隅田八幡神社人物画像鏡とは? わかりやすく解説

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隅田八幡神社人物画像鏡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/21 06:19 UTC 版)

隅田八幡神社人物画像鏡(すだはちまんじんじゃじんぶつがぞうきょう)は、和歌山県橋本市隅田八幡神社が所蔵する、5世紀から6世紀頃製作の銅鏡。鏡背の48字の金石文は、日本古代史、考古学、日本語学における貴重な資料である。国宝に指定されている[1]




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隅田八幡神社人物画像鏡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 20:46 UTC 版)

継体天皇」の記事における「隅田八幡神社人物画像鏡」の解説

隅田八幡神社所蔵国宝人物画像鏡」の銘文に『癸未八月日十大王年男弟王在意沙加宮時斯麻念長寿開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟』「癸未の年八月十日、男弟王が意沙加の宮にいます時、斯麻が長寿念じて河内直穢人今州利二人らを遣わして白上二百旱を取ってこの鏡を作る」とある(判読解釈には諸説あり)。 隅田八幡神社859年設立であるが、人物画像鏡出土場所、出土年代明らかにされておらず、「癸未」については443年説503年説など論争がある。「癸未」を503年、「男弟王」を(おおと)=男大迹王つまり継体天皇解釈すると、継体癸未武烈天皇5年8月10日503年9月18日)の時点では、大和の意沙加宮=忍坂宮にいたとする仮説成り立つ。もしこの説が正しければ継体畿内勢力抵抗遭って長期渡って奈良盆地入れなかったとする説が崩れる。503年説正しければ、鏡を作らせて長寿祈った「斯麻」は、当時倭国同盟関係にあった百済武寧王(別名斯麻王)という可能性出てくる。記紀には大王即位57歳まで、男大迹王何をしていたのか?記録にはない。即位前の男大迹王朝鮮半島百済渡り武寧王会っていたという説もある。 ただし「男弟」の読み厳密には「ヲオト」であり、継体の「ヲホド」とは微妙に異なる(詳細ハ行転呼音唇音退化参照)。このことから、「男弟王」を「大王の弟の王族」と解釈し、妹の忍坂大中姫允恭天皇入内した意富富杼王であると考える説もある。その場合「癸未」は443年となり、鏡を作らせた「斯麻」を武寧王ではなく三嶋県主考える説もある。継体は三嶋の対岸位置する樟葉宮即位していることから、曽祖父である意富富杼王とも深い親交があったとしても不自然ではない。しかし、この説は斯麻と三嶋県主の関係が明らかになっておらず、少数説である。

※この「隅田八幡神社人物画像鏡」の解説は、「継体天皇」の解説の一部です。
「隅田八幡神社人物画像鏡」を含む「継体天皇」の記事については、「継体天皇」の概要を参照ください。

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