いし‐ぶみ【石文/▽碑】
いしぶみ【碑】
えり‐いし〔ゑり‐〕【▽碑】
ひ【碑】
ひ【碑】
碑
作者中山義秀
収載図書昭和文学全集 第13巻
出版社小学館
刊行年月1989.2
収載図書幕末 2 暗夜を斬る
出版社講談社
刊行年月1992.11
シリーズ名歴史小説名作館
収載図書新編 中山義秀自選歴史小説集 第1巻
出版社宝文館出版
刊行年月1996.12
収載図書新編 中山義秀自選歴史小説集 第1巻
出版社宝文館出版
刊行年月1996.12
碑
碑
作者綱淵謙錠
収載図書叛
出版社悠思社
刊行年月1991.10
碑
石碑
(碑 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/23 22:29 UTC 版)
石碑(せきひ、英語: stele, stela, Stone monument)とは、人類が何らかの目的をもって銘文(碑文ともいう)を刻んで建立した石の総称。「碑(いしぶみ)」ともいう。墓石としてなど他の目的を持たず、銘文を刻むこと自体を目的とするものをいう(ただし、英語の stele の場合は、木製のものや墓碑も含む場合がある)。なお、何かの記念として建てられたものを記念碑(きねんひ)、和歌・短歌や歌謡曲・唱歌などの歌詞を刻んだものを歌碑(かひ)、俳句を刻んだものを句碑(くひ)、詩を刻んだものを詩碑(しひ)という。
碑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/29 03:45 UTC 版)
北碑では顕彰碑や記念碑のほか、墓碑として建てられたものが多く、著名な碑の相当数がこれに該当する。 張猛龍碑 正光3年(522年)建碑。魯郡(現在の山東省南部)の太守であった張猛龍の顕彰碑。 高貞碑 正光4年(523年)建碑。皇太子の侍従となったが夭折した高級貴族・高貞の墓碑。
※この「碑」の解説は、「北碑」の解説の一部です。
「碑」を含む「北碑」の記事については、「北碑」の概要を参照ください。
碑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/08 08:47 UTC 版)
開拓記念碑 1906年(明治39年)6月建立。神社裏手の月寒川から重さ1.5トンに及ぶ石を50人がかりで引き上げて台座にしたと言われる。 この年には神社合祀の勅令が出されており、統廃合の対象となった当社を存続させるため、三吉神社と兼務していた佐藤宮司が、政府の重要政策課題であった北海道の開拓を祭祀の対象としたと伝えられる。 「至誠奉公」碑 1928年(昭和3年)建立。昭和天皇御大典記念。 西岡開基七十年記念碑 1958年(昭和33年)建立。 西岡拓魂之碑 1988年(昭和63年)建立。開基100年記念。 開拓記念碑 「至誠奉公」碑 西岡開基七十年記念碑 「拓魂」碑 「鎮座百年」碑
※この「碑」の解説は、「西岡八幡宮」の解説の一部です。
「碑」を含む「西岡八幡宮」の記事については、「西岡八幡宮」の概要を参照ください。
碑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/09 04:48 UTC 版)
岩田徳治翁顕彰碑 1982年(昭和57年)10月建立。 黒御影石製。地域の発展に尽くした、岩田建設創始者・岩田徳治の功績を称えて建てられた。 戦勝紀念碑 日露戦争にまつわる碑だが、上部が欠損しており、また何の解説もない。
※この「碑」の解説は、「苗穂神社」の解説の一部です。
「碑」を含む「苗穂神社」の記事については、「苗穂神社」の概要を参照ください。
碑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/27 08:52 UTC 版)
瘞鶴碑(えいかくひ) - 文化6年(1809年)に、当時佐渡奉行であった聴信が真光寺(現在の新潟県佐渡市真光寺に存在した寺)の境内に建立した鶴を埋めた石碑。現在も同寺の跡地に建立された金北山神社里社の境内に存在する。なお、瘞鶴碑を含めた真光寺跡と金北山、成就院が「金北山・成就院・真光寺跡」として佐渡市指定文化財・記念物「史跡」となっている。
※この「碑」の解説は、「柳沢聴信」の解説の一部です。
「碑」を含む「柳沢聴信」の記事については、「柳沢聴信」の概要を参照ください。
碑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/08 18:39 UTC 版)
※この「碑」の解説は、「原田種夫」の解説の一部です。
「碑」を含む「原田種夫」の記事については、「原田種夫」の概要を参照ください。
碑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 15:42 UTC 版)
西当別神社2代目宮司の長谷部栄二郎は、虎杖子の号で知られる俳人である。 1965年(昭和40年)9月5日、長谷部の神官30年勤続記念として、境内に句碑が建てられた。 馬よゆこう 涼しきうちの 一仕事 — 長谷部虎杖子 長谷部虎杖子の句碑 宮司故長谷部栄二郎顕彰之碑
※この「碑」の解説は、「西当別神社」の解説の一部です。
「碑」を含む「西当別神社」の記事については、「西当別神社」の概要を参照ください。
碑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 13:40 UTC 版)
滝の入り口の横には記念碑が建立されている。 相沢良記念碑 1932年(昭和7年)、女性平和運動家・相沢良は、古谷製菓工場の女性たちと3回ほど滝近くでハイキングを行っており、これが後にこの地に記念碑が立てられる契機となった。 韓国人殉難者之慰霊碑 1960年(昭和35年)6月25日建立。北海道各地の炭鉱で強制労働させられた朝鮮人の慰霊が目的。石材は東北地方から運ばれたといわれる。 当初は藻南公園や美香保公園に建立する案もあったが、地元の強い反対に遭ったため、経王寺の住職・松井の提案により、同寺の修行道場・大平和寺のある当地が紹介された。
※この「碑」の解説は、「平和の滝」の解説の一部です。
「碑」を含む「平和の滝」の記事については、「平和の滝」の概要を参照ください。
碑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/09 05:37 UTC 版)
平和顕彰碑 1947年(昭和22年)建立。戦没者慰霊と永久平和を祈願して。 元は忠魂碑だったが、太平洋戦争終結後にGHQの命によっていったん撤去され、表面の刻字を削り取って改造の後に再建立された経緯がある。 裏側には副碑のように開拓功労者・戦没者合祀芳名碑が建つ。 馬魂碑 1950年(昭和25年)5月、篠路村馬産振興会が上篠路209番地に建立。1970年(昭和45年)、境内に移設。 篠路ペルシュロンの名を高めたアニー・ヴヰリュー・第3啓春・第2コーガル・バンクの5頭が祀られている。 北区歴史と文化の八十八選の「4.農村文化発祥の道〈太平・篠路コース〉」に属する「74.篠路神社の馬魂碑」として選定されている。 力士・小松山之碑 明治時代中期の篠路村で活躍した素人力士を顕彰した碑。 北区歴史と文化の八十八選の「73.力士・小松山之碑」として選定されている。
※この「碑」の解説は、「篠路神社」の解説の一部です。
「碑」を含む「篠路神社」の記事については、「篠路神社」の概要を参照ください。
碑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/06 01:39 UTC 版)
1935年(昭和10年)に伊達政宗の没後300年を記念した藩祖伊達政宗公三百年祭が行われ、正宗が整備した城下町の基点ともいうべきこの地に「芭蕉の辻」の碑が建てられた。前の内閣総理大臣で、三百年祭の名誉総裁であった斎藤実が揮毫したものであったが、1945年(昭和20年)の仙台空襲の後、行方不明となった。その後、北西角の明治安田生命仙台ビルの前に、1970年(昭和45年)竣工の「芭蕉の辻」の碑と「江戸六十九次」「日本橋迄九十三里」と刻まれた道標が新設されている。
※この「碑」の解説は、「芭蕉の辻」の解説の一部です。
「碑」を含む「芭蕉の辻」の記事については、「芭蕉の辻」の概要を参照ください。
碑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/09 03:46 UTC 版)
札幌市西区の琴似発寒川の流脈にある滝、平和の滝の入り口の横には、相沢良の顕彰碑が建立されている。 また、青森県青森市浪岡の道の駅の上にある花岡展望台の前にも、相沢良の顕彰碑がある。
※この「碑」の解説は、「相沢良」の解説の一部です。
「碑」を含む「相沢良」の記事については、「相沢良」の概要を参照ください。
碑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/23 02:06 UTC 版)
豊漁紀念碑 1891年(明治24年)7月建立。 ニシン5万石という大豊漁を記念して。 撃剣道場 直心舘之碑 1977年(昭和52年)9月11日建立。 1892年(明治25年)から1910年(明治43年)まで厚田村にあった剣術道場を記念して。 直心舘を開いたのは、直心影流剣術を修めた牧田重勝。牧田は元・白河藩士で、西南戦争への出征後、1881年(明治14年)に新設された北海道集治監の看守に着任。厚田を訪れたのは1889年(明治22年)のことである。 牧田は厚田を去った後、札幌の苗穂村にも直心舘を開き、また永倉新八と交流するなどして、武道の振興に励んだという。
※この「碑」の解説は、「厚田神社」の解説の一部です。
「碑」を含む「厚田神社」の記事については、「厚田神社」の概要を参照ください。
碑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 08:11 UTC 版)
園内には、日本初飛行の地として「日本航空發始之地」の碑、1945年(昭和20年)8月25日に元代々木練兵場だった園内の一角にて14人の大東塾生らが自刃した「大東塾十四烈士」の碑、メキシコ政府から東京都に寄贈された「ケツァルコアトル」の像などがある。
※この「碑」の解説は、「代々木公園」の解説の一部です。
「碑」を含む「代々木公園」の記事については、「代々木公園」の概要を参照ください。
碑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 08:33 UTC 版)
尼港殉難者追悼碑尼港事件でニコラエフスク居留日本人700名余りが赤軍と中国軍によって惨殺され、小樽からの定期便で日本人居留民がニコラエフスクに渡った縁から、公園内に犠牲者の納骨堂と受難者追悼碑を建立している。 尼港殉難碑 青木政徳之碑 物故船員慰霊碑 尼港事件殉難者追悼碑 尼港殉難碑 青木政徳之碑 物故船員慰霊碑
※この「碑」の解説は、「手宮公園」の解説の一部です。
「碑」を含む「手宮公園」の記事については、「手宮公園」の概要を参照ください。
碑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 15:45 UTC 版)
1981年(昭和56年)、吉田茂八碑顕彰保存会によって南4条東4丁目の豊平橋園地(北緯43度03分23.1秒 東経141度21分49.8秒 / 北緯43.056417度 東経141.363833度 / 43.056417; 141.363833)に「札幌開祖吉田茂八碑」が建てられた。
※この「碑」の解説は、「吉田茂八」の解説の一部です。
「碑」を含む「吉田茂八」の記事については、「吉田茂八」の概要を参照ください。
碑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/23 10:00 UTC 版)
史跡 対雁番屋・駅逓 標柱 榎本公園一帯はかつて、豊平川が石狩川へと合流する水運の要衝であり、「津石狩(ついしかり)」と呼ばれた江別発祥の地である。地名の表記はやがて「対雁」へと変わり、番屋が設けられた。 しかし鉄道の敷設により、交通手段としての石狩川の重要性が薄れたため集落は移転し、この地は寂れた。 また豊平川も改修工事により流路を変え、残された旧水路が「世田豊平川」として公園の脇を流れるのみとなった。 榎本武揚像 石組みの円柱の上に設置された像で、榎本は道産子と思われる馬に騎乗している。 制作者は佐藤忠良。 対雁百年碑 1871年(明治4年)に宮城県からの入植者たちによって対雁村が開かれて以来100年が経過したことを記念して、1971年(昭和46年)に建立された。 この碑の中には、かつてこの地に所在した対雁神社の神体である自然石が埋め込まれている。 なお、対雁神社の額は江別市郷土資料館に保存されている。 史跡 対雁番屋・駅逓 標柱 榎本武揚像 対雁百年碑
※この「碑」の解説は、「榎本公園」の解説の一部です。
「碑」を含む「榎本公園」の記事については、「榎本公園」の概要を参照ください。
碑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/22 00:01 UTC 版)
江戸後期の戯作者の山東京山筆の道標、狂歌師の鹿都部真顔の歌碑がある。
※この「碑」の解説は、「隅田川神社」の解説の一部です。
「碑」を含む「隅田川神社」の記事については、「隅田川神社」の概要を参照ください。
碑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/11 04:12 UTC 版)
擇善館跡擇善館跡碑 宮原一人医師銅像台座 長澤元太郎頌徳碑 御典橋 明治天皇御製碑 戦死者供養塔 殉職者招魂碑 戦死者忠魂碑 佐々木英夫翁頌徳碑 台座だけ残っているものは金属類回収令によって像が撤去されたため。沢原為綱の銅像があったが台座のみ歴史の見える丘に移設されている。
※この「碑」の解説は、「二河公園」の解説の一部です。
「碑」を含む「二河公園」の記事については、「二河公園」の概要を参照ください。
碑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 09:39 UTC 版)
阿部仁太郎之碑 1899年(明治32年)7月3日建立。豊平区に現存する最古の碑といわれる。 満州戦没記念碑 1906年(明治39年)建立。日露戦争で犠牲となった豊平村出身者の慰霊のための碑。 連合用水「穿渠有功者姓名」碑 1914年(大正5年)9月1日建立。社務所の中庭に所在。豊平・平岸村・上白石村・白石村の四カ村連合用水の開設功労者を顕彰する碑。 「聯合用水開渠四十周年記念国富在農」碑 1933年(昭和8年)9月1日建立。社務所の中庭に所在。題書は当時の札幌市長・橋本正治。 「札幌市豊平聯合用水組合創立五十年記念」碑 1943年(昭和18年)9月1日建立。 針供養の歌碑 1951年(昭和26年)12月建立。 連合用水組合「六十周年記念功労者」碑 1953年(昭和28年)9月1日建立。社務所の中庭に所在。
※この「碑」の解説は、「豊平神社」の解説の一部です。
「碑」を含む「豊平神社」の記事については、「豊平神社」の概要を参照ください。
碑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/25 09:28 UTC 版)
1971年、「小田嶋十黄句画碑」が高尾山薬王院参道に建つ。 明易や院を護りの杉木立 と刻んだ左半分に杉木立の画が刻されている。
※この「碑」の解説は、「小田嶋十黄」の解説の一部です。
「碑」を含む「小田嶋十黄」の記事については、「小田嶋十黄」の概要を参照ください。
碑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/12/08 04:56 UTC 版)
北海道の開拓農家にとって、馬は開墾のために必要な労働力であり、かつ家族同然の存在であった。そのため道内には各地に馬を祭る碑が見られる。 当社の境内にもそのひとつがあり、北区歴史と文化の八十八選のうち、「2.水辺と開墾の道〈北・新川・新琴似・麻生コース〉」に属する「27.馬頭大神」として選定されている。
※この「碑」の解説は、「新川皇大神社」の解説の一部です。
「碑」を含む「新川皇大神社」の記事については、「新川皇大神社」の概要を参照ください。
碑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/02/15 13:30 UTC 版)
「山口神社 (札幌市)」の記事における「碑」の解説
山口開基八十周年記念碑 1960年(昭和35年)11月3日建立。 軟石製。山口県玖珂郡今津村(山口県岩国市今津町)からの移住者たちが開拓を始めて80年が経過したことを記念して建てられた。 山口開基百年記念碑 1979年(昭和54年)建立。 馬頭観世音 農耕馬や軍馬の慰霊のため建てられた。
※この「碑」の解説は、「山口神社 (札幌市)」の解説の一部です。
「碑」を含む「山口神社 (札幌市)」の記事については、「山口神社 (札幌市)」の概要を参照ください。
碑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/02/15 13:35 UTC 版)
「花岡神社 (札幌市)」の記事における「碑」の解説
成墾紀念碑 1909年(明治42年)7月建立。前年の北大第4農場による成墾を記念したもの。 北大農場は簾舞開拓における中心的役割を果たしており、碑建立には地域を挙げて寄付が集まった。 「記念」碑 1926年(大正15年)10月建立。簾舞開基50年と、北大第4農場35周年を記念して。 開基百年記念塔 1971年(昭和46年)9月15日建立。題字の揮毫は町村金五。子供たちが自由に上がって碑に触れられるように、台座は縦横約3メートルと広く造られている。 成墾紀念碑 簾舞開基50年・北大第4農場35周年「記念」碑 簾舞百年記念塔 空沢「山の神」碑
※この「碑」の解説は、「花岡神社 (札幌市)」の解説の一部です。
「碑」を含む「花岡神社 (札幌市)」の記事については、「花岡神社 (札幌市)」の概要を参照ください。
碑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/04 00:14 UTC 版)
境内にはさまざまな理由で建てられた碑が集中しており、それぞれが北区歴史と文化の八十八選のうち、「2.水辺と開墾の道〈北・新川・新琴似・麻生コース〉」に選定されている。 なお、No.39は碑ではなく新琴似屯田兵中隊本部に与えられている。詳細は同項を参照。 34.東繁造君学勲碑(ひがししげぞうくん がくくんひ) 人間と動物の血液の鑑別法を発展させた東繁造の業績を称える碑。 35.新琴似兵村記念碑 1936年(昭和11年)、屯田兵入植50年を記念して建立。 36.新琴似の馬魂碑 農耕馬を供養するための碑。1975年(昭和50年)、当初の所在地である光明寺(新琴似7条1丁目)の前庭から移設された。 37.吹田晋平歌碑 文学者にして市議会議員であった吹田晋平の業績を称える碑。 38.新琴似「百年碑」 1986年(昭和61年)、新琴似地区開基100年を記念して建立。 40.新琴似「拓魂」碑 同じく開基100年に際して建立された、歴代の農業協同組合長の業績を称える碑。 41.新琴似「開村記念碑」 1892年(明治25年)、入植5年目に建立。 このほか、忠魂碑と殉国英霊の碑もある。 東繁造君学勲碑 新琴似兵村記念碑 新琴似の馬魂碑 吹田晋平歌碑 新琴似「百年碑」 新琴似「拓魂」碑 新琴似「開村記念碑」 忠魂碑 殉国英霊の碑
※この「碑」の解説は、「新琴似神社」の解説の一部です。
「碑」を含む「新琴似神社」の記事については、「新琴似神社」の概要を参照ください。
碑
碑
碑
「碑」の例文・使い方・用例・文例
- 彼らは記念碑の建立を計画している
- 彼の名は記念碑に刻み込まれている
- 墓碑銘
- 故人の記念碑を建てる
- 戦没者の記念碑
- 人々は彼のために記念碑を建てた
- 碑銘
- 政府は内戦の退役軍人に対して碑を建立した
- リンカーンの記念碑
- 市長は公園の新しい記念碑を除幕した
- 兵士達は平和記念碑を建てた。
- 禎子の友人達は、彼女と原爆でなくなったすべての子供達の慰霊碑を建てたいと思った。
- 知事は戦死した兵士たちに記念碑を奉納した。
- 市はその将軍に敬意を表して記念碑を捧げた。
- 港を見下ろす墓に墓碑を立てた。
- 故人を記念する記念碑を建設するために基金を開始した。
- 故人をしのんで、記念碑が建てられた。
- 記念碑の一番上で禎子が頭の上に金の鶴をかざしている。
- 記念碑が公園に建てられた。
- その著名な哲学者に敬意を表して記念碑が建てられた。
- >> 「碑」を含む用語の索引
- 碑のページへのリンク