木簡 (もっかん)
木簡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/30 23:35 UTC 版)
木簡(もっかん)とは、主に古代の東アジアで墨で文字を書くために使われた、短冊状の細長い木の板である。紙の普及により廃れたが、完全に存在を消したわけではなく、荷札などには長く用いられた。竹片に書かれた竹簡と木簡を合わせて、簡牘と呼ぶ。
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- ^ 鬼頭 1996, p. 10.
- ^ 奈良文化財研究所 2020, p. 30.
- ^ 奈良文化財研究所 2020, p. 32.
- ^ 栄原永遠男「三重・柚井遺跡」、同「秋田・払田柵跡」。払田柵跡では1970年にも1点が見つかった。鬼頭清明「木簡と古代史」には払田柵跡で1930年に3点見つかったとある。和田萃「木簡は語る」には1980年代になって柚井遺跡から1点、払田柵で2点が戦前に発見されていたことが1980年代になって判明したとあるが、採らない。
- ^ 考古学者田中琢は小雪がちらつくなか平城宮跡で8世紀のゴミため用の穴を掘って、出土品をバケツのなかで洗っていた時に泥水の中から木片に書いた文字が浮かんだのを見つけた(田中 & 佐原 1993, p. 54)。
- ^ 和田萃「木簡は語る」4頁。長屋王家木簡に限ると約3万5千点である(同3頁)。
- ^ 和田 2010, p. 2.
- ^ 出土地は秋田県から宮崎県におよんでいる。前掲田中(1995) 54ページ
- ^ 市 2012, p. 4.
- ^ 市 2012, pp. 4, 8.
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- ^ 市 2012, p. 9.
- ^ 池田 1996, p. 28.
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- ^ 山本 2013.
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- ^ 鐘江 1998, pp. 289–291.
- ^ 鐘江 1998, pp. 290–293.
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- ^ 奈良文化財研究所 2006, pp. 5, 44.
- ^ a b 奈良文化財研究所 2006, p. 5.
- ^ 奈良文化財研究所 2020, p. 20.
- ^ 山本崇「近年の木簡調査研究動向」。
- ^ 田中 & 佐原 1993, p. 54.
- ^ 市 2012, p. 46.
- ^ 中世木簡の中でも質・料と共に豊富な出土事例として、室町時代の草戸千軒町遺跡(広島県)があり、約4千点にもなり、正式報告書『草戸千軒 木簡一』(1982年)も発刊されている。
- ^ 徳島県徳島市の観音寺遺跡で、昭和30年代に徳島市立国府小学校で使っていたプールの命札が出土した。(和田 2010, pp. 14–15、市 2012, pp. 4)
- ^ a b 橋本 2013, p. 22.
- ^ 市 2012, pp. 40–45.
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- ^ a b 大庭 2020, p. 21.
木簡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/01 14:33 UTC 版)
木簡は61点が確認されている。 1号木簡 - 題箋軸と称する形態のもので、「有宗」「案文」とある。「有宗」は人名。「案文」は文書の控えの意である。 2号木簡 - 「田人廿九人 九人 女二十人」「又卅九人 女卅一人 男八人」とある。「田人」は農民の意で、多数の農民を徴発して農業を営んでいたことがわかる。墨書の上半では29人のうち20人、下半では39人のうち31人が女性であったことがわかる。 3号木簡 - 「二百五十八人 丁二百(以下欠) 小廿人」とある。「丁」「小」は年齢区分を意味し「小」は4歳から16歳を指す。 12号木簡 - 「狄帯建一斛」とある。「斛」は「石(こく)」に同じ。「狄」は蝦夷の意だが、「狄帯建」は蝦夷からの貢納物の意ではなく、稲の品種名と推定されている。 13号木簡 - 「(上部欠)船津運十人」とある。この木簡は東船着場跡から出土したもので、「船津」は船着場、「運」は船荷の揚げ降ろしを担った労働者を指す。 以上の木簡から、屋敷の主が多数の労働者を使い、大規模農業や船による交易を営んでいたことがわかる。
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木簡(もっかん)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 17:24 UTC 版)
「彩雲国物語の用語」の記事における「木簡(もっかん)」の解説
手形や受験票など身分を証明するもの。通行手形の裏には身元を証明するものが記載される。地元の役所が事務的に出す一筆では関塞通過にそれなりに時間がかかるが、直紋など信用性の高いものなら専用の窓口で迅速に対応される。
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木簡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/16 08:42 UTC 版)
荷物とともに、権利者の名前や中身を記録した木簡も多数発見された。荷札の木簡で最多のものは「東福寺公用(公物)」と、「綱司私」の木簡である。東福寺は日本の仏教寺院であり、東福寺がこの船を送ったことを示している。綱司は船長(綱首)のことであり、東福寺から輸送を請負った船長が私的な貿易品も積んでいたことを示している。この他に、博多の承天寺の釣寂庵や福岡の筥崎宮などの寺社や、船員や出資者と思われる名前の木簡もある。東福寺は1319年(元応元年)に火災にあっており、筥崎宮も1310年(延慶3年)に火災にあっていることから、新安沈船は復興資金を調達する目的があったと推測される。
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木簡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 07:39 UTC 版)
多くの木簡も出土したが、中には山田寺創建以前の7世紀前半と思われるものが出土し、石川麻呂あるいはその一族の屋敷跡に山田寺が建てられた事を示していると考えられる。また、宝蔵付近では経典の賃借記録を示す木簡が出土し、天平11年(739年)に石川年足が納めた大般若経にまつわるものと考えられる。
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木簡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/21 15:41 UTC 版)
破斯清道の名を記した木簡は、1966年(昭和41年)に平城宮東南隅の「式部省関連地域」と呼ばれる遺構地域(奈良県奈良市佐紀町)から出土した木簡のひとつである。
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