昭和元年 (ひのえとら 丙寅)
年(年号) | |
●1907年 (明治40年) | ■足尾銅山で暴動 |
●1910年 (明治43年) | ■韓国併合 |
●1918年 (大正7年) | ■米騒動 |
●1923年 (大正12年) | ■関東大震災 |
●1928年 (昭和3年) | ■初の普通選挙実施 |
●1932年 (昭和7年) | ■五・一五事件 |
●1936年 (昭和11年) | ■二・二六事件 |
●1941年 (昭和16年) | ■対英米宣戦布告 |
●1945年 (昭和20年) | ■ポツダム宣言受諾 |
●1946年 (昭和21年) | ■日本国憲法公布 |
1926年
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1926年(1926 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。大正15年/昭和元年。
- 1 1926年とは
- 2 1926年の概要
1926年(大正15年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/14 14:26 UTC 版)
「高松市の歴史」の記事における「1926年(大正15年)」の解説
中等学校軍隊連合演習が実施される。 郡役所が廃止される。 香川郡香西町の第一鑿井が完成し、他2箇所も続いて完成する。 琴平電鉄の栗林公園駅・瀧宮駅間(17.8km) が開通する(12月21日)。
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1926年
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ロンドン → モンテカルロ → パリ → ウィーンを巡演。 1926年の初演作品日付・会場タイトル振付家作曲者指揮者装置/衣裳主なダンサー5月4日モンテカルロ歌劇場 『ロミオとジュリエット』 ニジンスカバランシン ランバート スコット エルンストミロ カルサヴィナ、リファール、スラヴィンスキー 5月29日パリ、サラ・ベルナール劇場 『パストラール』 ニジンスカ オーリック デゾルミエール ブルーナ ドブロヴスカ、ダニロワ、リファール、ヴォイジコフスキー 7月3日パリ、サラ・ベルナール劇場 『びっくり箱』 バランシン サティ(ミヨー編曲) デゾルミエール ドラン ダニロワ、チェルニチェヴァ、ドブロヴスカ、イジコフスキー 12月3日ロンドン、リセウム劇場 『海神ネプチューンの勝利』 バランシン バーナーズ デゾルミエール シュルヴァシス〈19世紀版画)/プルーナ ダニロワ、チェルニチェヴァ、ソコロヴァ、リファール、バランシン
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1926年
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「ノーベル賞を巡る論争」の記事における「1926年」の解説
1926年の時点では、この年の生理学・医学賞は「受賞者なし」とされた。人工癌に関する研究をしていたヨハネス・フィビゲルと山極勝三郎が候補とされたが、賞を受けるに値しないと判断され、授与されなかった。フィビゲルは、自身が発見した回虫Gongylonema neoplasticum(英語版)(彼はSpiroptera carcinomaと呼んでいた)を用いて、ラットに胃癌を誘発することができることを実証した。山極は、ウサギの耳にコールタールを塗って、癌を発生させた。これらが、初の癌の実験的誘発だった。選考委員の一人ヒルディング・バーグストランド(英語版)は、「現時点では、フィビゲルと山極の研究が、癌の謎を解決する上で非常に重要になる可能性について、多くの支持を得ることはできない。このような状況下では、私はこれらの発見はノーベル賞にふさわしくないと考えている」と結論を下した。1927年、オットー・ワールブルク、ユリウス・ワーグナー=ヤウレックとともにフィビゲルが再びノミネートされたが、山極は除外された。ノーベル委員会は、1926年の賞をフィビゲルとワールブルクに遡って授与し、1927年の賞をワーグナー=ヤウレックに授与することを決定した。しかし、最後の選択で、カロリンスカ研究所がワールブルクの受賞を却下した。1926年の賞は、「寄生虫発がん説に関する研究」によりフィビゲルにだけに授与された。その後すぐに、フィビゲルの「発見」は他の科学者に信用されなくなった。1952年の実験により、回虫は癌の原因ではなく、フィビゲルの実験で発生した癌はビタミンAの欠乏によるものであることが明らかにされた。山極を除外したことも批判された。彼の実験は有効な発見だったからである。コールタール(および多環芳香族炭化水素(PAH)を含む物質)は、真の発癌物質である。山極の研究は、この分野の研究の主要な基盤となっている。『ブリタニカ百科事典』の癌研究に関するノーベル賞の記述では、フィビゲルに言及することはなく、山極の業績を画期的な出来事と述べている。
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1926年(大正15年)
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「1908年-1945年の国鉄ダイヤ改正」の記事における「1926年(大正15年)」の解説
8月15日にダイヤが改正される。関東大震災の復興がほぼ終わった事に伴うもので、まず東海道本線では前年の改正でスピードアップが行われなかった特急・急行列車の速度向上・増発が行われた。特急の東京駅 - 下関駅の所要時間は22時間55分 - 23時間25分とそれまでより1時間以上も向上し、三等急行であった5・6列車が二・三等編成に、一・二等急行であった7・8列車が各等編成になった。また東京駅 - 名古屋駅、名古屋駅 - 神戸駅に日本初となる「準急行列車」(現在の快速列車に近い存在で、特別料金不要)も新設された。その他東北・日本海沿岸各線でも時刻改正が行われ、一部列車の配列の見直しなどが行われた。なお、この時改正が行われなかった九州では9月15日に、北海道では9月25日に若干の時刻改正が実施されている。
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1926年(大正15年/昭和元年)
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「大正」の記事における「1926年(大正15年/昭和元年)」の解説
1月30日第1次若槻内閣(若槻禮次郎首相、憲政会内閣)成立。労働農民党結成。朝鮮で6・10万歳運動。日本放送協会設立。12月25日、大正天皇崩御、それに伴い皇太子裕仁親王が第124代天皇に践祚。光文事件。同日昭和に改元。
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1926年
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1926年(大正15年)は、9月1日に雑誌「苦楽」に、10月1日に『文藝春秋』に掲載された。 764.堪忍という事 (9/1) 765.価 (10/1) 766.犬 (10/1)
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1926年
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1926年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 14:05 UTC 版)
山賊 監督マキノ省三・富沢進郎・橋本佐一郎(「橋本佐一呂」名義)、原作・主演曽我廼家五九郎、脚本青木優、撮影松田定次 出演名村春操、中野信近、花園百合子 製作 連合映画芸術家協会、配給 マキノ・プロダクション(同時上映二川文太郎監督『延宝奇聞 美丈夫 前篇』)マキノ撮影所で撮られ、製作費も全部マキノ出資で、直木はただ協会作品というタイトルを出すだけで金を取っていた。マキノ雅弘は「若かった私は文芸作家協会という人達は、恥ずかしいということを知らない人たちばかりだと真面目に思ったものである」と述べている。 京子と倭文子 監督・脚本伊藤大輔、原作菊池寛、撮影河上勇喜、指揮久米正雄 出演東明二郎、香西梨枝、直木木ノ実、伊藤みはる、風間宗六(「吉村哲哉」名義)、香川良介(「香川遼」名義) 製作 連合映画芸術家協会・伊藤映画研究所マキノプロが作品を買って公開。雅弘は久米正雄が伊藤監督を「指揮」するほど映画製作を御存じなのかと、久米に会った時に尋ねると、「そんなもん(映画)、あったのか」と笑っていた。 日輪 前篇 監督・脚本伊藤大輔、原作三上於菟吉、撮影河上勇喜 出演東明二郎、夏川静江、日夏百合江、金井謹之助、高堂国典、吉村哲哉、大木清 製作 連合映画芸術家協会・伊藤映画研究所 天一坊と伊賀亮 監督牧野省三・衣笠貞之助、原作額田六福、脚本直木三十三、撮影田中十三、助監督マキノ正唯 主演市川猿之助、市川八百蔵、市川小太夫、沢村源十郎、マキノ輝子 製作 連合映画芸術家協会・春秋座、配給 マキノ・プロダクション(同時上映橋本佐一郎監督『大晏寺堤』、マキノ御室撮影所作品)マキノ雅弘によると『月形半平太』の儲けを全部つぎ込んで撮った作品。猿之助一座の出演料は「四万円」という破格の額だった。 地蔵経由来 監督深川ひさし、原作久米正雄、指揮・脚本直木三十三、撮影柏田敏雄、字幕稲垣虹二郎 主演金井謹之助、高堂国典、香川遼、稲垣浩、東明二郎 製作 連合映画芸術家協会(同時上映人見吉之助監督『わすれ髪』、マキノ御室撮影所作品) 日輪 中篇 日輪 後篇 監督・脚本伊藤大輔、原作三上於菟吉、撮影河上勇喜 出演香西梨枝、東明二郎、吉村哲哉、永田恒雄、香川遼、金井謹之助、保瀬薫 製作 連合映画芸術家協会・伊藤映画研究所 水の影 監督・脚本高田保、原作久米正雄、撮影持田米三(「持田米彦」名義) 出演御橋公、結城一郎、笈川武夫、保瀬薫、伊沢蘭奢 製作 連合映画芸術家協会、配給 マキノ・プロダクション(同時上映沼田紅緑監督『佐平次捕物帖 新釈紫頭巾 前篇』、マキノ御室撮影所作品)
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1926年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 17:01 UTC 版)
1926年(大正15年)3月24日佐世保を出港し揚子江流域へ進出、4月26日寺島水道に帰着。 1926年(大正15年)12月1日第2艦隊・第二水雷戦隊へ編入(翌1927年(昭和2年)12月1日まで)。
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1926年(大正15年/昭和元年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 04:12 UTC 版)
「昭和」の記事における「1926年(大正15年/昭和元年)」の解説
12月25日に大正天皇が崩御したことを受けて、裕仁親王が践祚、12月25日から昭和と改元。
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1926年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 21:41 UTC 版)
1926年(大正15年)4月1日、新鋭重巡洋艦古鷹が第五戦隊に編入される。5月1日、名取の第五戦隊除籍にともない、第五戦隊は巡洋艦3隻(古鷹、川内、由良)となる。8月1日、新鋭重巡加古が第五戦隊に編入される。第五戦隊は巡洋艦4隻(由良、川内、加古、古鷹)を揃えた。同年12月1日、第五戦隊は巡洋艦4隻(加古、古鷹、神通、那珂)で再編される。由良は第一潜水戦隊(第一艦隊所属)に転じた。同時期、日本海軍の軽巡洋艦として初めて水上偵察機を搭載した。
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1926年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 23:45 UTC 版)
この年のパリ大賞典には空前の大観衆が押し寄せた。有料の入場者数だけで166,635人の観客がいて、40フランの駐車料が必要な駐車場は844台の馬車や自動車で溢れかえった。入場料の収入だけで145万フランになり、パリ大賞典だけで馬券の売り上げは790万フランほどになった。貴賓席にはガストン・ドゥメルグ大統領やスペインのアルフォンソ13世国王夫妻の姿もあった。 主導権を握ったのは、イタリアから来たアペレ(Apelle)だった。アペレはフェデリコ・テシオの生産馬で、デルビー・レアーレ(Derby Reale、現在のイタリアダービー)とミラノ大賞典を6馬身差で圧勝してきた。アペレはイタリア産馬だが、その父はフランスの名馬サルダナパル(Sardanapale)だった。アペレはスタートから先頭に立ち、残り100メートルのところまでは単騎で逃げることができた。 フランス馬の本命はビリビ(Biribi)だった。ビリビは脚が曲がっていて1歳の時に競りで売られた。購入したのはアルゼンチンのシモン・グスマンだった。ビリビは3歳の春遅くに本格化し、5月の半ばにノアイユ賞に勝った。5月末にはリュパン賞も楽勝し、フランスダービーを迎えた。ところがこの年のフランスダービーは朝から降り続いた雨によって不良馬場となった。ビリビはゴールまであと僅かのところで、同厩舎の人気薄馬マドリガル(Madrigal)に差され、半馬身差で敗れてしまった。ビリビの騎手はこのとき病気の体で無理をして騎乗したのだったが、結果的にはゴール前の競り合いで体力が持たず、ろくに追うことができなかった。 残り100メートルのところで、逃げるアペレにビリビほか数頭の後続馬が一斉に並んできた。5頭が横に並ぶ大接戦を制したのは、イギリスから来たテイクマイチップ(Take My Tip)で、63倍の大穴となった。ビリビはクビ差の2着、3、4着もそれぞれアタマ差、アタマ差の接戦だった。
※この「1926年」の解説は、「パリ大賞典」の解説の一部です。
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「1926年」の例文・使い方・用例・文例
- キルギスタンの首都(1926年−1991年はフルンゼとして知られる)
- 米国の銃(特にピースメーカーと呼ばれる自動拳銃と連発銃と機関銃)の発明者(1855年−1926年)
- 米国の園芸家で、果物と野菜と花の多くの新しい種類を開発した(1849年−1926年)
- フランスの精神療法医で、良くなっていると想像すれば良くなるということを主張した(1857年−1926年)
- 米国の労働組合の組織者で、社会主義者として大統領に立候補した(1855年−1926年)
- 米国の泳者で、1926年に英仏海峡を泳いだ最初の女性(1906年−2003年)
- 彼女の父親の死に際して1952年に英国と北アイルランドの女王になったジョージ6世の娘(1926年−)
- ヨーロッパのアールヌーヴォーの主要な提唱者であったスペインの建築家(1852年−1926年)
- ビート世代の米国の詩人(1926年−1997年)
- 米国の物理学者で、亜原子粒子を調査するために泡箱を発明した(1926年生まれ)
- イタリア人の組織学者で、神経系の構造の研究とゴルジ体の発見で知られる(1844年−1926年)
- 米国のマジシャン(ハンガリー生まれ)で、鎖、手錠、拘束衣、あるいは錠をかけられたコンテナから脱出する能力で有名(1874年−1926年)
- カナダ人の映画制作者(1926年生まれ)
- 同等(1926年に生まれる)の保守主義の原則に論駁する際にYangチェンNingと協力した米国の物理学者(中国では、生まれます)
- フランスの印象派の画家(1840年−1926年)
- 米国の映画女優で、性的魅力で知られる(1926年−1962年)
- 米国の射撃の名手で、バッファロー・ビルのワイルド・ウエスト・ショーで取り上げられた(1860年−1926年)
- ドイツの詩人(オーストリア生まれ)で、イメージと神秘主義の叙情性が20世紀のドイツ文学に影響した(1875年−1926年)
- 米国の興行師で、率いていた歌と踊りの一団がサーカスに発展した(1863年−1926年)
- スコットランドのバレエダンサーと女優(1926年生まれ)
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