薬師如来像とは? わかりやすく解説

薬師如来像

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/04 06:27 UTC 版)

法隆寺の仏像」の記事における「薬師如来像」の解説

国宝指定名称は「銅造薬師如来坐像」。金堂「東の間」本尊光背丁卯年(607年)、用明天皇のために作った旨の造像銘があり、これを信じれば金堂中の間」の釈迦三尊像よりも古い、法隆寺創建根本にかかわる像ということになるが、後述のとおり、この像及び光背銘を文字通り607年の作とすることには疑義もたれている。内陣東側木造二重の箱形台座(その形状から宣字形台座称するの上安置され宝珠形の光背を負う。鍍金像高は63.8センチ施無畏与願印結んで坐す如来像で、服制僧祇支下衣の上大衣通肩着し胸前僧祇支の線が斜めに見えている。腹前に見えるのは僧祇支の紐の結び目である。作風・技法から、実際制作7世紀後半に下るとみられる。かつて、本像の左右に1体ずつの菩薩像寺伝名称は日光菩薩・月光菩薩)が置かれ、「薬師三尊像」として安置されていた。しかし、これらの菩薩像薬師像とは作風異なり、本来の一具でないことは明らかである。伝日光菩薩・月光菩薩像は現在は境内大宝蔵院移されている。 本像は全体的に中の間釈迦像と似ているが、異なる点も多い。台座前面大衣と裳の裾を長く垂らして裳懸座とする点は釈迦像と共通するが、裳懸座左右両端は、釈迦像のそれが勢いよく反り返っているのに対し、本像のそれは反り控えめである。面相釈迦像に比して本像の方が丸顔であるなど、全体時代の下る要素が多い。『昭和資財帳作成時の調査所見によると、釈迦像の像内には鋳造時に回りきらなかった箇所鋳掛けをした跡が3か所に見られるのに対し、本像の像内には鋳掛けはみられず、技法的に進歩見られるという。型持の処理については、釈迦像では鋳掛け象嵌併用しているが、本像では象嵌のみで処理されている。本像の光背は、中央の蓮華文めぐって重圏文帯、輻状文帯、連珠文帯、蓮華唐草文帯があり、これらの外側火焔文に化仏7体を配す釈迦三尊像光背では各文様区画厳密に区切られているのに対し薬師光背唐草区画超えて伸び前述化仏7体は蓮華唐草文帯から伸びたの上蓮座乗っている。また、釈迦三尊像光背には見られない半開荷葉蓮葉)文や、唐草文様区画線絡み付く表現など新し要素見られるこうした作風技法の面に加え光背裏面銘文にも推古朝作文とは考えがたい部分がある。 以下に光背裏面銘文読み下しを示す(読み方には諸説ある)。 池辺(いけのべ)の大宮に天(あめ)の下治(しら)しめしし天皇すめらみこと用明天皇)、大御身(おほみみ)労(いたつ)き賜ひし時、歳(ほし)は丙午に次(やど)りし年に大王天皇おほきみのすめらみこと推古天皇)と太子(みこ=聖徳太子)を召して誓願し賜はく、「我が大御病(おほみやまひ)太平(たいら)きなんと欲(おもほ)し坐(ま)す、故(かれ)、将に寺を造り薬師像を作り仕え奉らんとす」と詔(の)りたまひき然れども当時そのかみ)に崩(さ)り賜ひて、造り堪(あ)えざれば、小治田大宮天の下治しめしし大王天皇推古天皇)及び東宮聖王聖徳太子)は大命(おほみこと)を受け賜はりて、歳は丁卯に次りし年(推古15年)に仕え奉りき。 大意 用明天皇病気になり、丙午年(586年)、推古天皇聖徳太子召して、「わが病気平癒のために寺と薬師像を造りたいと思う」と言った。しかし、所願果たせずに天皇崩御したので、推古天皇聖徳太子遺命したがい丁卯年(607年)に寺と薬師像を造った上記銘文の内容文字通りに受け取れば、本像は607年制作ということになるが、福山敏男1935年論文において、薬師如来像光背銘(以下「薬師銘」という)は推古朝6世紀末から7世紀初)の作成ではありえず、天武朝後半以降天平以前7世紀末から8世紀初)に、坂田寺縁起模して作成されたものだとした。福山説の主たる根拠は、「天皇」呼称使用大化645 - 650年以降であり、推古朝には用いられていなかったこと、日本における薬師信仰天武朝673年 - )以降広まったのであることなどである。大橋一章は、舒明天皇11年639年建立百済大寺大安寺前身)が日本最初勅願寺であるとしたうえで、用明天皇時代勅願寺建立はありえず、この点だけでも、薬師銘の信憑性を疑うには十分だとしている。薬師銘が何の目的作文されたのかについて、大西修也次のように論じている。(1) 670年火災後再建図っていた法隆寺では、国家皇室からの支援を得るべく、同寺が創建当初から天皇発願勅願寺であったのような銘文創作した。それが薬師銘である。(2) 薬師銘は飛鳥寺縁起モデルにして作成された。飛鳥寺縁起モデルにしたのは、同寺がもともと蘇我氏私寺として出発したものでありながら官寺準ずる扱い受けていたので、これに倣おうとしたためである。(3) 飛鳥寺縁起モデルにしつつ、飛鳥寺よりも発願時期仏像完成時期が古い縁起創作し縁起のいわば「格上げ」を図った具体的には、飛鳥寺建立用明2年587年)、蘇我馬子発願によるのに対し薬師像の発願1年古い用明元年586年)とされており、飛鳥寺本尊推古17年609年完成(『元興寺縁起』)であるのに対し薬師像の完成推古15年607年)とされている。 天武9年680年)に「国の大寺である二、三の寺以外は官司治めてならない。ただし、食封有する寺は官司治めてもよいが、それも30年間を限度とする」という勅が出された。「国の大寺」とは、具体的に官寺である大官大寺大安寺前身)、川原寺薬師寺とこれらに準ずる飛鳥寺指し法隆寺はここに含まれない。しかも、法隆寺については、この勅が出される前年天武8年に、それまで300戸あった食封停止されているので、「食封有する寺」にも当たらず国家からの財政援助期待することはできなくなってしまった。大橋一章は、前述大西修也説を踏まえた上で再建資金集め苦慮していた法隆寺は「日本仏教の祖である聖徳太子信仰の寺」として再出発することで生き残り図ったとする。すなわち、再建法隆寺の金堂には太子ゆかりの銘文有する釈迦像を本尊据え、「用明天皇発願」の薬師像は用済みとなったので、釈迦像の脇仏のような形で安置されることになったということである。 本像の木造台座台脚の上箱形2段積み上げた形のものである下段箱形下座)に比し上段箱形上座)は一回り小さくなっている。下座の上下にそれぞれ請花うけばな)と反花(かえりばないずれも蓮弁形の装飾)、上座の下に反花がある材質請花と反花がクスノキ材、他の部分ヒノキ材である。上座・下座四面にはそれぞれ彩色絵画がある。これらの絵画現状では剥落激しく肉眼では図様確認することはほとんど不可能であるが、山岳樹木飛天四天王などが描かれ全体として須弥山世界を表すものと考えられている。下座正面山岳と2体の飛天描かれ背面山岳とともに2人人物描かれている。側面左右とも2体ずつの天部像を描き合せて四天王表したものと思われる上座4面とも山岳描き正面には下座と同様、2体の飛天を描く。上座下座同時制作ではなく上座の方が年代が下るとみられる修理時に下座内部から樹木天人墨画発見されている。

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