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ちょうそかべ-もとちか ちやうそかべ― 【長宗我部元親】
(1539-1599) 戦国大名。国親の子。土佐の国司一条氏を追って四国全土を統一。1585年豊臣秀吉に降伏してのち、土佐一国を許され、九州出兵、文禄・慶長の役に従った。掟書「長宗我部元親百箇条」が知られる。
戦国武将覚書 |
長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか) 1539~1599
○弥三郎 雪蹊恕三 宮内少輔 土佐守 羽柴土佐侍従
◇父:長宗我部国親 室:石谷光政女 子:長宗我部信親、香川親和、津野親忠、長宗我部盛親、右近大夫、吉田信九郎康豊
土佐・長宗我部氏当主。幼少の頃は、性格がおとなしく“姫若子”とあだなされたが、長浜戸の本の初陣で功をたてて“土佐の出来人”と称される。以後、土佐の豪族“土佐七雄”を次々と攻略、主筋にあたる一条氏も豊後に追い、土佐を平定した。さらに三好氏、河野氏ら謀略を駆使して次々と周囲の敵を討ち、四国全域を治めた。しかし、天下の大半を制した羽柴秀吉が来攻、これに反抗するも、敗れて降伏その臣下となった。その後、九州攻め、朝鮮出兵などに参加する。元親は武略家であると同時に民政家でもあり、「元親百箇条」の法規を遺した。
◇父:長宗我部国親 室:石谷光政女 子:長宗我部信親、香川親和、津野親忠、長宗我部盛親、右近大夫、吉田信九郎康豊
土佐・長宗我部氏当主。幼少の頃は、性格がおとなしく“姫若子”とあだなされたが、長浜戸の本の初陣で功をたてて“土佐の出来人”と称される。以後、土佐の豪族“土佐七雄”を次々と攻略、主筋にあたる一条氏も豊後に追い、土佐を平定した。さらに三好氏、河野氏ら謀略を駆使して次々と周囲の敵を討ち、四国全域を治めた。しかし、天下の大半を制した羽柴秀吉が来攻、これに反抗するも、敗れて降伏その臣下となった。その後、九州攻め、朝鮮出兵などに参加する。元親は武略家であると同時に民政家でもあり、「元親百箇条」の法規を遺した。
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長宗我部元親
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/29 05:01 UTC 版)
長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
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- ^ 永禄4年から自称した官位。豊臣時代に正式に侍従になるも元親はこの官位を書状に用いることが多く、「長宮」と書いている。山本大『長宗我部元親』33頁
- ^ 同名の別人説有り
- ^ 『元親記』によると「覚世死去の砌をも差し緩めず。長浜・薊野二口よりの手遺おびただし」とあり、国親が死んでも本山氏攻撃を続けた。山本大『長宗我部元親』31頁
- ^ 『元親記』。山本大『長宗我部元親』39頁。
- ^ 『元親記』では「四国の儀は元親手柄次第に切取候へ」と信長の朱印状を与えたとされている。山本大『長宗我部元親』89頁。
- ^ 信長と敵対していた三好康長が信長に降り、三好氏本領である阿波の回復を信長に願い出ていた。また元親に圧迫された河野氏も信長に援助を求め、西園寺公広などに至っては「元親は西国の名将であり、将来的には信長に屈せず反抗するでしょう」と述べて援助を求めたという(『元親記』)。山本大『長宗我部元親』90頁。
- ^ 「四国の儀は自らの力で切り取ったものであり、信長卿に援助は頂いておりません。よって仰せに従う必要はありません」と拒絶した(『元親記』)山本大『長宗我部元親』91頁。
- ^ 明智光秀は縁戚関係から使者を土佐に送って元親の翻意を求めたが、元親は返事すら寄越さなかった。山本大『長宗我部元親』91頁。
- ^ 『香宗我部家伝証文』では元親は信孝と通じていたことを示す書状がある。勝家は高野山を通じて元親と通じていた。山本大『長宗我部元親』100頁。
- ^ 『秀吉軍紀』。『但馬出石仙石家譜』。山本大『長宗我部元親』100頁・101頁。
- ^ 『南海通記』。山本大『長宗我部元親』101頁。
- ^ 5月13日付の秀吉の仙石宛の書状で播磨・備前の軍を四国に向けるとしている。5月20日付では水軍を大坂に集結させるよう命令している(『石井文書』)。山本大『長宗我部元親』102頁。
- ^ 『香宗我部家伝証文』では親泰を窓口にして織田・徳川と書状を交換している。山本大『長宗我部元親』103頁。
- ^ 家康は元親に3カ国(8月19日付の本多正信の親泰宛の書状では「淡路・摂津・播磨」としている。また信雄は親泰に備前を与えるとしている)を与えることを約束した上で渡海して摂津か播磨を攻撃してほしいと求め、秀吉も元親の動きを恐れて小牧在陣中に大坂に帰ったりしている。だが元親には伊予平定や小領主の抵抗、毛利軍の動き、仙石・十河の抵抗もあって容易に動けなかった。山本大『長宗我部元親』105頁。
- ^ 『萩藩閥閲録』。山本大『長宗我部元親』111頁。
- ^ 『桂文書』では桂元親が長宗我部軍に苦戦したことを示す書状がある。山本大『長宗我部元親』114頁。
- ^ 元親は秀吉の鋭鋒をかわそうと使者を派遣して進物を贈呈した。だが秀吉は4月に小早川隆景に近く四国出兵を行う旨を伝えたという(『小早川文書』)。山本大『長宗我部元親』120頁。
- ^ 『長元物語』山本大『長宗我部元親』120頁。
- ^ 「四国の騒動斜ならず、武士東西に馳違ひ、男女南北に逃迷ふ」(『土佐物語』)。山本大『長宗我部元親』121頁。
- ^ 元親は出陣前に亡父・国親の墓前に詣でて覚悟を表明している。山本大『長宗我部元親』122頁。
- ^ 谷は「(豊臣軍は)武具・馬具綺麗にして光り輝き、金銀を鏤めて、馬は大長にして眉上るが如し。武者は指者・小旗を背に屹とさしていかめしき体なり」と述べ、土佐の一領具足の粗末な軍備と経済基盤の脆弱から到底敵対できないと忠言した(『南海治乱記』)。山本大『長宗我部元親』133頁。
- ^ 秀吉は6月の時点で勝利することを予測しており、小早川隆景に伊予を与え、元親に土佐を安堵することを考えていたという。山本大『長宗我部元親』125頁。
- ^ 『元親記』や『土佐物語』など多くの史料でこの上洛による元親の安否を国許では心配していたという。また『土佐物語』で元親は土佐一国の領主になったことに満足し、かえって秀吉に感謝したとしている。山本大『長宗我部元親』135頁。
- ^ 元親は仙石の強攻策に対して味方の到来を待って攻めるべき、島津方の伏兵の恐れあり強敵であるとして出陣に反対していた(『元親記』。『土佐物語』)。山本大『長宗我部元親』139頁・140頁。
- ^ 天正15年から移転は開始されていたという。理由は交通や生産地の肥沃を求めてという。山本大『長宗我部元親』145頁。
- ^ 成人していた次男と3男を嗣子にしなかったのは信親の娘を正室にする場合の年齢差だったという。山本大『長宗我部元親』148頁。
- ^ 一門以外に有力家臣まで多く粛清されている。山本大『長宗我部元親』151頁。
- ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』P29(近代文芸社、2000年)
- ^ 目良裕昭「戦国末~豊臣期土佐国における城下町の形成と展開」(市村高男 編『中世土佐の世界と一条氏』(高志書院、2010年) ISBN 978-4-86215-080-6)
- ^ 『言経卿記』。訪問の内容は不明だが、覇権を狙う家康は元親に味方してもらいたいという誘いの意味があったと思われる。山本大『長宗我部元親』237頁。
- ^ 『桑名弥次兵衛一代手柄書附』。山本大『長宗我部元親』239頁。
- ^ 山本大『長宗我部元親』29頁・241頁。
- ^ 山本大『長宗我部元親』29頁。
- ^ 『元親記』
- ^ 家臣団は「智謀勇気兼備して、尤も大将の才なり」「当国は申すに及ばず、四国の主に御成なさるべき大将の御分別」と評した(『土佐物語』)。
- ^ 『長元物語』。『土佐物語』山本大『長宗我部元親』30頁。
- ^ 『土佐物語』。山本大『長宗我部元親』88頁。
- ^ 山本大『長宗我部元親』243頁。
- ^ 山本大『長宗我部元親』74頁。『長元物語』。『土佐物語』。『南海通記』。山本大『長宗我部元親』74頁。
- ^ 参考文献:小学館週刊『新設戦乱の日本史 第19号 四国統一』
- ^ 山本大『長宗我部元親』62頁。『土佐物語』では「我れ諸士に、賞禄を心の儘に行ひ、妻子をも安穏に扶持させんと思ひ、四方に発向して軍慮を廻らし」と元親が述懐したとしている。
- ^ 山本大『長宗我部元親』245頁・246頁。
- ^ 『元親記』では元親が「(狭間を)人の胸のあたりを当て切たるが能候」と言い、垣見は「(狭間を)もっと上げるべき」と主張して論争になった。垣見は「(狭間を)さげて切ては敵、城の内を見入て悪かりなん。只上げん」と主張し、元親は「此門脇へ敵心安く付て城中を看候程に、城の内弱くして城もたるまじ」と笑い、「其方好みのごとく上げて切ては、敵のあたまより上を打つべきか」と主張したという。山本大『長宗我部元親』244頁。
- ^ 山本大『長宗我部元親』243頁。
- ^ 山本大『長宗我部元親』141頁。
- ^ 『武家事紀』では、秀吉は仙石の独断専行で信親が戦死したことにかなり元親に対し後ろめたさを感じていたとしている。山本大『長宗我部元親』143頁・144頁。
- ^ 山本大『長宗我部元親』243頁
- ^ 山本大『長宗我部元親』241頁。『土佐物語』では元親が「あたら者共を失わんことの惜しさよ」と述べたという。
- ^ 山本大『長宗我部元親』241頁。
- ^ このとき康長は土佐に向かって「斯る仁者に敵せし事こそ愚なれ。此の厚恩七生迄も忘るべからず」と涙を流して手を合わせて拝んだという。山本大『長宗我部元親』242頁。
- ^ 山本大『長宗我部元親』242頁。
- ^ 山本大『長宗我部元親』244頁・245頁。『元親記』では「誠に元親事、律儀第一の人にて、御上使御横目衆とあれば、頭を地に付け慇懃に仕られ候が、此時は以ての外なる存分にて有りし也」とある。
- ^ 同史料では「元親は不仁不義の大将にて、諸軍勢の内、名も聞えたる英雄共与力して、戦場に粉骨したる者にも恩賞の沙汰もなく、却て質に取たる諸将の子供を串ざしにして楽しむほどの悪逆故、各々離れ離れに見捨、討死したる妻子供をも恵む事もなく、此人の果こそ思ひやられたれと悪まぬ人ぞなかりけり」とある。山本大『長宗我部元親』245頁。
- ^ 山本大『長宗我部元親』220頁 - 222頁。
- ^ 山本大『長宗我部元親』222頁 - 225頁。
- ^ 山本大『長宗我部元親』169頁 - 172頁。
- ^ 山本大『長宗我部元親』180頁 - 190頁。
- ^ 山本大『長宗我部元親』190頁 - 206頁。
- ^ 山本大『長宗我部元親』207頁 - 213頁。
- ^ 山本大『長宗我部元親』213頁 - 214頁。
- ^ 山本大『長宗我部元親』214頁 - 217頁。
- ^ 山本大『長宗我部元親』174頁。
- ^ 山本大『長宗我部元親』176頁。
- ^ 『土佐物語』山本大『長宗我部元親』246頁・247頁。
- ^ 山本大『長宗我部元親』249頁 - 250頁。
- ^ 著者不明。宝永5年(1708年)から享保3年(1718年)に吉田孝世が編述。
- ^ 著者不明。元禄期に小畑邦器によって改訂。
- ^ 弘化年間に谷景井によって出版?
[続きの解説]
「長宗我部元親」の続きの解説一覧
- 1 長宗我部元親とは
- 2 長宗我部元親の概要
- 3 墓所
- 4 外部リンク
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