銘文とは? わかりやすく解説

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めい‐ぶん【銘文】

読み方:めいぶん

銘として、金石器物・像などに刻まれ文字文章金石文めいもん

銘文の画像

めい‐もん【銘文】

読み方:めいもん

めいぶん(銘文)


銘文

読み方:メイブン(meibun)

仏像仏具などを作製する当たって、そのある部分墨書したり彫刻したりする文章


銘文(めいぶん)

刀剣製作者明示する為の銘文は、奈良時代大宝令により制度化されたが、現存遺例平安時代中期遡るものがなく、記号は別として、最も古い銘文としては伯耆国安綱山城国三条宗近などが挙げられる。銘文の基本となるのは刀工銘や俗称、あるいは本名称号任官あるいは受領銘などであり、これに花押刻印などが添えられる場合もある。しばしば作者居住地刻され備前国長船のように、後には刀工の姓のように用いられた例もあるが、多くは、『勢州伊勢国桑名住』などと製作地示したのである。製作年紀には年号加えて正確な月日を刻す場合もあるが、多く焼入れ適した旧暦二月日と八月日。辛酉などの干支を切り添えることもあるが、さらに最後に吉日などと入れる例も多い。この他、銘文には注文打と呼ばれる製作依頼者の名前を添えたもの、試し切りをした結果切断能力示した截断銘や、その切れ味称える号銘や異名、それに刀の由来奉納主旨刻したもの、さらに神仏文字などの神号家紋図様などもみられる

金石文

(銘文 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/21 04:32 UTC 版)

金石文(きんせきぶん)は、金属などに記された文字資料のこと。紙、布などに筆で書かれた文字に対し、刀剣銅鏡青銅器仏像石碑墓碑などに刻出・鋳出・象嵌などの方法で表された文字を指す。土器甲骨などの類に刻まれたものを含む場合もある。

ここでは主として記念性、永遠性を持った碑文、銘文などについて述べる。ここでは、碑文(ひぶん)は石碑に記した文、銘文(めいぶん)はそれ以外の金石に記した文と考えて用いる。

概要

中国では、ある事件や人物の記録を後世に残すために記した文を「銘」といい、やがて春秋戦国時代石鼓文時代以降には始皇七刻石をはじめとして、銘を刻んで「碑」を建てるようになった。このように碑文・銘文は、堅牢な金属や石に記されたのである。したがって碑文・銘文は一定の様式を持ち、また、さまざまな技巧が凝らされた。

人物画像鏡

日本では、古くは、福岡県福岡市志賀島から出土した「漢委奴国王」(漢の倭の奴の国王)の金印奈良県天理市石上神宮に伝わる七支刀など、中国朝鮮半島の国から贈与、献上または下賜された遺品がある。また、日本で製作されたものとして、和歌山県橋本市隅田八幡神社所蔵の人物画像鏡東京国立博物館に寄託)、千葉県市原市稲荷台1号古墳出土のの銀象嵌銘、埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣の象嵌銘、熊本県江田船山古墳出土の銀象嵌銘大刀の銀象嵌銘などが知られている。

日本に所在する古碑としては、日本三古碑と呼ばれる上野国群馬県多胡碑下野国栃木県那須国造碑陸奥国宮城県多賀城碑が特に著名である。

上記以外の金石文には、碑、墓誌銘造像銘鐘銘、器物銘などがある。

世界的にはダレイオス1世が自己の業績を記したベヒストゥン碑文やプトレマイオス5世の徳を讃えたロゼッタ・ストーンダルマを統治理念としたアショーカ王石柱碑・磨崖碑、中国代の大秦景教流行中国碑(西安碑林博物館所蔵)、唐と吐蕃とが国境を定めた唐蕃会盟碑などが著名である。

多くが時代の闇の彼方に姿を消すものの、金属や石などの剛健な物に記されていることから、発掘されることにより当時の出来事を鮮明に伝えるものとなる。歴史考古学的に、また言語学的に非常に重要な資料となる。

造像銘

像を造る際、製作者の名前や製作年度、由来などを記した銘文。東洋では主に仏像を造る際に記された。

中国では南北朝時代北魏代、「龍門石窟」と呼ばれる洞窟に彫られた磨崖仏に記されたものが有名で、うち秀逸なもの20点が「龍門二十品」として選ばれ、六朝楷書の書蹟として知られる。

日本では飛鳥時代から行われ、法隆寺金堂の釈迦三尊像造像銘薬師如来像造像銘など多くの遺品が知られる。

墓碑・墓誌銘

故人を顕彰するため、墓のそばに姓名・生前の業績・記念文を記して建てたもの。一般的に墓域内に「墓碑」として建てるのが普通であるが、中国では一時期建碑が禁じられたことがあったため、碑を石板に変えて棺のそばに埋めた。この場合は「墓誌」と称する。

中国では南北朝時代から代にかけて爆発的に流行し、当時の書道の実態を語る史料として大量に出土している。墓碑では「高貞碑」、墓誌では「刁遵墓誌」「張黒女墓誌」などが著名で、六朝楷書の書蹟として知られる。

また西安市(かつての長安)の工事現場で2004年に見つかった日本出身で唐に仕えた井真成の墓誌、大韓民国忠清南道公州市(かつての熊津)の宋山里古墳百済で1971年に見つかった武寧王の墓誌なども知られる。

日本古代の墓誌の埋納は7世紀末~8世紀末まで行われ、最盛期は8世紀前半である。銘文を残存しているものは18点ある。

画像 埋葬者 年紀 字数 出土地 文化財指定 保管施設 文化庁
名称 区分

複製
船王後 戊辰年(668年) 162字(両面) 大阪府柏原市 銅製船氏王後墓誌 国宝 三井記念美術館(個人所有) [1]
小野毛人 丁丑年(677年) 48字(両面) 京都府京都市 金銅小野毛人墓誌 国宝 京都国立博物館崇道神社所有) [2]
文禰麻呂 慶雲4年(707年) 34字(片面) 奈良県宇陀市 文祢麻呂墓出土品 国宝 東京国立博物館 [3]
威奈大村 慶雲4年(707年) 391字(蓋) 奈良県香芝市 金銅威奈大村骨蔵器 国宝 京都国立博物館(四天王寺所有) [4]

複製
下道国勝・国依の母 和銅元年(708年) 47字(蓋) 岡山県小田郡矢掛町 銅壺 国の重要文化財 圀勝寺 [5]
伊福吉部徳足比売 和銅3年(710年) 108字(蓋) 鳥取県鳥取市 銅製伊福吉部徳足骨蔵器 国の重要文化財 東京国立博物館 [6]
道薬 和銅7年(714年) 32字(両面) 奈良県天理市 佐井寺僧道薬墓出土品 国の重要文化財 奈良国立博物館 [7]
太安麻呂 養老7年(723年) 41字(片面) 奈良県奈良市 太安萬侶墓誌 国の重要文化財 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館 [8]
山代真作 戊辰年(728年) 76字(片面) 奈良県五條市 金銅山代忌寸真作墓誌 国の重要文化財 奈良国立博物館 [9]
小治田安万侶 神亀6年(729年) 64字(片面) 奈良県奈良市 金銅小治田安万侶墓誌 国の重要文化財 東京国立博物館 [10]
美努岡万 天平2年(730年) 173字(片面) 奈良県生駒市 銅製美努岡万連墓誌 国の重要文化財 東京国立博物館 [11]

拓本
楊貴氏 天平11年(739年) 43字(片面) 奈良県五條市 (非現存)
行基 天平21年(749年) 21字(身) 奈良県生駒市 銅製行基舎利瓶残片 重要美術品 奈良国立博物館
石川年足 天平宝字6年(762年) 130字(片面) 大阪府高槻市 金銅石川年足墓誌 国宝 大阪歴史博物館 [12]
宇治宿禰 □雲2年(768年?) 28字(片面) 京都府京都市 東京国立博物館

複製
高屋枚人 宝亀7年(776年) 37字(片面) 大阪府南河内郡太子町 高屋連枚人墓誌 国の重要文化財 叡福寺 [13]
紀吉継 延暦3年(784年) 47字(片面) 大阪府南河内郡太子町 紀吉継墓誌 国の重要文化財 妙見寺 [14]
-
日置(郡)公 なし 33字(片面) 熊本県玉名郡和水町 (非現存)

鐘銘

寺の梵鐘に寄進者名や製作年度、鐘の功徳、由来などを記した銘文。「国家安康、君臣豊楽」と銘された方広寺のそれが大坂の陣の口実となった。

世界遺産における位置づけ

文化遺産」に属する。そのなかの「記念工作物」は、

建築物、記念的意義を有する彫刻及び絵画、考古学的な性質の物件及び構造物、金石文、洞穴住居並びにこれらの物件の組合せであって、歴史上、芸術上又は学術上顕著な普遍的価値を有するもの

と定義されている(世界遺産条約第一条)。

なお、世界遺産条約では文化遺産として「記念工作物」のほか、「建造物群」と「遺跡」を掲げている。

現代における金石文の役割

多種多様な記録媒体が発達した21世紀初頭においても、またたとえ作成の目的を純粋な情報伝達に限ったとしても、記録としての金石文の必要性が完全に失われたわけではない。情報の受け手として現代の言語が絶滅した時代の人々や地球外知的生命体を想定する場合、必要とされる保存性は紙やインクが持つ耐久性を大幅に超える。また、電子媒体への記録も(たとえ媒体を物理的に保存できたとしても)適切にデコードされることはほぼ期待できない。上記の理由から、放射性廃棄物地層処分が行われた場所など、遠未来の人類に確実に残さなければならない情報については、炭化ケイ素セラミックスのプレートに文字として刻印することが検討されている[1]

純粋な記録だけでなく、さまざまな事物の記念物としての側面を持つ金石文は、現代でも事あるごとに造られている。

脚注

  1. ^ 原子力環境整備促進・資金管理センター「地層処分にかかわる記録保存の研究」(2010年6月閲覧)

参考文献

関連項目

外部リンク


銘文

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/04 14:51 UTC 版)

楊貴氏墓誌」の記事における「銘文」の解説

天平十一八月十二日記 / 歳次己卯」とあるが、年月日の後に歳次干支)を記す例は当代記録見えず、また「記」と一旦文を閉じた後にその歳次現れる点も気に掛かり、この2行には字形違い見られるため、これは「記」まで刻んだ後に「歳次己卯」の4文字追刻されたと見られる。そこでこの4文字を除くと今度は銘文全体が右に偏ったものとなり、字配りの点で予め銘文を決定していたというよりも、「天平十一八月十二日記」と刻んだ後に追って刻まれ可能性があり、やや杜撰である。

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万国津梁の鐘」の記事における「銘文」の解説

鐘の表には、臨済宗の僧で琉球相国寺後述)の二世住持である渓隠安潜による漢文刻まれ、「琉球国南海勝地にして、三韓の秀を鍾め、大明を以て輔車となし、日域を以て唇歯となす。此の二の中間在りて湧出する蓬莱島なり。舟楫を以て万国津梁となす」(書き下し)という一節は、日本明国との間にあって海洋貿易国家として栄えた琉球王国気概を示すものとされている、これは現在沖縄においてこの梵鐘が「万国津梁の鐘」と称されるゆえんである。 また後半仏教の興隆謳われ、これは当時内乱打ち続いていた尚泰久王治世において、仏教による鎮護国家思想表したものとされている。1457年尚泰久朝鮮から大蔵経取り寄せており、仏恩報じるためにこの梵鐘鋳造建立したとされる大意次のようである。 中国日本から齎された諸々文化により琉球繁栄し世の主が大位を天授され民生涵養し(琉球の)大地青々としている。三宝盛んに四恩報いるため(この)梵鐘鋳造し王殿に懸ける。王は国制中国倣って敷き先王教え倣い武芸奨励する梵鐘の音は三界衆生救い世の主の大位と長寿を祝う。 以下四言詩が続く。全文以下の通り琉球国南海勝地而鍾三韓之秀以大明輔車日域唇齒在此二中間湧出蓬莱島也以舟楫万国津梁異産至宝充満十方地靈人物遠扇和夏之仁風故吾大世庚寅慶生尚泰久茲承宝位高天蒼生厚地興隆三宝報酬四恩新鋳巨鐘以就本州中山国王殿前掛着之定憲章三代之後戢文武百王之前下済三界群生上祝宝位辱命相国住持溪隠安潜叟求銘々須弥南畔 世界洪宏吾王出現 済苦衆生截流玉象 吼月華泛溢四海梵音声覚長夜夢 輸感天誠堯風永扇 舜日益明戊寅六月十九日辛亥大工藤原国善住相国溪隠叟誌之

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テムズ・スクラマサクス」の記事における「銘文」の解説

刀身のフソルクの銘文は以下の通りである。 サクスでの並び順標準的なルーンUSC古英語ローマ字音訳ザルツブルク・ウィーン写本の並び順1 ᚠ feoh f 1 2ur英語版u 2 3 ᚦ þorn þ 3 4 ᚩ ós(英語版o 4 5 ᚱ rad英語版) r 5 6cen英語版) c 6 7gyfu英語版) g 7 8wynn w 8 9 ᚻ hægl英語版) h 9 10nyd英語版) n 10 11 ᛁ is(英語版) i 11 12ger英語版) j 12 13 ᛇ eoh(英語版) ɨ 13 14 ᛈ ᛈ(英語版) p 14 15 ᛉ eolh x 15 16 ᛋ sigel(英語版) ( ᚴ と記されている。下記参照) s 16 17 ᛏ Tiw(英語版t 17 18 ᛒ beorc(英語版b 18 19eh英語版e 19 20ing ŋ 22 21 ᛞ dæ d 23 22 ᛚ lagu(英語版) l 21 23mann m 20 24 ᛟ eþel英語版) (と記されている。下記参照) œ 24 25ac英語版a 25 26 ᚫ æsc英語版) æ 26 27 ᚣ ᚣ(英語版) y 28 28ear英語版ea 27 この銘文には、まれな特徴いくつかある。まず第一にルーン文字順番が、より古い24文字のルーン・アルファベットの伝統的な配列や、ザルツブルク・ウィーン写本ドイツ語版)に残されたアングロ・サクソン・フソルクの28文字配列とぴったり一致しない最初19番目までのルーン文字順番通りであるが、続く4文字20番目から23番目の ᛝᛞᛚᛗ )は、他の出典とは一致しない混乱した並び方をしている。最後2つルーン文字27番目と28番目のᚣᛠ)は、ザルツブルク・ウィーン写本並び順番入れ替わっていると考えられるが、これらは元の24文字ルーン文字遅れて付け加えられたため、並び順安定していなかったと考えられる。特に最後文字 ᛠ は、アングロ・サクソン写本では極めて稀である(この銘文の他ではドーバー見つかった Jɨslheard ᛄᛇᛋᛚᚻᛠᚱᛞ という名前に現れる)。 第二に、16番目のルーン文字 (ᛋ)はとても小さく後付けされたため縮められたように見える。 第三に、いくつかのルーン文字書体通常とは異なっている。 12番目の ᛄ は円の代わりに水平線一本書かれているが、菱形十字は他の銘文や写本の例によく見られるのである16番目の ᛋ は通常異なるが、これはいくつかの碑文例え聖カスバート英語版)の聖堂のもの)にも見られる。このルーン文字書式は、アングロ・サクソン語写字体に用いられインシュラー体のS(英語版)と非常に似た形状をしている(両者とも垂直の軸線もしくは右上がり横線がある)ため、この文字から借用した確信する研究者もいる。一方エリオットは、左に分岐する一画整理した上に、文字を鏡写しにした、通常のルーン文字進化させたものと見なしている。 21番目の ᛞ は、中央交差する三角形ではなく三角形形成する2本の斜めの線が交わる形で通常とは異なる。これはおそらく異常な形であると考えられる24番目の ᛟ は通常の形では2本の斜め線の脚を持つ代わりに、1本の垂直線を持つ変わった形をしている。この形はルーン文字碑文と、しばしば写本テキスト中にも見られるアデレード大学元英教授ラルフ・エリオット(英語版)は、標準的なルーン文字簡略化して表したのである示唆している。 27番目の ᚣ は中央部垂直線ではなく十字を伴うもので通常異なる形である。 これらの風変わりな点は、銘文をデザインした職人ルーン綴り方をよく知らなかったことを示していると考えられる。しかし特異な書体いくつかは、ルーン文字線材象嵌するのが困難なことに起因する間違いであるかもしれない。 ベアグノズの名前の銘文は以下の通りである。 名前の銘文には珍しい特徴見られないが、名前の右上は文字のように見え奇妙なデザイン2つあり、これは誰にも説明出来ていない。

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銘文

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法隆寺金堂釈迦三尊像」の記事における「銘文」の解説

詳細は「法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘」を参照 蓮弁光背の裏面には造像由来について記した銘文がある。銘文は1414行で、四六駢儷体格調高いのであるこのように字数行数整えた例は中国墓誌みられる文字中国の5〜6世紀頃の書風伝える。刻まれ文字内面には鍍金及んでいないとされるが、これについては写真映りよくするために明治大正期に字の部分詰め物をしたことの影響指摘されている。銘文の原文と書き下し文を以下に示す(読み方には諸説ある)。 法興元丗一年歳次辛巳十二月鬼前太后明年正月廿二日上宮法皇病弗悆干食王后仍以勞疾並著於床時王王子等及與諸臣深懐愁毒共相發願仰依三寳當造釋像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安住世間是定業以背世者往登淨土早昇妙果二月廿一日癸酉王后即世翌日法皇登遐癸未年三月中如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘嚴具竟乘斯微福信道知識現在安出生入死随奉三主紹隆三寳遂共彼岸普遍六道法界含識得脱苦縁同趣菩提使司馬鞍首止利佛師造 (読み下しの例) 法興元丗一年げんさんじゅういちねん)、歳(ほし)は辛巳に次(やど)る〔西暦621年十二月、鬼前太后間人皇女崩ず明年正月廿二日上宮法皇太子〕、病に枕して弗悆(ふよ)〔「弗」の次の漢字は「余」の下に「心」〕。干食(かしわで王后〔膳妃〕、仍(より)て以て労疾、並びて床に著(つ)く。時に王后王子等、諸臣及与(と)、深く愁毒を懷(いだ)き、共に相(あい)発願すらく、「仰ぎ三宝に依り、當(まさ)に釈像の、尺寸王身なるを造るべし。此の願力を蒙り、病を転じて寿を延べ世間安住せむ。若し是れ定業じょうごう)にして以て世に背かば、往き浄土登り、早(すみやか)に妙果に昇らんことを」と。二月廿一日癸酉王后即世す。翌日法皇登遐(とうか)す。癸未年〔623年三月中、願い如く敬(つつし)みて釈迦尊像并(あわ)せて侠侍(きょうじ)、及び荘厳具造り竟(おわ)る。斯の微福に乗じ、道を信ず知識現在安隠にして、生を出で死に入り、三主〔間人皇女太子、膳妃〕に随(したが)い奉り三宝紹隆し、遂に彼岸を共にし、六道普遍せる、法界含識、苦縁を脱する得て同じく菩提に趣(おもむ)かむことを。司馬鞍首(しばのくらつくりのおびと)止利仏師をして造らしむ。 (〔 〕内は補注。) 読み下しについては、以下のようにさまざまな異説がある。 「十二月、鬼前太妃崩」の「鬼」を日付の意に解釈し、「十二月鬼、前太妃崩」とする。 「弗悆」を次の「干食」につなげて、「食に弗悆(こころよ)からず。王后、」とする。 「當に釈像の、尺寸王身なるを造るべし。此の願力を蒙り、」を「釈像を造りて、尺寸の王身、此の願力を蒙り、」とする。 「遂に彼岸を共にし」を「共に彼岸を遂(と)げ」とする。 以上のように、一部字句読み方解釈異論もあるが、銘文の大意以下のとおりである。 西暦621年にあたる年の12月聖徳太子の生母穴穂部間人皇女死去翌年622年正月22日には太子も病に臥し、膳妃も看病疲れ並んで床に着いた。これを憂い王后王子等と諸臣とは、太子等身大釈迦像を造ることを発願太子の病が治り長生きすることを望み、もしこれが運命であって太子この世での寿命尽きるのであれば極楽浄土往生されることを望んだ。しかし、2月21日に膳妃が、翌日太子相次いで亡くなった所願のとおり623年3月釈迦像、脇侍像と荘厳具光背台座)を造り終えた作者司馬鞍首止利仏師である。 この銘文については、「法興」という私年号使用や、「法皇」「仏師」という語が推古朝にあったとは考えられない等の観点から、疑わしいとする説もある。福山敏男1935年論文で、釈迦三尊と東の間の薬師如来光背はいずれ疑わしく推古朝の作ではないとした藪田嘉一郎1950年論文釈迦三尊光背銘は疑わしいとした。しかし、福山1961年論文では釈迦三尊光背銘を指して飛鳥金石文首位にあるもの」と評しており、自説実質的に撤回している。福山推古朝には「天皇」の語はなく、したがって法皇」という用語もなかったとするが、これについては、栗原朋信(1965年論文)が推古朝天皇号がなかったとは証明できないとして批判した東野治之は、木簡書かれ文字で「皇」が「王」と同じ意味で使われる例の多いことから、「法皇表記には問題がないとしている。 藪田嘉一郎は、「仏師」の語が使用されるのは天平以後であることから(「仏師」の初見天平6年734年正倉院文書)、釈迦三尊光背銘は疑わしいとし、笠井昌昭同様の説を述べている。これについて大橋一章は、そもそも正倉院文書以前文字資料乏しいので、推古朝に「仏師」の語がなかったとは証明できず、むしろ釈迦三尊光背銘が「仏師」の初見であろうとして反論した

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銘文

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長谷寺銅板法華説相図」の記事における「銘文」の解説

文字面大きさは縦14.2cm、横42.4cm。その中に27行、各行12字(19行目のみ7字)が配置され当初、全319字あったとされている。が、銘文の右側斜めに欠損し50字を失っている。ただし、銘文の述作にあたって用いられ典籍として次の2つ史料分かっており、その内15字を補うことができている。 玄奘三蔵訳『甚希有経』(じんけうきょう649年道宣撰『広弘明集』巻16所収の「瑞石像銘」と「光宅寺刹下銘」

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銘文

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小臣艅犀尊」の記事における「銘文」の解説

小臣艅犀尊は、重要な歴史価値具えている。腹中の鋳銘文4行総27字、 丁子(巳)、王𥃻(省)夔(京)、王易(賜)小臣艅夔貝、隹(維)王來正(征)人(夷)方、隹(維)王十祀又五、(肜)日。“丁巳、王 夔京を省し、王 小臣艅に夔貝を賜う、維れ王の来たり夷方を征する、維れ王の十祀又五、肜の日。” 丁子(巳):丁巳の日。殷人は干支紀日で、商代干支の中、“巳”は“”と記され、“子”は“”と記されていた。 王𥃻(省)夔(京):商王が夔京を巡視した。“夔京”は地名である。 王易(賜)小臣艅夔貝:商王が夔の地で獲得した戦利品の貝幣を小臣艅に賞賜した。“易”は賜に通じる、賞賜。“小臣”は官職名商朝建国より滅亡までずっとこの小臣という官職設けていたものの、責任を負う業務それぞれ異なった。“夔貝”、金文では、貝を賜うのに往々にして地名冠しており、賜った貝幣の戦利獲得の場所を示す。 隹(維)王来正(征)人(夷)方:商王が夷方を征討しに来た。“維”は語気詞。“正”は征に通じる、征討。“人方”は即ち夷方(中国語版)、東夷人の一支派現在の山東省一帯分布していた。 隹(維)王十祀又五:商王が即位して15年目。周代の“王十又五祀”に異なり商代全て“王十祀又五”と記する形式であり、他にも『版方鼎』の“唯王廿祀又二”もそうである。 (肜)日:肜祭の日。 「 丁巳の日、商王が夔京を巡視し、商王が夔の地で獲得した戦利品の貝幣を小臣艅に賞賜した。商王が夷方を征討しに来たときのことであり、商王が即位して15年目、肜祭の日である。 」 この記載中の夷方の征伐については、同時期の甲骨文その他の青銅器の銘文と相互に裏付けることができる。この器の銘文中の“王”は商代晩期君主帝乙あるいは帝辛であり、それはこの器の鋳造帝乙あるいは帝辛時期であるはずである。 日本中国史学者貝塚茂樹も殷末の東方経略に関する重要な記述のあるこの銘文に注目し、後に『古代帝国』(みすず書房)に結実する研究一つとなる論文「殷末周初の東方經略に就いて」(1940年)を執筆した

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銘文

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/10 09:07 UTC 版)

小臣ヨ犀尊」の記事における「銘文」の解説

小臣艅犀尊は、重要な歴史価値具えている。腹中の鋳銘文4行総27字、 丁子(巳)、王𥃻(省)夔(京)、王易(賜)小臣艅夔貝、隹(維)王來正(征)人(夷)方、隹(維)王十祀又五、(肜)日。“丁巳、王 夔京を省し、王 小臣艅に夔貝を賜う、維れ王の来たり夷方を征する、維れ王の十祀又五、肜の日。” 丁子(巳):丁巳の日。殷人は干支紀日で、商代干支の中、“巳”は“”と記され、“子”は“”と記されていた。 王𥃻(省)夔(京):商王が夔京を巡視した。“夔京”は地名である。 王易(賜)小臣艅夔貝:商王が夔の地で獲得した戦利品の貝幣を小臣艅に賞賜した。“易”は賜に通じる、賞賜。“小臣”は官職名商朝建国より滅亡までずっとこの小臣という官職設けていたものの、責任を負う業務それぞれ異なった。“夔貝”、金文では、貝を賜うのに往々にして地名冠しており、賜った貝幣の戦利獲得の場所を示す。 隹(維)王来正(征)人(夷)方:商王が夷方を征討しに来た。“維”は語気詞。“正”は征に通じる、征討。“人方”は即ち夷方(中国語版)、東夷人の一支派現在の山東省一帯分布していた。 隹(維)王十祀又五:商王が即位して15年目。周代の“王十又五祀”に異なり商代全て“王十祀又五”と記する形式であり、他にも『版方鼎』の“唯王廿祀又二”もそうである。 (肜)日:肜祭の日。 「 丁巳の日、商王が夔京を巡視し、商王が夔の地で獲得した戦利品の貝幣を小臣艅に賞賜した。商王が夷方を征討しに来たときのことであり、商王が即位して15年目、肜祭の日である。 」 この記載中の夷方の征伐については、同時期の甲骨文その他の青銅器の銘文と相互に裏付けることができる。この器の銘文中の“王”は商代晩期君主帝乙あるいは帝辛であり、それはこの器の鋳造帝乙あるいは帝辛時期であるはずである。 日本中国史学者貝塚茂樹も殷末の東方経略に関する重要な記述のあるこの銘文に注目し、後に『古代帝国』(みすず書房)に結実する研究一つとなる論文「殷末周初の東方經略に就いて」(1940年)を執筆した

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銘文

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ブグト碑文」の記事における「銘文」の解説

ブグト碑文四面には銘文が刻まれており、そのうち3面ソグド文字ソグド語で、残る一面ブラーフミー文字サンスクリット語書かれている。これによって当時突厥可汗国公用語ソグド語であり、テュルク語公用語でなかったことが判明した初めモンゴル学者によってこのソグド語銘文はウイグル文字テュルク語とされたが(1968年)、のちにソ連のクリャシュトルヌィ、リフシツらによってソグド文字ソグド語であることが明らかにされた(1971年)。

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