死に配下の兵達に信親に逃げるよう伝えよと叫ぶが、島津兵に討ち取られた。
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