隅田八幡神社人物画像鏡
隅田八幡神社人物画像鏡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 20:46 UTC 版)
隅田八幡神社所蔵国宝「人物画像鏡」の銘文に『癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟』「癸未の年八月十日、男弟王が意柴沙加の宮にいます時、斯麻が長寿を念じて河内直、穢人今州利の二人らを遣わして白上銅二百旱を取ってこの鏡を作る」とある(判読・解釈には諸説あり)。 隅田八幡神社は859年の設立であるが、人物画像鏡の出土場所、出土年代は明らかにされておらず、「癸未」については443年説と503年説など論争がある。「癸未」を503年、「男弟王」を(おおと)=男大迹王つまり継体天皇と解釈すると、継体は癸未=武烈天皇5年8月10日(503年9月18日)の時点では、大和の意柴沙加宮=忍坂宮にいたとする仮説が成り立つ。もしこの説が正しければ、継体が畿内勢力の抵抗に遭って長期に渡って奈良盆地へ入れなかったとする説が崩れる。503年説が正しければ、鏡を作らせて長寿を祈った「斯麻」は、当時倭国と同盟関係にあった百済の武寧王(別名斯麻王)という可能性も出てくる。記紀には大王即位の57歳まで、男大迹王が何をしていたのか?記録にはない。即位前の男大迹王が朝鮮半島の百済に渡り、武寧王と会っていたという説もある。 ただし「男弟」の読みは厳密には「ヲオト」であり、継体の「ヲホド」とは微妙に異なる(詳細はハ行転呼音、唇音退化を参照)。このことから、「男弟王」を「大王の弟の王族」と解釈し、妹の忍坂大中姫が允恭天皇に入内した意富富杼王であると考える説もある。その場合「癸未」は443年となり、鏡を作らせた「斯麻」を武寧王ではなく三嶋県主と考える説もある。継体は三嶋の対岸に位置する樟葉宮で即位していることから、曽祖父である意富富杼王とも深い親交があったとしても不自然ではない。しかし、この説は斯麻と三嶋県主の関係が明らかになっておらず、少数説である。
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