わのなのこくおう‐の‐いん〔わのなのコクワウ‐〕【倭奴国王印】
読み方:わのなのこくおうのいん
漢委奴国王印
(倭奴国王印 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/22 06:53 UTC 版)
漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん、旧字体:漢󠄁委奴國王印)は、日本で出土した純金製の王印(金印)である。読みは印文「漢委奴國王」の解釈に依るため、他の説もある(印文と解釈を参照)。1931年(昭和6年)12月14日に国宝保存法に基づく(旧)国宝、1954年(昭和29年)3月20日に文化財保護法に基づく国宝に指定されている[1]。
注釈
- ^ 2007 ccメートルグラスに金印を入れ、増水量を三度測った平均値。
- ^ 金と銀だけなら22.5K。
- ^ 三雲⇒井原鑓溝⇒平原遺跡など大量の鏡を伴う紀元前1世紀頃 - 後3世紀頃にかけての王墓が伊都国(糸島市付近)に集中していること『魏志倭人伝』の記述では、「伊都国」には「世有王 皆統属女王国 郡使往来常所駐」と歴代複数の王の存在が明記されているのに対し、「奴国」には王の存在を示す記事、あるいは「かつて奴国に王あり」といった記載がなく、中国は「伊都国王」を承認の王としているとする[21]
- ^ 二松學舍大学名誉教授・大谷光男は、『後漢書』から皇帝が周辺の蛮夷に授けた金印紫綬の史料7例を再検討し「金印紫綬は、一国(国家)に授け、国内の一部族(国)に授けられることはなかった。したがって、金印『漢委奴国王』の読み方で、『カンのワのナのコクオウ』と訓む三宅説は退けられることになる」[22]としているが、そもそも一国と一部族(民族)の定義や概念そのものを問うている論争なので、「倭」と「奴」と「委奴」がそれぞれ一体どのような範囲の何を示すものなのかが定まらない以上、それぞれの説を退ける退けないの結論はいまだ出ていない
- ^ 同書には「親魏倭王」の印譜が収められてるが、20世紀の出土品などと比べると「王」字が時代変遷に合致せず、真印ではなく偽作の模刻陰影だと考えられる[36]。
出典
- ^ 金印〈印文「漢委奴國王」/〉、文化庁国指定文化財等データベース
- ^ 『赤煉瓦の記――福岡市立歴史資料館の歩み――』福岡市教育委員会発行 P22
- ^ 『赤煉瓦の記――福岡市立歴史資料館の歩み――』福岡市教育委員会発行 P25
- ^ a b 金印-文化財情報検索-福岡市.
- ^ a b 日本放送協会. “金印は本物? 真偽めぐる論争過熱|NHK”. NHK NEWS WEB. 2023年9月4日閲覧。
- ^ “金印レプリカ”. (公財)福岡市文化芸術振興財団オンラインショップ. 2023年9月4日閲覧。
- ^ 岡崎敬「「漢委奴国王」金印の測定」『魏志倭人伝の考古学 九州編』所収
- ^ 「北方」とあるが、叶ノ浜は志賀島の南西の海岸。
- ^ “金印公園 | 文化財情報検索”. 福岡市の文化財. 2023年9月4日閲覧。
- ^ 入田整三「国宝漢委奴國王金印の寸法と量目」『考古学雑誌』、1933年、岡崎敬『魏志倭人伝の考古学 九州編』所収
- ^ 岡部長章「奴国王金印問題評論」『鈴木俊教授還暦記念東洋史論叢』、1964年、岡崎敬『魏志倭人伝の考古学 九州編』所収
- ^ a b c d 高倉 (2007)。
- ^ 亀井南冥『金印辨』1784年。
- ^ 竹田定良『金印議』1784年。
- ^ 三宅米吉「漢委奴国王印考」『史学雑誌』、1892年(明治25年)。
- ^ 藤貞幹『藤貞幹考』1784年。
- ^ 上田秋成『漢委奴国王金印之考』1785年。
- ^ 青柳種信『後漢金印略考』1812年。
- ^ 福岡藩『黒田新続家譜』1844年。
- ^ 久米雅雄「金印奴国説への反論」『藤澤一夫先生古稀記念古文化論叢』、藤澤一夫先生古稀記念論集刊行会、1983年、大谷光男編著『金印研究論文集成』、新人物往来社、1994年
- ^ 久米雅雄「晋率善羌中郎将銀印及周辺歴史之研究」『国際印学研討会論文集』中国・西泠印社、2003年
- ^ 「金印蛇鈕『漢委奴国王』に関する管見」『東洋研究』第179号、大東文化大学東洋研究所、2011年
- ^ 王育徳「中国の方言」方言史『中国文化叢書1 言語』 大修館書店、1967年
- ^ 坂井健一『魏晋南北朝字音研究―経典釈文所引音義攷』 汲古書院、1975年
- ^ 久米雅雄『日本印章史の研究』 雄山閣、2004年
- ^ 久米雅雄「国宝金印『漢委奴国王』の読み方と志賀島発見の謎」『立命館大学考古学論集 IV』 立命館大学、2005年、55-68頁
- ^ 久米雅雄「国宝金印の読み方」『月刊書道界』2009年8月号、藤樹社
- ^ 西嶋 1994, p. 87.
- ^ 西嶋 1994, p. 88.
- ^ 廣陵王璽 ブリタニカ国際大百科事典
- ^ 西嶋 1994, p. 52 - 54.
- ^ 西村昌也「ベトナム形成史における"南"からの視点 考古学・古代学からみた中部ベトナム(チャンパ)と北部南域(タインホア・ゲアン地方)の役割」『周縁の文化交渉学シリーズ6 『周縁と中心の概念で読み解く東アジアの「越・韓・琉」―歴史学・考古学研究からの視座―』』、関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS)、2012年3月1日、105-141頁、NAID 120005686780。
- ^ 三浦佑之『金印偽造事件―「漢委奴國王」のまぼろし』 幻冬舎新書、2006年 ISBN 4-344-98014-X
- ^ 志賀島「金印」に偽造説再燃 地元の反応は複雑、asahi.com、2007年3月3日
- ^ 第267回活動記録、邪馬台国の会、2008年3月30日
- ^ 久米雅雄 「大阪府立近つ飛鳥博物館所蔵駝鈕銀印『晋善羌中郎将』印とその史的周辺」『大阪府立近つ飛鳥博物館 館報7』2002年8月30日
- ^ 安本美典 「奇怪な印譜『宜和集古印史』 「親魏倭王」「漢委奴国王」をめぐる真贋論争」『季刊 邪馬台国』120号、2014年1月、pp.27-57。
- ^ 中村直勝(1890年 - 1976年)は中世荘園史、南北朝史、古文書学の研究で知られる日本史学者。
- ^ 宮崎市定『謎の七支刀―五世紀の東アジアと日本』 中公文庫、1992年、18頁 ISBN 4-12-201869-2
- ^ 鈴木勉『「漢委奴國王」金印・誕生時空論』 雄山閣、2010年、ISBN 978-4-639-02117-9
- ^ 【衝撃の事実、発覚】(2020年5月10日)2021年1月9日閲覧
- 倭奴国王印のページへのリンク