仏像とは? わかりやすく解説

ぶつ‐ぞう〔‐ザウ〕【仏像】

読み方:ぶつぞう

礼拝の対象として製作された仏の彫像画像多く彫像をいう。釈迦(しゃか)仏以外の諸尊仏の像もさす。


仏像

読み方:ブツゾウ(butsuzou)

仏教礼拝の対象として造られた仏の絵画・彫刻など。


仏像

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/26 13:20 UTC 版)

仏像(ぶつぞう)とは、仏教信仰対象であるの姿を表現した


  1. ^ ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』中央公論社 1994年 p.95
  2. ^ a b c d 高崎 & 木村 1995, p. 38.
  3. ^ a b c d 高崎 & 木村 1995, p. 39.
  4. ^ 高田修『仏像の起源』(岩波書店、初版1967年、復刊1994年ほか)『仏像の誕生』(岩波新書 1987年)、宮治昭『ガンダーラ仏の不思議』(講談社選書メチエ、1996年)
  5. ^ 岩崎 2001, pp. 23–26.
  6. ^ 岩崎 2001, p. 133.
  7. ^ 岩崎 2001, pp. 75–95.
  8. ^ 外部リンクの「明王」解説[出典無効]
  9. ^ 岩崎 2001, pp. 146–154.
  10. ^ 岩崎 2001, pp. 196–201.
  11. ^ 岩崎 2001, pp. 190–193.
  12. ^ 岩崎 2001, pp. 166–173.
  13. ^ 岩崎 2001, pp. 175–182.
  14. ^ 岩崎 2001, pp. 182–186.
  15. ^ 仏像の用材論については、金子啓明 岩佐光晴 藤井智之 能城修一 安倍久 『成城学園創立100周年記念シンポジウム報告書 仏像の樹種から考える 古代一木彫像の謎』 東京美術、2015年12月25日、ISBN 978-4-8087-1041-5、を参照。[要ページ番号]
  16. ^ 「一木造」から「寄木造」の項目は、西川杏太郎 『日本の美術202 一木造と寄木造』 至文堂、1983年を主に参照した。[要文献特定詳細情報]



仏像

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高家寺」の記事における「仏像」解説

昭和31年1956年)、篤信の手により銀杏弘法大師平成13年2001年)つるぎ大師奉納(共に90歳を超えられる老夫婦より)。 平成14年2002年般若秘鍵大師並びに三十三観音奉納平成17年2005年浪切不動明王御分身が奉納平成22年2010年高野山真言宗管長金剛峯寺座主真言長者松長有慶大僧正御来山。

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一字金輪仏頂」の記事における「仏像」解説

一字金輪仏頂尊は、仏画表されることが多いが、仏像に現されるのは稀である。一例中尊寺安置されている一字金輪仏頂尊像木造一字金輪坐像重要文化財秘仏)であり、奥州藤原氏三代秀衡の念持仏伝えられている。

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西林寺 (西脇市)」の記事における「仏像」解説

十一面観世音菩薩本尊) - 県指定重要文化財平安時代中期作。四臂(四本の手)を持つ。1967年3月31日指定不動明王(脇仏) 毘沙門天(脇仏)

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観世音寺」の記事における「仏像」解説

観世音寺金堂講堂には、かつては多くの仏像が安置されていたが、1959年境内鉄筋コンクリート造宝蔵完成してからは、大部分の仏像がそちらへ移された。当寺所有の仏像で国の重要文化財指定されているものは15件(18躯)を数えるが、このうち聖観音立像講堂安置阿弥陀如来立像九州国立博物館寄託されており、残り13件(16躯)は宝蔵移されている。これらの仏像はいずれ平安時代または鎌倉時代作品であり、創建期(奈良時代)にさかのぼる仏像で完存するものはない。奈良時代の仏像関連遺品としては、かつて講堂安置されていた塑造不空羂索観音立像(ふくうけんさくかんのんりゅうぞう鎌倉時代倒壊)の心木面相部の断片境内から出土した塑像断片などが残るのみである。観世音寺では康平7年1064年)と康治2年1143年)に大火があり、現存する仏像の大部分はそれ以後平安時代末期から鎌倉時代にかけての作である。一部10世紀さかのぼとみられる像もあるが(兜跋毘沙門天立像阿弥陀如来立像)これらの像の江戸時代以前伝来は明らかではない。 当寺の仏像の特色としては、地方色の薄い、都風作風の像が多いこと、クスノキ材を用いる像が多いこと(平安時代以降日本木彫仏は一般にヒノキ材のものが多い)に加え丈六像が5躯あることが特筆される丈六像とは、経典釈尊身長一丈六尺とあることから、この高さを基準造られた仏像のことである(立像場合像高約4.8メートル坐像場合半分の約2.4メートル)。当寺の仏像では聖観音坐像しょうかんのんざぞう)、阿弥陀如来坐像不空羂索観音立像十一面観音立像馬頭観音立像丈六像である。このうち聖観音坐像旧講堂本尊)は治暦2年1066年)の講堂再興時の作。十一面観音立像その3年後の延久元年1069年)の作である。阿弥陀如来坐像(旧金堂本尊)と馬頭観音立像はやや下って12世紀前半の作。不空羂索観音立像は、奈良時代から安置されていた塑造当初像が承久3年1221年)に転倒損壊した後、その再興像として翌貞応元年1222年)に造立されたものである木造聖観音坐像 もと講堂本尊重要文化財指定名称は「木造観音菩薩坐像」。クスノキ材の寄木造像高は3.21メートル。像内に「藤原重友、重□(近)、紀為延」等の結縁交名けちえんきょうみょう結縁者の列記)の記がある。『扶桑略記』の治暦2年1066年11月28日観世音寺再興供養の条に「金色丈六観世音像」とあるのが本像にあたり同年頃の造立とみられる木造十一面観音立像 もと講堂安置ヒノキ材の寄木造像高は4.98メートル。像内に「延久元年七月、□□師賀斐講師暹明」等の造像結縁交名の記があり、賀斐(甲斐講師暹明が延久元年1069年)に造立したことがわかる。 木造聖観音立像と金堂安置、現・講堂安置重要文化財指定名称は「木造観音菩薩立像」。クスノキ材の寄木造像高は1.68メートル。像内に「大仏師良俊」等の造像結縁交名の記がある。11世紀の作。肥前杵島(きしま)沖の有明海から引き上げられたとの伝説から「杵島観音」と通称される。 木造馬頭観音立像 もと講堂安置ヒノキ材の寄木造像高は5.03メートル四面八臂(前後左右に顔があり、8本の腕を有する)で忿怒相をあらわす。像内に「大仏師真快、明春上座威儀師暹増」等の造像結縁交名の記があり、作者名(真快、明春等)は判明するが、造像年次記載はない。寺伝では大治年中(1126 - 1131年)の作という。康治2年1143年)の「筑前国観世音寺年料相折帳」という文書に「新造馬頭観音」とあるのが本像にあたりその頃に「新造」されたものとみられるまた、内の結縁交名中の暹増という僧の活動時期とも併せ、本像は寺伝どおり12世紀前半作品判断される木造阿弥陀如来坐像と金堂本尊。定印じょういん)を結ぶ(膝前で両手組み、各手の第1・2指で輪をつくり、他の3指を伸ばす)。クスノキ材の寄木造像高2.2メートル前出馬頭観音像同様、康治2年1143年)の「筑前国観世音寺年料相折帳」に「新造阿弥陀」とあるのが本像にあたりその頃作品とみられる木造不空羂索観音立像 もと講堂安置クスノキ材の寄木造像高は5.17メートル。三眼六臂、頭上11小面有する。像内に「貞応元年八月十四日行事良慶大仏師僧琳厳」の造立銘があり、造立年(貞応元年 = 1222年)と作者(琳厳)が明らかである。前述のとおり、奈良時代造られ当初像(塑像)が転倒損壊した後に再興された像であり、像内には当初像の心木面相断片納入されていた。本像は、同じ宝蔵にある平安時代末期作の馬頭観音像及び十一面観音像より時代下り作風異なっている。本像の引き締まった面貌脇腹絞り抑揚のある体形、腰から下の衣文左右対称でなく変化付けている点などは鎌倉時代仏像の特色である。 木造十一面観音立像 もと講堂安置ヒノキ材の寄木造像高は3.03メートル。像内に「仁治三年九月廿七日」の造立1巻納入されていた(仁治3年1242年)。

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横蔵寺 (加古川市)」の記事における「仏像」解説

釈迦如来像 十一面千手千眼観音像(この像は伝承では運慶湛慶合作とするが史実ではない。) 子安地蔵菩薩像 阿弥陀如来坐像 毘沙門天増長天像 法道仙人像 持国天弁財天イボ取り地蔵石像

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妙光寺 (青梅市)」の記事における「仏像」解説

日蓮上人青梅市内在住で木彫家の油井外熊が三年をかけて制作したという。

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宝鏡寺薬師堂」の記事における「仏像」解説

堂内には木造薬師如来日光菩薩月光菩薩十二神将等の多数の仏像が安置されている。

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東大寺法華堂」の記事における「仏像」解説

堂内には21世紀初頭まで多数の仏像が安置されていたが、2011年東大寺ミュージアム開館際し一部の仏像は同ミュージアム移動されている。同ミュージアム開館以前法華堂内の仏像の配置次のとおりであった。すなわち、内陣中央の八角二重の仏壇上には中央不空羂索観音像(乾漆)、その左右に日光菩薩・月光菩薩像(塑造)が立つ。八角仏壇左右に梵天帝釈天像(乾漆)が立ち、この両像の手前、やや本尊寄り位置には一対金剛力士像乾漆)が、須弥壇四隅には四天王像乾漆)が立つ。このほか、本尊後方左右に吉祥天弁才天像(塑造)を安置し梵天の手前に不動明王二童子像(木造)、帝釈天の手前に地蔵菩薩坐像木造)がある。さらに本尊背後置かれ厨子には執金剛神像(塑造)を北向き安置する。これら18体の仏像のうち、木彫地蔵菩薩坐像不動明王二童子像は中世作品だが、残り14体は奈良時代制作である。これら14体のうち、本尊含め比較像高大きい9体は麻布を漆で貼り合わせ造形した脱活乾漆造残り5体は塑造である。執金剛神像は秘仏で、開扉毎年12月16日開山良弁忌日)のみである。 他に類例のない尊像構成のため、その典拠や、いずれの像が法華堂当初像であるかについては諸説ある。奈良時代の像のうち、吉祥天弁才天像が他の堂からの客仏であることは定説となっており、その他の像については、材質像高違いから、本尊を含む乾漆像9体が法華堂本来の像で、塑造の伝日光・月光菩薩像は他の堂から移されものとする説と、逆に日光・月光菩薩像の方が当初安置仏だとする説があった。本尊背後執金剛神像については、『不空羂索神変真言経』の所説に基づき本尊セット造立されたとする説と、他の堂から移されたとする説があった。1996年に、本尊が立つ八角二重の壇を精査したところ、二重壇の下段八角形台座置かれていた痕跡が6か所確認され、これらは伝日光・月光菩薩像と現在、東大寺戒壇院にある四天王像塑造)の計6体の台座跡とみなされている。以上のことから、法華堂当初安置仏は不空羂索観音像(乾漆)、日光菩薩・月光菩薩像(本来の像名は「梵天帝釈天」か)、四天王像(現・戒壇院所在)、執金剛神であった考えられる至っている。 2011年以降日光菩薩像、月光菩薩像、吉祥天像弁才天像、不動明王二童子像、地蔵菩薩像法華堂から免震装置備えた東大寺ミュージアム移され堂内安置される仏像は10となっている(不空羂索観音像、梵天帝釈天像、金剛力士像一対)、四天王像執金剛神像)。堂内須弥壇修理のため、法華堂内部2011年8月から非公開となり、本尊不空羂索観音像も一時的に東大寺ミュージアム移されていたが、2013年5月18日から公開再開された。

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地安寺」の記事における「仏像」解説

本堂安置される本尊は、聖観世音菩薩坐像。脇仏に多聞天不動明王並び天台宗三尊様式見られる聖観音菩薩定朝、脇仏は運慶作と伝わる。

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成仏寺 (横浜市)」の記事における「仏像」解説

本尊阿弥陀三尊像 - 阿弥陀如来坐像像高76材質銀杏寛政3年1791年4月8日の銘がある。脇侍観世音菩薩立像勢至菩薩立像はともに姫小松で、第二次世界大戦後施入された。 善導大師立像 円光大師法然立像

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鎧地蔵堂」の記事における「仏像」解説

堂内須弥壇中央厨子安置され厨子内奥本尊鎧地蔵石像置かれている。本尊前立として、木彫鎧地蔵像も安置されている。左脇壇に2体の阿弥陀如来立像、右脇壇には弘法大師坐像とかなり大きな阿弥陀如来坐像置かれている。

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仏国寺」の記事における「仏像」解説

金銅毘盧遮那仏座像 国宝26号。新羅時代の作とされる金銅製の毘盧遮那仏金銅阿弥陀如来座像 国宝27号。新羅時代の作とされる金銅製の阿弥陀如来像

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ワット・サパーンヒン」の記事における「仏像」解説

寺院仏堂モンドップ、mondop)の跡には「プラ・アッタロート」 (Phra Attharot、タイ語: พระอัฏฐารส) という名の高さ12.5mの大きな立像がある(施無畏印〈Abhaya mudrā〉)。また、もう1体大きな仏像が20世紀中頃発見された。仏像はドヴァーラヴァティー様式特徴をもつが、シュリーヴィジャヤ王国において8世紀創作され可能性が高い。

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福田寺 (尼崎市)」の記事における「仏像」解説

木造不動明王立像 木造弘法大師木造聖観音立像平安時代 木造十一面観音立像円空作):江戸時代毎年五月五日のみ開帳木造十一面観音坐像松本明慶作) 木造地蔵菩薩坐像松本明慶作) 木造孔雀明王坐像松本明慶作) 木造毘沙門天立像松本明慶作)

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密蔵院 (横浜市磯子区)」の記事における「仏像」解説

本尊である不動明王像1901年明治34年)に仏師山口久吉により制作された。高さは65cmで、「こんがら」と「せいたか」の2体の童子像(高さ32cm)とともに本堂正面安置されている。このほか聖観世音菩薩像、正観音菩薩像地蔵菩薩像弘法大師像、十王像、愛媛県繁多寺にあるものと同形薬師如来像横浜磯子七福神布袋尊像が祀られている。

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清傳寺」の記事における「仏像」解説

本尊脇の薬師如来飛騨仏師よるもので、姫薬師呼ばれている。また、同じく本尊脇にある大日如来坐像苗木藩遠山友貞所縁の仏像であるが、廃仏毀釈により当寺移されたものであるまた、円空作の観音菩薩像所蔵する

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千手院 (台東区)」の記事における「仏像」解説

所蔵の仏像には、次のようなものがある。 千手千眼観世音菩薩本尊脇侍として弘法大師空海興教大師覚鑁控えている。 五智如来 地蔵菩薩 如意輪観世音菩薩 幸福地蔵尊 六面地

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中尊寺金色堂」の記事における「仏像」解説

堂内安置の仏像について見ると、中央壇、右壇、左壇共に阿弥陀三尊像阿弥陀如来坐像観音菩薩立像勢至菩薩立像)を中心に左右に3躯ずつ計6躯の地蔵菩薩立像六地蔵)、手前二天像(持国天増長天)を配し、以上11躯の仏像から構成される群像安置している。なお、ここで言う「右壇」「左壇」は本尊から見てのそれであり、拝観者からの視点では向かって左が「右壇」、向かって右が「左壇」であることは前述のとおりである。右壇の二天像のうち右方向かって左)の増長天像は失われ現在安置されている同像は近年補作である。また、右壇の阿弥陀如来像金色堂本来の像でなく、後世他所から移入された像であると見なされている。したがって金色堂本来の仏像で現存するものは計31躯である。中央壇と左壇の阿弥陀如来像は膝前で両手を組む定印じょういん)を結ぶが、右壇の阿弥陀如来像右手挙げ左手下げ来迎印で、像高一回り小さく金色堂本来の像でないことは明らかである。像高中央阿弥陀如来像が62.5センチメートル、左壇阿弥陀如来像が66.1センチメートル、右壇阿弥陀如来像が49.0センチメートルで、その他の諸像の像高60 - 70センチメートル台である。金色堂江戸時代にも修理が行われ、元禄17年1704年)には江戸にて金色堂諸仏出開帳が行われており(仙岳院文書)、こうした機会に仏像を移動した際に混乱生じた可能性がある。また、江戸時代阿弥陀如来像のうちの1躯が盗難遭ったことも記録されている(平泉雑記)。須弥壇内に安置される遺体は、中央壇が藤原清衡、右壇が2代基衡、左壇が3代秀衡とするのが通説である。清衡は大治3年1128年)没、基衡は保元2年1157年)頃没、秀衡は文治3年1187年)没で、約30年間隔置いて没している。須弥壇上の3組の仏像群も、上記3名の没年前後造立されたものと推定されているが、現状の仏像の配置は必ずしも平安時代のままではなく後世入れ替わった部分が多いと見なされている。各像はいずれ寄木造または一木割矧造で、漆箔施し用材カツラヒバヒノキ3種がある。各像の様式用材、木寄せ法等から、おおよそ制作年代推定されている。 上述のとおり、金色堂内の中央壇、右壇、左壇に安置された仏像群の配置当初のままではなく後世一部入れ替わっている。諸像の国宝指定2004年時の文化庁の解説によると、仏像群の本来の組み合わせ配置は以下のように考えられている。 中央壇の阿弥陀如来像丸顔典型的な定朝様じょうちょうよう)を示し定朝から3代目円勢などの円派仏師作風通ずるところがあり、12世紀前半制作見なされることから、中央壇の本来の本尊思われる中央壇の両脇侍像も阿弥陀如来像一具の作とみられる一方二天像に着目すると、中央壇の二天像は全体細身で、腰を強く捻り片脚片手高く上げ、袖を大きくひるがえすなど、激し動きを表すつくりである。これに対して、左壇の二天像は穏やかな体勢である。右壇の二天像(1躯のみ現存)はこれらの中間的作風を示す。福島県いわき市白水阿弥陀堂二天像(永暦元年1160年頃の作)が金色堂中央壇像に類似することが指摘されており、様式からみれば、中央壇の二天像は12世紀半ばの作と推定される。左壇の、穏健な作風二天像は、これより時代上がり中央壇の阿弥陀三尊像一具のものと考えられる一方、右壇の二天像(1躯のみ現存)は平安時代最末期造像とみられる六地蔵像については、作風や木寄せ技法などからみて、左壇の六地蔵像が中央壇の阿弥陀三尊一具であったものとみられる。以上のことから、中央壇の阿弥陀如来像両脇侍像、現・左壇の六地蔵像、現・左壇の二天像の11躯が本来の一具であり、金色堂上棟1124年頃の作とみられる。これら11はいずれヒノキ材の寄木造または一木割矧造いちぼくわりはぎづくり)であり、丸顔腹部に厚みをもたせた造形で、作風材質にも共通性がある。中央壇の阿弥陀如来像は頭体を通じ正中線左右に2材を矧ぐ寄木造である。一方、左壇の六地蔵像のうち1躯はやはり左右2材による寄木造残りの5躯は一木左右に割った一木割矧造であり、このように正中線左右に割る技法共通している。 残りの像についてみると、左壇の阿弥陀如来像細面面相は、右壇の両脇侍像のそれに通ずるところがあり、これらが本来の一具であったとみられるまた、右壇の両脇侍像の細身腰高頭部小さく造るプロポーションは、中央六地蔵像および中央二天像と共通するものがある。したがって、左壇阿弥陀如来坐像、右壇両脇侍像、中央六地蔵像、中央二天像の11躯が本来の一具推定される。これらの像はいずれカツラ材の一木割矧造で、材質構造の点でも共通性がある。これらは基衡が没した1157年頃の作とみられる。 したがって、残る左壇両脇侍像、右壇二天像(2躯のうち持国天像のみ現存)、右壇六地蔵像が本来の一具となり、これらは平安時代最末期、秀衡が没した1187年頃の作ということになる。これらの像はいずれ一木割矧造であるが、用材まちまちである。すなわち、両脇侍像はヒバ思われる材、持国天像はヒノキまたはヒバ思われる材、六地蔵カツラ材が4躯、ヒノキ材とヒバ材が各1躯となっている。 以上を整理すると、中央壇の阿弥陀三尊像と、左右壇の両脇侍像は本来の位置にあるが、本来右壇にあった阿弥陀如来像が左壇に移動しており、六地蔵像と二天像については、本来中央にあった像が左壇に、本来右壇にあった像が中央壇に、本来左壇にあった像が右壇にそれぞれ移動していることになる。なお、以上の説明は右壇を基衡壇、左壇を秀衡壇とした場合のものであり、寺伝どおり左壇を基衡壇、右壇を秀衡壇と見なし場合説明異なってくる。中尊寺刊行図録世界遺産中尊寺』の解説浅井和春執筆)では、寺伝どおり左壇を基衡壇、右壇を秀衡壇と見なしているが、いずれの像を本来の一具とみなすかについては国宝指定時の文化庁の解説と同様である。 制 作 年 代該当する備 考1124年頃(清衡晩年) 現・中壇 阿弥陀如来像 現・中壇 両脇侍像 現・左壇 六地蔵像 現・左壇 二天像 本来中央壇(清衡壇)に所属していた像 1157年頃(基衡没後) 現・左壇 阿弥陀如来像 現・右壇 両脇侍像 現・中壇 六地蔵像 現・中壇 二天像 本来基衡壇(通説では右壇、寺伝では左壇)に所属していた像 1187年頃(秀衡没後) (阿弥陀如来像現存せず) 現・左壇 両脇侍像 現・右壇 六地蔵像 現・右壇 二天像(1躯のみ現存) 本来秀衡壇(通説では左壇、寺伝では右壇)に所属していた像

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仏像

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 08:57 UTC 版)

仏教」の記事における「仏像」解説

詳細「仏像」参照 初期仏教では、具体的に礼拝する対象シンボル菩提樹仏足石金剛座)で間接的に表現していたが、ギリシャ・ローマ彫刻文明影響もあり、紀元1世紀頃にガンダーラ現在のパキスタン北部)で直接的に人間の形の仏像が製作されるようになり、前後してマトゥラーインド)でも仏像造立開始された。仏像造立開始契機については諸説あるが、一般的には釈迦亡き後追慕の念から信仰拠りどころとして発達した考えられている。仏像の本義仏陀、すなわち釈迦の像であるが、現在は如来菩薩明王天部など、さまざまな礼拝対象がある。 如来 - 「目覚めた者」「真理到達した者」の意。悟り開いた存在釈迦如来のほか、薬師如来阿弥陀如来大日如来など。 菩薩 - 仏果を得るため修行中の存在。すでに悟り開いているが、衆生済度のため現世留まる者ともいわれる如来脇侍として、または単独礼拝対象となる。観音菩薩地蔵菩薩文殊菩薩など。 明王 - 密教特有の尊格密教の主尊たる大日如来が、難化衆生を力をもって教化するために忿怒の相をもって化身したものと説かれる不動明王愛染明王など。 天部 - 護法善神。その由来はさまざまだが、インド在来神々仏教取り入れられ、仏を守護する役目をもたされたものである四天王毘沙門天四天王の一である多聞天に同じ)、吉祥天大黒天弁才天梵天帝釈天など。

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仏像

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 00:15 UTC 版)

影現寺 (葛城市)」の記事における「仏像」解説

十一面観音立像本尊平安時代作られとされる一木造十一面観音像秘仏。高さ66.1センチメートルで、本堂正面厨子内に祀られている。 伝真済上人坐像真済の姿とされる坐像江戸時代造られた。寄木造彩色玉眼。高さ67.7センチメートル不動明王立像平安時代造られ不動明王像一木造立像で高さ97.5センチメートル、彫眼、古色難陀龍王江戸時代造られ難陀竜王像。寄木造で高さ46.8センチメートル玉眼彩色一部漆箔雨宝童子江戸時代造られ雨宝童子像。寄木造で高さ39.9センチメートル玉眼彩色一部漆箔普賢延命菩薩坐像江戸時代造られ普賢延命菩薩像。一木造で高さ9.8センチメートル、彫眼、一部金泥阿弥陀如来立像江戸時代造られ阿弥陀如来像一木造で高さ19.4センチメートル玉眼金泥漆箔地蔵菩薩立像江戸時代造られ地蔵菩薩像一木造で高さ16.2センチメートル、彫眼、彩色地蔵菩薩立像室町時代宿院仏師源次によって造られ地蔵菩薩像寄木造で高さ58.1センチメートル玉眼

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仏像

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/27 14:46 UTC 版)

戒長寺」の記事における「仏像」解説

以下の仏像を所蔵する本尊薬師三尊秘仏である。 木造薬師如来及び両脇侍像薬師三尊) - 中尊本尊木造薬師如来坐像 - 半丈六坐像で、本尊薬師三尊秘仏であるため、その「御前立」として安置されている。 千手観音坐像 毘沙門天立像 地蔵菩薩半跏木造薬師如来及び両脇侍像薬師三尊) - 中尊薬師如来坐像、左脇侍日光菩薩立像、右脇侍月光菩薩立像からなる三尊像である。薬師如来坐像は、(かや)材、日光菩薩立像月光菩薩立像材が用いられている。3体ともに内刳うちぐり)のない、一木彫像である。薬師如来坐像像高84cmで、平安時代前期重厚な趣があるが、頭部や胸の厚みは薄く温和な丸い顔立ち簡素な衣文表現には、地方色認められる日光菩薩像高101.3cmで、頭部と躰体の比率もよく、肉どりも穏やかで、軽やかな量感把握をみせる造形平安後期特色伺える。 「御前立」の木造薬師如来坐像は、半丈六(高さ134.6cm)の坐像である。寄木造材が用いられ左手薬壺を持つ一般的な像容である。伏し目温雅な表情や、なだらかな肉取り、均整のとれた体躯整理され衣文表現などに、平安時代後期定朝様作風特色伺える。

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仏像

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/25 10:22 UTC 版)

ボロブドゥール遺跡」の記事における「仏像」解説

回廊外縁をめぐる壁には432体(各面108体)の仏像が安置されている。仏像は、方形壇の各面で、面ごとに異なった印相結んでいる。各面第4層第三回廊)までの368体(各面92体)については、それぞれ以下のようになっている東側阿閦如来で指地の印 南側宝生如来満願印 西側:阿弥陀如来弥陀定印 北側不空成就如来無畏の印 第5層第四回廊)の64体は、東西南北ともに毘盧遮那仏法身説法印を結んでいる。 阿閦如来東面宝生如来南面阿弥陀如来西面不空成就如来北面転法輪印を結ぶ釈迦如来 円形壇の72体の転法輪印の仏像は釈迦如来考えられており、このことよりボロブドゥール全体密教系統を引く巨大な立体曼荼羅であるとする説が有力である。

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仏像

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 10:09 UTC 版)

ワット・パナンチューン」の記事における「仏像」解説

寺院のうち最も高い建物である大きな礼拝堂 (wihan) には、1334年からの高さ19メートルとなる巨大な金色の仏坐像納められている。この崇高な仏像は、タイ人からは「ルワンポートー」(Luang Pho Thoタイ語: หลวงพ่อโต、「大師」)、中国タイ人には「サムパオコーン」(Sam Pao Kongタイ語: ซำเปากง、「三宝公」)と呼ばれる。この仏像は船乗り守護仏みなされている。また、伝承によると1767年ビルマによるアユタヤ破滅前に聖なる目から臍まで涙が流れた」という。 この像は歴史の上数回復元されている。王モンクットラーマ4世)は、1854年修復されたその像を「プラ・プッダ・トライラタナ・ナーヨック」 (Phra Puttha Thrai Ratana Nayok) と名付けた。「トライラタナ」は「三宝仏・法・僧)」(サンスクリット)の意である。仏像は、煉瓦の上漆喰施されたものであり、1901年には、火災により社殿とともに損傷したが、ラーマ5世在位1868-1910年)の時代のうちに修復された。

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仏像

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 08:25 UTC 版)

観音寺 (桜井市南音羽)」の記事における「仏像」解説

厨子入不動明王立像厨子入千手十一面観音立像阿弥陀如来立像(2軀)、薬師如来坐像弥勒菩薩坐像(2軀)、弘法大師半跏像、毘沙門天立像弘化3年銘の先祖像など。

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仏像

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/23 13:28 UTC 版)

燈明寺 (木津川市)」の記事における「仏像」解説

旧境内に建つ収蔵庫内には、千手観音立像十一面観音立像馬頭観音立像不空羂索観音立像(伝・如意輪観音)、聖観音立像安置される。各像はいずれ木造で、鎌倉時代末期の作とみられる正徳3年1713年)、海住山寺の僧如範の著になる『南山城三十三所順礼』には、燈明寺本尊は「六観音」とある。六観音とは、聖観音千手観音馬頭観音十一面観音如意輪観音准胝観音(またはこれに換え不空羂索観音)を指すが、燈明寺収蔵庫現存する観音像は5体のみである。元禄9年1696年)の『燈明寺縁起』にも当寺には千手観音立像中尊として、十一面観音馬頭観音如意輪観音聖観音の5体を安置する、とある。現存する5体は像高まちまちで、すべてが一具の作とは考えられない不空羂索観音立像(伝・如意輪観音)の胎内からは徳治3年1308年)の年紀のある、結縁交名紙片3紙が発見されている。紙片墨書から、この像は興福寺の別会五師関与して制作されたことがわかる。別会五師とは、春日社若宮の「御祭」などの行事かかわった僧侶集団であり、この不空羂索観音立像と、造高の近い千手観音立像十一面観音立像興福寺周辺仏師の作とみられる。これらの仏像は、川合芳次記念京都仏教美術保存財団所有管理している。

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仏像

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 09:33 UTC 版)

法善寺 (藤沢市)」の記事における「仏像」解説

本尊は『藤沢-わがまちのあゆみ』では日蓮上人、『新編相模国風土記稿』では一塔両尊となっている。 日蓮聖人坐像 - 像高25.5センチメートル寄木造り玉眼彩色作者: 市太夫日本橋大仏師)、元禄2年1689年)。 一塔両尊四大菩薩四大天王

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仏像

出典:『Wiktionary』 (2021/11/14 16:29 UTC 版)

この単語漢字
ぶつ
第五学年
ぞう
第五学年
呉音

発音

名詞

(ぶつぞう)

  1. (仏教) 信仰対象としての彫像画像

「仏像」の例文・使い方・用例・文例

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