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よしだ-しげる 【吉田茂】
(1878-1967) 政治家。東京生まれ。東大卒。土佐の旧自由党領袖竹内綱の五男。吉田家の養子となる。牧野伸顕の女婿。外務次官、駐伊・駐英大使などを歴任し、第二次大戦後、外相。1946年(昭和21)第一次内閣、48~54年第二次から五次に至る内閣を組織。51年、サンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約に調印。戦後の国際関係における日本の路線を方向づけた。
歴代総理一覧 |
吉田茂
| 総理在職期間 | ||
| [第1次] | 昭21. 5.22~昭22. 5.24 | 368日 |
| [第2次] | 昭23.10.15~昭24. 2.16 | 125日 |
| [第3次] | 昭24. 2.16~昭27.10.30 | 1,353日 |
| [第4次] | 昭27.10.30~昭28. 5.21 | 204日 |
| [第5次] | 昭28. 5.21~昭29.12.10 | 569日 |
| 在職通算日数 | 2,616日 | |
| 総理就任時年齢:67歳・70歳・70歳・74歳・74歳 | ||
江戸人物事典 |
吉田 茂 (よしだ しげる)
| 1878〜1967 (明治11年〜昭和42年) |
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【政治家】 葉巻きをくわえたワンマン宰相。軽軍備・経済重視の吉田ドクトリンが戦後復興の指針に。 |
| 第二次大戦後の政治家。東京都神田生まれ。東大卒。外務省に勤務、駐英大使などを勤める。戦争に否定的だっため、第二次大戦中は反政府活動の嫌疑で憲兵隊に拘置された。戦後は東久邇(ひがしくに)・幣原(しではら)両内閣の外相となる。46年5月日本自由党総裁として第一次吉田内閣組閣、以後5回の政権で、吉田ドクトリンにより占領から講和・独立までの戦後日本復興の枠組みを作った。 |
年(和暦) |
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| ●1882年 (明治15年) | ■上野動物園開園 | 4才 |
| ●1883年 (明治16年) | ■鹿鳴館完成 | 5才 |
| ●1889年 (明治22年) | ■大日本帝国憲法発布 | 11才 |
| ●1894年 (明治27年) | ■日清戦争 | 16才 |
| ●1903年 (明治36年) | ■江戸開府300年 | 25才 |
| ●1904年 (明治37年) | ■日露戦争 | 26才 |
| ●1907年 (明治40年) | ■足尾銅山で暴動 | 29才 |
| ●1910年 (明治43年) | ■韓国併合 | 32才 |
| ●1918年 (大正7年) | ■米騒動 | 40才 |
| ●1923年 (大正12年) | ■関東大震災 | 45才 |
| ●1928年 (昭和3年) | ■初の普通選挙実施 | 50才 |
| ●1932年 (昭和7年) | ■五・一五事件 | 54才 |
| ●1936年 (昭和11年) | ■二・二六事件 | 58才 |
| ●1941年 (昭和16年) | ■対英米宣戦布告 | 63才 |
| ●1945年 (昭和20年) | ■ポツダム宣言受諾 | 67才 |
| ●1946年 (昭和21年) | ■日本国憲法公布 | 68才 |
| ●1951年 (昭和26年) | ■サンフランシスコ講和条約 | 73才 |
| ●1953年 (昭和28年) | ■テレビ放送開始 | 75才 |
| ●1956年 (昭和31年) | ■国際連合加盟 | 78才 |
| ●1960年 (昭和35年) | ■東京タワー完成 | 82才 |
| ●1960年 (昭和35年) | ■日米新安保条約調印 | 82才 |
| ●1964年 (昭和39年) | ■東京オリンピック | 86才 |
人物名 |
年齢差 |
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| ・樋口 一葉 | 1872年〜1896年 (明治5年〜明治29年) | +6 |
| ・福田 徳三 | 1874年〜1930年 (明治7年〜昭和5年) | +4 |
| ・上田 敏 | 1874年〜1916年 (明治7年〜大正5年) | +4 |
| ・長谷川 如是閑 | 1875年〜1969年 (明治8年〜昭和44年) | +3 |
| ・荒木 貞夫 | 1877年〜1966年 (明治10年〜昭和41年) | +1 |
| ・寺田 寅彦 | 1878年〜1935年 (明治11年〜昭和10年) | 0 |
| ・大河内 正敏 | 1878年〜1952年 (明治11年〜昭和27年) | 0 |
| ・有島 武郎 | 1878年〜1923年 (明治11年〜大正12年) | 0 |
| ・鏑木 清方 | 1878年〜1972年 (明治11年〜昭和47年) | 0 |
| ・永井 荷風 | 1879年〜1959年 (明治12年〜昭和34年) | -1 |
| ・大正天皇 | 1879年〜1926年 (明治12年〜昭和元年) | -1 |
| ・市川 左団次二世 | 1880年〜1940年 (明治13年〜昭和15年) | -2 |
| ・石井 柏亭 | 1882年〜1958年 (明治15年〜昭和33年) | -4 |
| ・福原 信三 | 1883年〜1948年 (明治16年〜昭和23年) | -5 |
| ・高村 光太郎 | 1883年〜1956年 (明治16年〜昭和31年) | -5 |
| ・鳩山 一郎 | 1883年〜1959年 (明治16年〜昭和34年) | -5 |
| ・石橋 湛山 | 1884年〜1973年 (明治17年〜昭和48年) | -6 |
| ・東条 英機 | 1884年〜1948年 (明治17年〜昭和23年) | -6 |
| ・安田 靫彦 | 1884年〜1978年 (明治17年〜昭和53年) | -6 |
| ・三浦 環 | 1884年〜1946年 (明治17年〜昭和21年) | -6 |
ウィキペディア |
吉田茂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/03 11:04 UTC 版)
吉田 茂(よしだ しげる、1878年(明治11年)9月22日 - 1967年(昭和42年)10月20日)は、日本の外交官、政治家。位階は従一位。勲等は大勲位。
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- ^ ジョン・ダワー著・大窪愿二訳『吉田茂とその時代(上)』6頁には「吉田は一八七八(明治一一)年九月二二日横須賀に生れたといわれる。」とある
- ^ a b c ジョン・ダワー著・大窪愿二訳『吉田茂とその時代(上)』6頁
- ^ a b ジョン・ダワー著・大窪愿二訳『吉田茂とその時代(上)』5頁
- ^ ジョン・ダワー著・大窪愿二訳『吉田茂とその時代(上)』9頁
- ^ ジョン・ダワー著・大窪愿二訳『吉田茂とその時代(上)』11頁
- ^ ただし、大村立三はその著書『日本の外交家 300人の人脈』の中で、戦前において対英米関係とアジア進出の両立を唱える外交官をその政策から前者重視を「英米派」、後者重視を「アジア派」と呼んで区別し、前者として幣原喜重郎・重光葵・佐藤尚武・芦田均を挙げ、後者として吉田と有田八郎・谷正之を挙げており、奉天総領事・外務事務次官として東方会議をはじめとする「田中外交」を支えた吉田は幣原や重光と比較した場合には、アジア進出に対してはより積極的であったとする見解をとっている。
- ^ 自著『回想十年』によれば、牧野伸顕の義妹の嫁ぎ先宮崎県の旧高鍋藩主家秋月氏の縁で高鍋出身の海軍大将小沢治三郎を頼るようアドバイスを受け、そのツテで軍令部次長の小沢に「イギリスを通して講和を進めるために荷物扱いでもいいから潜水艦か航空機で自分を運んで欲しい」と懇願したが、小沢は十中八九沈められる旨と憲兵隊に目を付けられている点を指摘し丁重に断った。憲兵隊に拘束されたのはその翌日だった、と著している。
- ^ 春名幹男『秘密のファイル CIAの対日工作』
- ^ 『別冊歴史読本特別増刊 — ご臨終』(新人物往来社、1996年2月号)
- ^ 『アサヒグラフ』臨時増刊 11月5日号、「緊急特集吉田茂の生涯」89頁
- ^ 吉田の国葬は佐藤栄作総理の強い要望で閣議決定を経て実現したが、大正15年に制定された「国葬令」は新憲法の施行によって失効していた(20条の「国による宗教的行為の禁止」と7条の「天皇の国事行為」に抵触するため)ため、国葬自体が違憲ということになり、野党や革新系の言論界からこれを批判する声もあった。しかし戦後の大宰相の記憶は多くの人々にとっては褪せることがなく、世論調査でも大多数がこれを容認するものだった。
- ^ 『産経新聞』2008年10月20日付朝刊、14版、3面
- ^ 特にフジテレビでは、追悼番組を放送するために、スポットCMを全て削除し、全ての通常番組を変更した。
- ^ 松平は元会津藩主で京都守護職の松平容保の四男で、長女の節子は秩父宮の妃になっていた。
- ^ これが最後の「組閣の大命」である。
- ^ 春名幹男『秘密のファイル CIAの対日工作』
- ^ 『麻生太郎の原点 祖父・吉田茂の流儀』 73頁
- ^ 『麻生太郎の原点 祖父・吉田茂の流儀』 73-74頁
- ^ 戸川猪佐武『小説吉田茂』「あとがき」
- ^ 『アサヒグラフ 臨時増刊 11月5日号 緊急特集吉田茂の生涯』81頁(1967年)
- ^ 通常洗礼は本人が望まなければできないが、遺書や遺言などで生前明確な意思表示をしていることを司祭が確認できれば、例外的に死後洗礼を行うことができる(東京大司教館)
- ^ 『アサヒグラフ』 臨時増刊 11月5日号、「緊急特集吉田茂の生涯」73頁
- ^ 戸籍上の名は“コト”である
- ^ 吉田寛は将来が嘱望された若手外交官だったが、桜子と結婚して数年後に死去してしまう。その葬儀に来た親戚の佐藤榮作と吉田茂は初めて会うが、その時の佐藤の風貌が亡き女婿と瓜二つだったので、以後吉田は佐藤を我が子のように可愛がるようになったという。
- ^ 和子と太賀吉を結びつけたのは側近の白洲次郎であり、ふたりの仲人もつとめている。
[続きの解説]
固有名詞の分類
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