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白洲次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/03 02:21 UTC 版)

しらす じろう
白洲 次郎
サンフランシスコ講和会議へ向かう
機上の吉田茂(右)と白洲次郎
生誕 1902年2月17日
日本の旗 兵庫県武庫郡精道村
(現・兵庫県芦屋市
死没 1985年11月28日(満83歳没)
出身校 ケンブリッジ大学卒業
職業 実業家
配偶者 白洲正子
子供 牧山桂子長女
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白洲[1] 次郎(しらす じろう、1902年2月17日 - 1985年11月28日)は、日本オピニオンリーダー官僚実業家終戦連絡中央事務局次長経済安定本部次長、貿易庁長官東北電力会長などを歴任した。

終戦直後、吉田茂の側近として連合国軍最高司令官総司令部と渡り合い、「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた。妻は白洲正子

目次

人物

兵庫県芦屋市出身。連合国軍占領下の日本吉田茂の側近として活躍し、終戦連絡中央事務局や経済安定本部の次長を経て、商務省外局として新設された貿易庁の長官を務めた。吉田政権崩壊後は、実業家として東北電力の会長を務めるなど、多くの企業役員を歴任。

21世紀に入ってからは「日本のプリンシパル」(ここでは“有数の要人”程度の意味)と持ち上げる書籍が何冊も出ている。

プロフィール

生い立ち

1902年(明治35年)2月17日、兵庫県武庫郡精道村(現・芦屋市)に白洲文平・芳子夫妻の次男として生まれる[2]。後に兵庫県川辺郡伊丹町[3](現:伊丹市)に建築道楽の父が建てた邸へ転居した。

1919年大正8年)、旧制第一神戸中学校(のち兵庫県立神戸高等学校)時代は[4]サッカー部・野球部に所属し手のつけられない乱暴者として知られ、当時すでにペイジ・グレンブルックなどの高級外国車を乗り回し(級友等を同乗させている写真が残っている)、後のカーマニアの片鱗を見せていた。神戸一中での成績は中の下。成績表の素行欄には、『やや傲慢』や『驕慢』、『怠惰』といった文字が並んでいる[5]。神戸一中時代には、宝塚歌劇団の生徒と恋仲になる。同級生の友人には後に作家で文化庁長官となった今日出海、他に古典中国文学者の大家として、文化功労者になった吉川幸次郎がいる。

イギリス留学

神戸一中を卒業後、ケンブリッジ大学クレア・カレッジに留学し西洋中世史、人類学などを学ぶ。自動車に耽溺し、ブガッティベントレーを乗り回す。7代目ストラッフォード伯爵“ロビン”ロバート・セシル・ビングと終生の友となる。ロビンとは、ベントレーを駆ってジブラルタルまでのヨーロッパ大陸旅行を実行している。

1925年(大正14年)、ケンブリッジ大学を卒業。

帰国

1928年(昭和3年)、神戸市神戸区(のちの中央区)で父の経営していた白洲商店が昭和金融恐慌の煽りを受け倒産したため、帰国を余儀なくされる。

1929年(昭和4年)、英語新聞の『ジャパン・アドバタイザー』に就職し記者となる。伯爵樺山愛輔の長男・丑二の紹介でその妹・正子と知り合って結婚に至り、京都ホテルで華燭の典を挙げた。婚姻届は兵庫県川辺郡伊丹町役場に提出されている。 結婚祝いに父から贈られたランチア・ラムダで新婚旅行に出かけた。その後、セール・フレイザー商会取締役、日本食糧工業(後の日本水産)取締役(1937年(昭和12年))を歴任する。

この間、海外に赴くことが多く駐イギリス特命全権大使であった吉田茂の面識を得、イギリス大使館をみずからの定宿とするまでになった。またこの頃、牛場友彦尾崎秀実とともに近衛文麿ブレーンとして行動する。近衛とは個人的な親交も深く、奔放な息子・文隆の目付役を押しつけられていたこともあった。

疎開、徴兵回避

白洲夫妻が疎開先で住居にしていた武相荘

1940年(昭和15年)、東京府南多摩郡鶴川村能ヶ谷(のち東京都町田市能ヶ谷)の古い農家(武相荘(ぶあいそう)と名付けた)を購入し、疎開した。特権階級であった白洲は徴兵を回避し、農業に励む日々を送った[6]。一方で吉田を中心とする宮中反戦グループに加わっていたようである。同年に長女・桂子がうまれる。

終戦連絡中央事務局

1945年(昭和20年)、東久邇宮内閣外務大臣に就任した吉田の懇請で終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任する。次郎はイギリス仕込みの英語で主張すべきところは頑強に主張し、GHQ某要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた[7]

昭和天皇からダグラス・マッカーサーに対するクリスマスプレゼントを届けた時に「その辺にでも置いてくれ」とプレゼントがぞんざいに扱われたために激怒して「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置けとは何事か!」と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせたといわれる[8]

なお今日、武相荘のメールマガジンでは、『「マッカーサーを怒鳴りつけた男」 と書かれるに至っては、白洲は筋を通してもそんな失礼な男ではなかったと言いたくなります』との記述があり[9]、また、占領期のGHQ関連文章を保管しているバージニア州ノーフォークにある「マッカーサー・アーカイブ」において1945・46年12月の執務記録、面会予定表、ゲストブックの全てに白洲次郎の名前が見つからないとのことを徳本栄一郎が、月刊「文藝春秋」に寄稿[10]している事から、このエピソードの真偽は意見が分かれる。

憲法改正

同年には憲法改正問題で、佐々木惣一京都帝国大学教授に憲法改正の進捗を督促する。1946年(昭和21年))2月13日松本烝治国務大臣が中心として起草した憲法改正案(松本案)がGHQの拒否にあった際に、GHQ草案(マッカーサー案)を提示されている。次郎は2月15日にGHQ草案の検討には時間を要するとホイットニーに宛てて書簡[11]を出し時間を得ようとするが、これはGHQから不必要な遅滞は許されないと言明された。

同年3月に終連次長に就任。8月、経済安定本部次長に就任。1947年(昭和22年)6月18日、終連次長を退任する。

貿易庁初代長官

1948年(昭和23年)12月1日商工省に設立された貿易庁の初代長官に就任する。汚職根絶などに辣腕を振るい、商工省を改組し通商産業省(のち経済産業省)を設立した。その辣腕ぶりから「白洲三百人力」と言われる。

同年、連合国軍が戦時に攻撃を避け占領後のため残したといわれた日本最大・最新鋭の日本製鐵広畑製鉄所(現在の新日本製鐵広畑製鐵所)が、日本側に返還されることになった。次郎は外貨獲得のためにイギリス企業に売却を主唱するも、永野重雄の反対によって頓挫した。永野は「(広畑製鐵所を)取れなかったら腹を切る。将来の日本経済のため、製鉄業を外国資本に任せられるか」と啖呵を切ったとされる。その後、次郎と永野は銀座のクラブで取っ組み合いの大ゲンカとなり、永野が次郎の顔を机に押さえつけた逸話も残る[12]。戦後復興に欠かせない日本最大・最新鋭の製鉄所の外国資本への売却は、賛否が分かれるところである[13]

白洲は「俺はボランティアではない」が口癖で、英国留学時代の人脈をフルに活用し、主として英国企業の日本進出を手助けし、成功報酬として成約金額の5%をロンドンの口座に振り込ませていた。広畑製鉄所の売却商談も成功していれば莫大な富を白洲次郎にもたらしたはずである。白洲は生涯浮世離れした豪奢な生活を送れたが、その根底にはこうした手数料収入があったことが挙げられている。

1950年(昭和25年)、講和問題で池田勇人蔵相・宮澤喜一蔵相秘書官と共に渡米しジョン・フォスター・ダレスと会談、平和条約の準備を開始した。

1951年(昭和26年)9月、サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行する。外務省の説明によると、吉田首相は当初、英語で演説を行うつもりだったが、日本の「ディグニティ(尊厳)」のために日本語でするほうが良いだろうとの米国側からの提案に従い、当日になって、急遽日本語で演説することとした[14]この時、首席全権であった吉田首相の受諾演説の原稿が、GHQに対する美辞麗句を並べ、かつ英語で書かれていたことに激怒、「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と一喝、受諾演説原稿は急遽日本語に変更され、随行員が手分けして和紙に毛筆で書いたものを繋ぎ合わせた長さ30mにも及ぶ巻物となり、内容には奄美群島沖縄並びに小笠原諸島等の施政権返還が盛り込まれた。[要出典]

1952年(昭和27年)11月19日から1954年(昭和29年)12月9日まで外務省顧問を務めた。吉田退陣後は政界入りを望む声もあったが政治から縁を切り、実業界に戻る。

実業界へ復帰

次郎は既に吉田側近であったころから公社民営化を推進しており、1949年(昭和24年)には日本専売公社が発足している。そして1951年(昭和26年)5月には、日本発送電の9分割によって誕生した9つの電力会社のうちの1つ、東北電力会長に就任する。就任の同年福島県只見川流域が只見特定地域総合開発計画に指定されたことから1959年(昭和34年)に退任するまで、只見川流域の電源開発事業に精力的に動き奥只見ダムなどの建設を推進した。

また、9電力体制を作った「電力王・電力の鬼」松永安左エ門の私的シンクタンク産業計画会議の委員に就任した。東北電力退任後は荒川水力電気会長、大沢商会会長、大洋漁業(現マルハニチロホールディングス)、日本テレビ、ウォーバーグ証券(現UBS)の役員や顧問を歴任した。

死去

兵庫県三田市心月院にある白洲次郎夫妻の墓。右が次郎、左が正子の墓。

80歳まで1968年ポルシェ911Sを乗り回しゴルフに興じ、また、トヨタの新型車(ソアラ)のアドバイスなども行っていた。しかし1985年(昭和60年)11月に、正子夫人と伊賀京都を旅行後、体調を崩し胃潰瘍と内臓疾患で入院。同年11月28日死去。83歳没。墓所は兵庫県三田市の心月院である。

夫人の正子と子息に残した遺言書には「葬式無用 戒名不用」と記してあった。実はこの遺言書のフレーズは、次郎の父親が死去した際に残した遺言の内容とまったく同じであった。そして次郎の墓碑には正子が発案した不動明王を表す梵字が刻まれているだけで、戒名は刻まれていない。

エピソード

  • 白洲次郎に関する一次資料は、ほとんど現存しておらず、実像としての次郎は謎が多い人物である[15]
  • 身長についてはNHK番組『その時歴史が動いた』では185cmと紹介されたが、武相荘ホームページメールマガジン2008年12月25日第86号によると175cmとなっている(白洲自身がGHQに提出した身上書には身長:1m75cm、体重:65kgとある[16])。
  • スポーツ万能で晩年には三宅一生のモデルを務めたこともある[17]
  • 非常にせっかちな性格の持ち主。その為ゴルフは「プレイ・ファスト」、食事は早食い。酒も手早く済ませたと伝えられている。軽井沢ゴルフ倶楽部では「素振り禁止」と張り紙をしたり、次郎の方から食事に誘った友人よりも早く食べ終えて「早くしろよ」と急かす事もしょっちゅうだった。
  • 食べ物は基本的には肉類を好み、高齢になってからも大食漢。80歳を過ぎても250gのステーキを平らげていた。また明太子も好物だった。次郎は戦後に西日本鉄道(西鉄)がプロ野球球団(西鉄ライオンズ、現在の埼玉西武ライオンズ)を設立する際の後ろ盾になったがその時、西鉄側に土産として明太子を持ってこさせた。最初に西鉄側が土産に持ってきたところ気に入ったようで、パンに塗って食べるのが好みだったようである。
  • コーヒーはイタリアン・ローストで細かく挽いたものを好み、青山の紀ノ国屋で良く購入していた。顔なじみだったコーヒー売り場の店員は、白洲の訃報を伝える新聞記事で初めて素性を知り驚愕するとともに、「冗談好きで素敵なおじいさんだった」と後に取材に答えている[18]
  • 神戸一中時代に、宝塚歌劇団に10歳位年上のガールフレンドがいた。
  • 神戸一中時代から車が趣味で、英国留学時代は油まみれで愛車をいじってはレースに参加したり長距離ドライブに興じたりしており、友人たちから「オイリーボーイ」と呼ばれていた。次郎の車好きは晩年まで続き、ベントレー3リッターやブガッティタイプ35、ポルシェ911Sなど数々の名車を所有していた。
  • 手先が器用で日曜大工が趣味の1つ。しゃもじや小物入れ、キャスターテーブルなど日用品を良く作っていた。これらは現在も武相荘に展示されている。2009年にマッカーサー記念館の倉庫から、白洲が設計しダグラス・マッカーサーに贈答された椅子と書簡が見つかった。なお、書簡の一通は白洲がマッカーサーに宛てたもの、もう一通は返信の写しだがマッカーサー本人からの物ではない。[19]
  • 武相荘に居住していた時期、親しい知人に椅子を自作し持っていったが、しばらくすると椅子を持って戻ってきた、何かあったのかと正子が先方に連絡を取ったところ、知人の家で持ってきた椅子に座って出来栄えを見せようとしたところ椅子が抜けてひっくり返ったとの事でそれを知った正子は大爆笑したという、当の本人には顔から火が出るほど恥ずかしかったらしく、持ち帰った椅子を斧で粉々にして燃やしてしまった。 
  • 結婚当初、正子を「薩摩の奴らは江戸に入城した時は、散々悪さを・・・」とからかったら正子から横っ面に一発ビンタを御見舞いされ、それ以降「薩摩」を揶揄する事はなかったそうである。
  • 日本人で初めてジーンズを穿いた人と伝えられている(サンフランシスコ講和条約締結に向かう機内で着用した)。また、ラッパズボンも愛用していた。
  • 次郎はケンブリッジ大学に留学しており、流暢なイギリス英語を話した。そのイギリス英語にはオックスフォード大学とケンブリッジ大学の学生・教員・出身者のみが喋る独特の訛があり、オックスブリッジアクセントと言われる。階級社会であるイギリスでは、オックスブリッジアクセントを喋る者は上流階級としてあらゆる場所で然るべき待遇を受ける。白洲次郎が話す英語は当然、オックスブリッジアクセントであった。アメリカでも、名門とされる大学群であるアイビーリーグですらオックスブリッジを手本に創立された。民政局長コートニー・ホイットニー准将に英語が上手いと褒められたことに対して"If you study a little harder, you will improve your English."(あなたももう少し勉強すれば上手くなる)と自分の英語の能力をひけらかしつつ嫌味で返した[20]
  • 英国留学時代から、スーツはロンドンのサヴィル・ロウにある老舗テーラーヘンリープール」などで仕立てていた。同店は吉田茂のテーラーとしても知られている。
  • 映画『夜の蝶』(1957年(昭和32年)、大映、原作川口松太郎)の主人公、白沢一郎(演じたのは山村聡コロンビア大学卒の前国務大臣。イラン石油輸入権を持ち政界に多大な力を持つ富豪の実業家)のモデルは彼である。
  • 貿易庁長官時代の番記者は、朝日新聞小坂徳三郎毎日新聞安倍晋太郎日本経済新聞田中六助であった。
  • 日本製鐵広畑製鉄所(現在の新日本製鐵広畑製鐵所)を外国企業に売り飛ばそうとして永野重雄とケンカしたという有名なエピソードであるが、永野が使ったのが六高時代の柔道仲間で、同郷でもある桜田武のルート。桜田は師匠・宮島清次郎に頼み、宮島は吉田茂首相が主な閣僚メンバーとの朝食会の席で、白洲に「おまえは閣僚の席もないんだから出ろ」と白洲を退席させてから吉田に「大阪の連中が会社をつくって、昭和の初めから国家資金を投入してきた事業の、いいところだけを頂戴しようとは何事だ。これは吉田内閣に汚点を残すだろう」と吉田を説得し売却を抑えた。後に桜田は白洲に「なんであんたのところのオヤジさに嫌われるんじゃ」と聞かれたから「あんた自分の胸に聞きなはれ」と言ったという。鹿内信隆も「白洲さんは悪い人じゃないけど、女にもて過ぎたのがいかんですね」と話している[21]
  • 宮澤喜一は「永山時雄と私が一番一緒に付き合っていた一人じゃないでしょうか」と話している。講和問題1950年3月に池田勇人と三人で渡米したのが最初だが、一連の交渉に「白洲さんはまったく関係してない。全然仕事をしている感じはなかった」と答えている。当時、ワシントンには日本人は、まだ特派員の二人[22]しかおらず、池田と宮澤はアメリカの方針で安宿に泊らせられたが、白洲はイギリスの学生時代の友達の家などに泊まり歩いて、どこで何をしていたか分からなかったという。「アメリカの役人も自分たちの枠の中で動いてない白洲を嫌がったかもしれませんね」「講和のことを吉田さんは池田さんには具体的に指図していますが、白洲にはあったように思えない、この時の渡米は白洲さんにとってはあまり重要な任務でなかったのではないかと思う」と話している[23]
  • サンフランシスコ講和会議に講和会議主席全権顧問として出席した際、講和条約の受諾演説の草稿をGHQの了解を得た上で英文で書いてきた外務省の役人を叱り飛ばし、全文を日本語による毛筆で書き直させた。この草稿の長さは30メートル、直径は10センチにも及び、吉田茂がこれを読み上げている様子を海外メディアは”吉田のトイレットペーパー”と報じた。
  • プロ野球は親会社の社外役員を務めていた大洋ホエールズ(現横浜ベイスターズ)を応援。同時期に日本テレビ社外役員でもあったのに何故巨人ファンでなかったかは定かではないが、日本テレビの役員会に顔を出したときには、当時の務臺光雄社長に対して「昨日の巨人はだらしなかったですな」等と冗談交じりに放言し、座を和ませる事もあった。
  • 吉田の総理退陣(1954年(昭和29年))後、長男である吉田健一に後継としての政界入りを打診する。しかし、政界への興味のなさと小りんとの再婚以後の茂との折り合いの悪さなどから、「その器ではない」と健一に断られる。これは次郎にとって痛恨事であったようで、後年に至るまでこの健一の態度についてかなりの悪口を言っていたらしい。その悪口を聞く機会があった辻井喬(堤清二)は後に著作の中で、およそ次郎に当てはまらぬ「可憐な人」との表現を用いて強烈に皮肉った。
  • 自身が晩年、政治家として最も評価していたのは英語使いとして知られた大蔵官僚出身の宮澤喜一であったが、晩年の正子はこれを「白洲も人を観る目がなかったのね」と評している[24]
  • 白洲の秘書を務めた西郡正三は、秘書活動の傍ら慶應義塾大学バスケットボール部監督としてインカレ3連覇・オールジャパン初優勝に導き、日本バスケットボール協会理事を11期に渡って務め日本バスケ界発展に尽力した。また、早稲田大学の監督を務めた牧山圭秀の子息である牧山圭男は、白洲家に婿入りした。

東北電力会長時代

  • 当時東北地方で開発可能な水力の4分の3を有していた只見川[25]水利権を巡って、古くからの権利を主張して徹底抗戦してきた東京電力に対し、当時の野田卯一建設大臣を説得して、水利権を東北電力に切り替えるという超法規的措置を引き出した。これによって、東北電力繁栄の基礎が築かれた。
  • ゴム長を履き自ら車(レンジローバー)を運転して各地のダム建設現場を回り、土産持参で飯場に泊まり込んで土木作業員やその家族と親しく酒を酌み交わした。普段の厳しい姿を知っている東北電力社員が畏まっているのとは対照的に作業員の子供は次郎に良く懐き、膝の上に抱かれる事も多かったという。次郎以外の社員には全く寄り付かない子供たちを見て次郎は「子供には、誰が本当にいい人か分かるんだよ」と言って笑い、周囲を悔しがらせた。
  • 出張旅費は殆ど自腹で行った。
  • 株主総会では舞台上に役員席を設ける事を好まず、株主と同じ高さに役員席を設けさせた。
  • 東北電力東京支社には政財界の要人が密かに訪ねてくる事が多く、彼らが自分ひとりで仕事をする為に部屋を用意させていた。
  • また東北電力東京支社では喫煙室以外は一切禁煙とし、女子社員のお茶汲みを禁じて飲みたい者は自分で用意させる様に徹底させた。

軽井沢ゴルフ倶楽部時代

  • 早朝の散歩を兼ねて場内を見回っていた時、工事のため徹夜で見張りをしていた鹿島建設の下請け会社社員に「おい爺さん、立ち入り禁止だ」と咎められた事がある。後に理事長室に呼び出され咎めた相手が理事長の次郎と知った社員はクビを覚悟したが、次郎は彼を親しく自分の隣に座らせコーヒーを勧めた上、同席していた鹿島建設役員に「一所懸命やってくれるのは有難いが、下の者に無理をさせてはいかん。そんな仕事を依頼した覚えは無い。」と諭した。
  • キャディー等のゴルフ場の裏方にも気さくに接し、慶弔時には小マメに祝いの品や香典等を贈っていた。死去して20年以上経った今でも、次郎から貰った品を大切に保管している人も多い。ある時フロント係の女性が結婚した事を知ると、倶楽部会員や知人に回状を廻して祝い金を集めて贈った。回状の署名には佐藤栄作井深大水上勉川口松太郎三益愛子夫妻など錚々たる人物名が記してあった。
  • 中曽根康弘が、軽井沢ゴルフ倶楽部に立ち寄った際、コースから閉め出されたSPと新聞記者が双眼鏡を用いて中曽根の様子をうかがっていたところ「なんだ? バードウオッチングか?」と強烈に皮肉ったといわれている(当時、中曽根は政治的立場をよく変えるため「風見鶏」と揶揄されていた)。
  • 一方で運転手にシューズの紐を結ばせている会員を見かけた時には「おい、手前ぇには手がないのか!」と一喝し、その場で追い返してしまった事もあった。
  • 以上の点から次郎はジョークのセンスもなかなかのものであり、頭は柔らかいが「うるさがたの爺様」だったようである。

田中角栄とのエピソード

  • 当時、飛ぶ鳥を落とす勢いであった首相の田中角栄に対してさえもルールを守るということを第一にした。次郎が理事を務めるゴルフクラブに、ある日秘書らしき若者から「これから田中がプレイしますのでよろしく」 と挨拶があった。応対した次郎が「田中という名前は犬の糞ほどたくさんあるが、どこの田中だ」と返したところ、「総理の田中です」と返答があった。「それは、(ゴルフクラブの)会員なのか?」と次郎が尋ねると相手からは「会員ではありませんが、総理です」と返答があった。次郎は「ここはね、会員のためのゴルフ場だ。そうでないなら帰りなさい」と言い、そっぽを向いたとのことである。
  • クラブのトイレに「洗面所のタオルを無断で持ち出さないでください」という理事長の張り紙があったにもかかわらず無視した田中に「おい、お前は日本語が読めねえのか」と言った。
  • 田中に対してはクラブの会員でない秘書が総理秘書だからといってプレイしようとしたことを拒否した一方で、田中が手ぬぐいを腰に差すのは合理的で良いと是認するなど「プリンシプル」に合致した公正な判断をしている。次郎は田中に対してはその人物を認めつつ、「あの人は若いころあまりにも金に苦労しすぎた」と金銭的に貧しかった境遇に同情していた。
  • 田中を批判するばかりではなく、ロッキード事件で逮捕されると、各新聞は「容疑者の田中は…」と書きたてた。次郎は新聞社の社長に向かって「田中角栄さんを叩くのはいいですが、あなたの新聞は4年前彼を今様太閤として「戦後日本が生んだ英雄」とおだてていました。今、容疑者田中と書くならなぜその前に「本紙はかつて彼を英雄扱い致しました、これは読者を誤らしめる不正確な報道でした」とお詫びと訂正を載せてからにしないのですか」と主張した。

  1. ^ しばしば「白州」と誤記されるが「州」(しゅう)ではなく「洲」(す)が正しい
  2. ^ 古い書籍では自身でプロフィール東京生まれとしている(安藤良雄 『昭和経済史への証言 毎日新聞社 1966年、411頁)。
  3. ^ 牧山桂子ほか『白洲次郎の流儀』より
  4. ^ 『白洲次郎 占領を背負った男』(講談社文庫)
  5. ^ 『白洲次郎 占領を背負った男』(講談社文庫 上巻)より
  6. ^ 但し当時38歳の白洲は丙種であり、昭和20年の戦争最末期を除けば庶民でも通常は徴兵されない年齢である。白洲の際の招集は、いわゆる成人男子総赤紙の「国民兵役招集」であり、回避した人間も多い
  7. ^ 『白洲次郎 占領を背負った男』(講談社文庫 上巻)
  8. ^ 河上徹太郎「メトロのライオン 白洲次郎」 『文藝別冊 総特集 白洲次郎』、(河出書房新社 2002年)に再録。他に青柳恵介『風の男 白洲次郎』(新潮文庫)など
  9. ^ [1] 武相荘メールマガジン
  10. ^ 徳本栄一郎「白洲次郎 知られざる素顔」(「文藝春秋」2008年10月号)
  11. ^ いわゆる「ジープウェイ・レター」。ホイットニーからの返事が国立国会図書館に保存されている(紹介ページ)。
  12. ^ 徳本栄一郎 「英国機密ファイルの昭和天皇」 新潮社 2007年
  13. ^ 徳本栄一郎 「英国機密ファイルの昭和天皇」 新潮社 2007年
  14. ^ http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/qa/sengo_03.html
  15. ^ [2] NHKドラマスペシャル白洲次郎 ホームページ
  16. ^ 文藝春秋 2008年10月号「白洲次郎 知られざる素顔」文藝春秋_081001
  17. ^ 平成18年(2006年)4月にNHK番組『その時歴史が動いた』でも取り上げられた。
  18. ^ 青柳恵介『風の男 白洲次郎』
  19. ^ 開運!なんでも鑑定団 2009年6月30日放送
  20. ^ 『白洲次郎 占領を背負った男』(講談社文庫 上巻)では、ホイットニー准将は、アイビーリーグではないジョージワシントン大学出身であり、白洲次郎の「もう少し勉強」と言う言葉は「あなたも、もう少し勉強すればオックスブリッジに入学出来てオックスブリッジアクセントを喋る資格を所有できる」、「あなたももう少し勉強すればオックスブリッジアクセントの事が解って、そのような失礼な事を発言しなくなる」などの皮肉が入っていたとされる
  21. ^ 桜田武鹿内信隆『いま明かす戦後秘史 (下巻)』、サンケイ出版、1986年、58-60頁
  22. ^ 朝日新聞の中村省吾と東京新聞の酒井米夫。
  23. ^ 『文藝別冊 総特集 白洲次郎』、62-65頁(河出書房新社 2002年)
  24. ^ だが両者と交流のあった江藤淳は「宰相宮沢喜一論」で、白洲の厳しい宮沢評を述べている。『大空白の時代』(PHP、1993年7月)に収録。
  25. ^ 『東北電力株式会社50年のあゆみ』
  26. ^ 死の数年前、何日かにわたって古いかばんを持ち出し、中の書類を次々に火にくべていたという。長女の桂子が「何を燃やしているの?」と尋ねるとそれには答えず、「こういうものは、墓場まで持っていくもんなのさ」と言って、焼却炉から立ち上る煙をじっと見上げていたという『白洲次郎 占領を背負った男』。
  27. ^ http://sankei.jp.msn.com/politics/election/090907/elc0909070818002-n2.htm
  28. ^ 高田義久 著:『三田藩の進路をリードした 大参事白洲退蔵』より[3]






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