吉田松陰とは?

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Weblio 辞書辞書・百科事典日本史辞典吉田松陰の解説 

三省堂 大辞林

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よしだ-しょういん 【吉田松陰】

(1830-1859) 幕末尊王論者思想家長州藩士。名は矩方(のりかた)通称寅次郎兵学学び長崎江戸遊学佐久間象山師事した。ペリー再来の時、密航企てて、下獄。のち萩の自邸内に松下村塾開き高杉晋作久坂玄瑞伊藤博文維新指導者育成安政の大獄連座刑死した。


防府歴史用語辞典

防府市教育委員会防府市教育委員会

吉田松陰 (よしだしょういん)

江戸時代終わり萩藩志士[しし]の1人です。松下村塾しょうかそんじゅく]で高杉晋作たかすぎしんさく]や久坂玄端[くさかげんずい]など後に活躍した人たちを教えていました。しかし、幕府にとらえられ、刑死しました。



近代日本人の肖像

国立国会図書館国立国会図書館

吉田松陰 よしだ しょういん

吉田松陰の肖像 その1
文政13年8月4日安政6年10月27日 (1830~1859)

山口生まれ。父は萩藩杉百合之助山鹿流兵学師範であった吉田家養子となる。藩校明倫館を経て、諸国遊学佐久間象山のもとで砲術蘭学を学ぶ。安政元年(1854)海外密航企て下田港アメリカ軍艦ポーハタン号に乗り込もうとしたが、拒絶され投獄。のち萩の野山獄に移されるが、翌年免獄となり実家杉家に幽閉の身となる。その間松下村塾開き高杉晋作久坂玄瑞伊藤博文山県有朋ら約80人の門人を集め、幕末から明治にかけて活躍した人材育成の場となった。安政6年(1859)、安政の大獄により江戸刑死した。

キーワード 教育家
著作等(近代デジタルライブラリー収載
  1. 武教講録 / 吉田松陰著 松下村塾, 慶4 <YDM11888>
  2. 東北遊日記 / 吉田松陰著 河内屋兵衛, 慶4.7 <YDM23484>
  3. 左氏兵戦抄 / 吉田松陰(矩方)著 起晋堂茂兵衛等, 明2 <YDM52761>
  4. 留魂録 / 吉田松陰著 松下村塾, 〔明2〕 <YDM9047>
  5. 慨士遺音. [1], [2], [3] / 吉田松陰, 月性著 都文堂, 文林堂, 明2.10 <YDM201742>
  6. 照顔録・坐獄日録 / 吉田松陰著 〔松下村塾〕, 〔187-〕 <YDM300144>
  7. 儲〓話 / 吉田松陰(寅次郎)著 宮川臣吉, 明14.10 <YDM62154>
  8. 回顧録. [1], [2] / 吉田松陰(寅次郎)著 文求堂, 明19.2 <YDM7491>
  9. 毛利隆元卿伝 / 吉田松陰, 山県大華著 稲垣三郎, 明24.6 (長周叢書 ; 〔8〕) <YDM6678>
  10. 幽囚録 / 吉田松陰著 吉川半七, 明24.7 <YDM9038>
  11. 吉田松陰先生遺文 / 稲垣三郎, 明24.10 (長周叢書 ; 〔12〕) <YDM9043>
  12. 庸醫譚 / 吉田松陰〔著〕 ; 福岡弘賢校正 〔製作者不明〕, 明治26 <YDM310318>
  13. 庸醫余譚 / 吉田松陰〔著〕 ; 福岡弘賢校正 〔製作者不明〕, 明治26 <YDM310319>
  14. 外蕃通略 / 吉田松陰(矩方)著 吉田庫三, 明27.4 <YDM1787>
  15. 俗簡雑輯 / 吉田松陰著 ; 久坂義助編 ; 品川弥二郎尊攘堂, 明28.10 <YDM7495>
  16. 講孟箚記 / 吉田松陰(矩方)著 田中文求堂, 明30.3 <YDM8468>
  17. 松陰先生批評東坡策 / 吉田松陰著 ; 吉田庫三吉川半七, 明32.1 <YDM100306>
  18. 松陰先生遺著. [1], [2] / 吉田庫三民友社, 明41,42 <YDM8980>
  19. 松陰先生女訓 / 吉田庫三民友社, 明42.6 <YDM10207>

(注:この情報は、国立国会図書館ホームページ内の「近代日本人の肖像」の内容を転載しております。掲載内容の複製については、国立国会図書館の許諾を得る必要があります。)


江戸人物事典

江戸net江戸net

吉田 松陰 (よしだ しょういん)

1830〜1859 (天保元年安政6年)
思想家高杉晋作伊東博文らを教育。堂々と幕府批判して死罪に。
幕末思想家教育者長州藩士。長崎平戸遊学兵学を学ぶ。江戸上り佐久間象山師事西洋砲術蘭学を学ぶ。ペリー下田来航したとき密航するが、失敗した。処分を受け、長州藩投獄、後に幽閉された。幽閉松下村塾開き高杉晋作伊東博文らを教育日米修好通商条約問題幕府批判し、再入獄江戸移管されると、幕府取り調べに対し幕政批判を展開したため、死罪となった(安政の大獄)。

 年(和暦)
1830年 (天保元年) 伊勢御蔭参り大流行 0才
1837年 (天保8年) 大塩平八郎の乱 7才
1839年 (天保10年) 蛮社の獄 9才
1853年 (嘉永6年) 黒船来航 23
1855年 (安政2年) 安政江戸地震 25
1858年 (安政5年) 安政の大獄 28


 人物
Boissonade G. E. 1825年1910年 (文政8年明治43年) +5
梅若  実 1828年1909年 (文政11年明治42年) +2
松平 春嶽 1828年1890年 (文政11年明治23年) +2
高橋 由一 1828年1894年 (文政11年明治27年) +2
仮名垣 魯文 1829年1894年 (文政12年明治27年) +1
中村 正直 1832年1891年 (天保3年明治24年) -2
近藤 勇 1834年1868年 (天保5年明治元年) -4
Roesler K. 1834年1894年 (天保5年明治27年) -4
橋本 雅邦 1835年1908年 (天保6年明治41年) -5
土方 歳三 1835年1869年 (天保6年明治2年) -5
榎本 武揚 1836年1908年 (天保7年明治41年) -6


ウィキペディア

ウィキペディアウィキペディア

吉田松陰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2010/02/07 13:52 UTC 版)

吉田松陰/吉田矩方
Yoshida shoin statue shimoda 2007-02-24.jpg
通称: 吉田寅次郎
生年: 1830年9月20日文政13年8月4日
生地: 長州
没年: 1859年11月21日安政6年10月27日
没地: 江戸
思想: 尊皇攘夷
活動: 倒幕
藩: 長州藩
投獄: 野山獄
裁判: 死刑 (罪状:密航)
刑場: 伝馬町
廟: 松陰神社
靖国神社
  

吉田 松陰吉田 矩方(よしだ しょういん/よしだ のりかた)は、日本武士長州藩士)、思想家教育者兵学者。一般的に明治維新の精神的指導者・理論者として名が挙げられることが多い。贈正四位

目次

名前

幼時の名字は杉(本姓不明)。幼名は虎之助。養子後の名字は吉田、大次郎と改める。通称吉田寅次郎。諱は矩方。は義卿、は松陰の他、二十一回猛士。松陰の号は寛政の三奇人の一人で尊皇家の高山彦九郎のおくり名にちなんでつけられた。また、「二十一回」については、名字の「杉」の字を「十」「八」「三」に分解し、これらを合計した数字が「二十一」となること、および、「吉田」の「吉」を「十一口」、「田」を「十口」に分解でき、これらを組み合わせると「二十一回」となることによりつけられている。

生涯

文政13年(1830年)8月4日、長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。天保5年(1834年)に叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となるが、天保6年(1835年)に大助が死去したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。

しかしアヘン戦争が西洋列強に大敗したことを知って山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感すると、西洋兵学を学ぶために嘉永3年(1850年)に九州に遊学する。ついで、江戸に出て佐久間象山に師事する。嘉永5年(1852年)、長州藩に無許可の形で宮部鼎蔵らと東北の会津藩などを旅行したため、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。

嘉永6年(1853年)、マシュー・ペリー浦賀に来航すると、師の佐久間象山と黒船を視察し、西洋の先進文明に心を打たれた。そのため安政元年(1854年)に浦賀に再来航していたペリーの艦隊に対してアメリカ密航を望んだ。しかし密航を拒絶されて送還されたため、松陰は乗り捨てた小舟から発見されるであろう証拠が幕府にわたる前に奉行所に自首し、伝馬町の牢屋敷に送られた。この密航事件に連座して師匠の佐久間象山も投獄されている。幕府の一部ではこのときに佐久間、吉田両名を死罪にしようという動きもあったが、老中首座の 阿部正弘が反対したため、助命されて長州の野山獄に送られた。一説ではペリーの暗殺を計画していたともいわれる。

安政2年(1855年)に出獄を許されたが、杉家に幽閉の処分となる。安政4年(1857年)に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。この松下村塾において松陰は長州藩の下級武士である久坂玄瑞伊藤博文などの面々を教育していった。なお、松陰の松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」だったといわれる。

安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、討幕を表明して老中首座である間部詮勝暗殺を計画する。だが、弟子の久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)らは反対して同調しなかったため、計画は頓挫し、松陰は長州藩に自首して老中暗殺計画を自供し、野山獄に送られた。

やがて大老井伊直弼による安政の大獄が始まると、江戸の伝馬町牢屋敷に送られる。幕閣の大半は暗殺計画は実行以前に頓挫したことや松陰が素直に罪を自供していたことから、「遠島」にするのが妥当だと考えていたようである。しかし井伊直弼はそれほど甘い人物ではなく、素直に罪を自供したことが仇となって井伊の命令により「死罪」となってしまい、安政6年(1859年)10月27日に斬刑に処された。享年30。生涯独身であった。

年譜

  • 1830年9月20日(文政13年8月4日)、長門国萩松本村(現・山口県萩市椿東椎原)に家禄26石の萩藩士・杉百合之助、瀧の次男として生まれる。 
  • 1834年(天保5年)、父の弟である吉田大助の仮養子となる。吉田家は山鹿流兵学師範として毛利氏に仕え家禄は57石余の家柄であった。
  • 1835年(天保6年)、大助の死とともに吉田家を嗣ぐ。兵学師範としての職責を果たせるよう、同じく父の弟で叔父である玉木文之進から厳しい教育を受ける。
  • 1840年(天保11年)、藩主毛利敬親の御前で「武教全書」戦法篇を講義し、藩校明倫館の兵学教授として出仕する。
  • 1842年(天保13年)、叔父の玉木文之進が私塾を開き松下村塾と名付ける。
  • 1845年弘化2年)、山田亦介村田清風の甥)から長沼流兵学を学び、翌年免許を受ける。九州の平戸へ遊学した後に藩主の参勤交代に従い江戸へ出て、佐久間象山らに学ぶ。佐久間からは「天下、国の政治を行う者は、吉田であるが、わが子を託して教育してもらう者は小林(小林虎三郎)のみである」と、二人の名前に共通していた「トラ」を引用し「象門の二虎」と褒められている。
  • 1851年嘉永4年)、東北地方へ遊学する際、通行手形の発行が遅れたため、肥後藩の友人である宮部鼎蔵らとの約束を守る為に通行手形無しで他藩に赴くという脱藩行為を行う。この東北遊学では、水戸会沢正志斎会津日新館の見学を始め、東北の鉱山の様子等を見学。秋田藩では相馬大作事件の真相を地区住民に尋ね、津軽藩では津軽海峡を通行するという外国船を見学しようとした。
  • 1852年(嘉永5年)、脱藩の罪で士籍家禄を奪われ杉家の育(はごくみ)となる。
  • 1853年(嘉永6年)、米国ペリー艦隊の来航を見ており、外国留学の意志を固め、同じ長州藩出身の金子重輔長崎に寄港していたプチャーチンロシア軍艦に乗り込もうとするが、ヨーロッパで勃発したクリミア戦争イギリスが参戦した事から同艦が予定を繰り上げて出航した為に失敗。
  • 1854年(安政元年)、ペリーが日米和親条約締結の為に再航した際には金子と二人で停泊中のポーハタン号へ赴き、乗船して密航を訴えるが拒否された。事が敗れた後、松陰はそのことを直ちに幕府に自首し、長州藩へ檻送され野山獄に幽囚される。獄中で密航の動機とその思想的背景を『幽囚録』に著す。
  • 1855年(安政2年)、生家で預かりの身となるが、家族の薦めにより講義を行う。その後、叔父の玉木文之進が開いていた私塾松下村塾を引き受けて主宰者となり、木戸孝允高杉晋作を初め久坂玄瑞伊藤博文山縣有朋吉田稔麿前原一誠維新の指導者となる人材を教える。
  • 1858年(安政5年)、幕府が勅許なく日米修好通商条約を結ぶと松陰は激しくこれを非難、老中間部詮勝の暗殺を企てた。長州藩は警戒して再び松陰を投獄した。
  • 1859年(安政6年)、幕府は安政の大獄により長州藩に松陰の江戸送致を命令する。松陰は老中暗殺計画を自供して自らの思想を語り、同年、江戸伝馬町の獄において斬首刑に処される、享年30(満29歳没)。獄中にて遺書として門弟達に向けて『留魂録』を書き残す。その冒頭に記された辞世は“身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂”。また、家族宛には『永訣書』を残しており、こちらに記された“親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん”も辞世として知られている。

思想

一君万民論

「天下は一人の天下」と主張して、藩校明倫館の元学頭・山県太華と論争を行っている。「一人の天下」という事は、国家は天皇が支配するものという意味であり、天皇の下に万民は平等になる。一種の擬似平等主義であり、幕府(ひいては藩)の権威を否定する過激な思想であった。なお、「一君万民」の語を松陰が用いたことはない。

飛耳長目

塾生に何時も、情報を収集し将来の判断材料にせよと説いた、これが松陰の「飛耳長目(ひじちょうもく)」である。自身東北から九州まで脚を伸ばし各地の動静を探った。の野山獄に監禁後は弟子たちに触覚の役割をさせていた。長州藩に対しても主要藩へ情報探索者を送り込むことを進言し、また江戸や長崎に遊学中の者に「報知賞」を特別に支給せよと主張した。松陰の時代に対する優れた予見は、「飛耳長目」に負う所が大きい。

草莽崛起

「草莽」は『孟子』においては草木の間に潜む隠者を指し、転じて一般大衆を指す。「崛起」は一斉に立ち上がることを指す。“在野の人よ、立ち上がれ”の意。

安政の大獄で収監される直前(1859年4月7日)、友人北山安世に宛てて書いた書状の中で「今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし。されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にして忘るゝに方なし。草莽崛起の力を以て、近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれど、神州の大功ある人と云ふべし」と記して、初めて用いた。この言葉は日本文化チャンネル桜西村修平瀬戸弘幸などがスローガンとして用いている。

対外思想

『幽囚録』で「今急武備を修め、艦略具はり礟略足らば、則ち宜しく蝦夷を開拓して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからめ朝鮮を責めて質を納れ貢を奉じ、古の盛時の如くにし、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋(ルソン)諸島を収め、進取の勢を漸示すべし」と記し、北海道の開拓、沖縄(当時は独立した国家であった)の日本領化、朝鮮の日本への属国化、満州台湾フィリピンの領有を主張した。松下村塾出身者の多くが明治維新後に政府の中心で活躍した為、松陰の思想は日本の対外政策に大きな影響を与えることとなった。

ゆかりの地

吉田松陰の故郷である山口県萩市には誕生地、投獄された野山獄、教鞭をとった松下村塾、遺髪を埋葬した松陰墓地、祀った松陰神社等がある。

格言・教え

立志尚特異 (志を立てるためには人と異なることを恐れてはならない)
俗流與議難 (世俗の意見に惑わされてもいけない) 
不思身後業 (死んだ後の業苦を思い煩うな)
且偸目前安 (目先の安楽は一時しのぎと知れ)
百年一瞬耳 (百年の時は一瞬にすぎない)
君子勿素餐 (君たちはどうかいたずらに時を過ごすことなかれ)
至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり
志を立ててもって万事の源となす
志士は溝壑に在るを忘れず
己に真の志あれば、無志はおのずから引き去る
恐るるにたらず
凡そ生まれて人たらば宜しく人の禽獣に異なる所以を知るべし
体は私なり、心は公なり
公を役にして私に殉う者を小人と為す
人賢愚ありと雖も各々十二の才能なきはなし
湊合して大成する時は必ず全備する所あらん
死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし
生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし

墓所・霊廟

刑死後、隣接した小塚原回向院(東京都荒川区)の墓地に葬られたが、1863年文久3年)に高杉晋作ら攘夷派の志士達により現在の東京都世田谷区若林に改葬された。現在も回向院墓地に墓石は残る。世田谷区の墓所には1882年明治15年)に松陰神社が創建された。また、生地の山口県萩市では死後100日目に遺髪を埋めた墓所(遺髪塚)が建てられた(市指定史跡)他、1890年(明治23年)に建てられた松陰神社(県社)がある。靖国神社にも維新殉難者として合祀されている。

一族

  • 父・杉百合之助
  • 母・滝
  • 兄・梅太郎(民治)
  • 妹・芳子(千代)、寿(小田村伊之助(楫取素彦)に嫁す)、美和子(初め文,久坂玄瑞に嫁す 後に楫取素彦後妻)
  • 弟・敏三郎

系譜

文左衛門政常=七郎兵衛政之━文左衛門徳卿━七兵衛常徳━┳百合之助常道━━━━┳梅太郎修道(民治)
                           ┣大助賢良      ┗大次郎矩方(松陰)
                           ┃(吉田氏第七代)   (吉田氏第八代)
                           ┗文之進
                            (玉木氏第七代)
梅太郎修道━┳小太郎
   民治 ┃(吉田氏第九代)
      ┃
      ┣滝子━━┳道助
      ┃    ┗丙三
      ┃
      ┗道子
      (吉田氏第十代)
友之允重矩━┳十郎左衛門矩行=半平=二十郎矩之=市佐矩直=又五郎矩定━他三郎矩建=大助賢良=大次郎矩方(松陰)
      ┗七郎兵衛政之
      (杉氏第二代)
大次郎矩方=小太郎=道子=庫三=衛
   松陰

肖像

松陰のものと伝わる写真が現存している。ただし渡辺蒿蔵が松陰のものでないと主張しており、真偽は明らかになっていない。

資料・文献

吉田松陰が登場する作品

映画
  • 『獄(ひとや)に咲く花』(2010年 監督:石原興 松陰:前田倫良)
小説
テレビドラマ

関連項目

ウィキメディア・コモンズ
ウィキクォート
ウィキクォート吉田松陰に関する引用句集があります。

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