釈文
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/11 14:43 UTC 版)
「法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘」の記事における「釈文」の解説
法興元丗一年歳次辛巳十二月、鬼前太后崩。明年正月廿二日、上宮法皇枕病弗悆。干食王后仍以労疾、並著於床。時王后王子等、及與諸臣、深懐愁毒、共相發願。仰依三寳、當造釋像、尺寸王身。蒙此願力、轉病延壽、安住世間。若是定業、以背世者、往登浄土、早昇妙果。二月廿一日癸酉、王后即世。翌日法皇登遐。癸未年三月中、如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘嚴具竟。乗斯微福、信道知識、現在安隠、出生入死、随奉三主、紹隆三寳、遂共彼岸、普遍六道、法界含識、得脱苦縁、同趣菩提。使司馬鞍首止利佛師造。 — 『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』
※この「釈文」の解説は、「法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘」の解説の一部です。
「釈文」を含む「法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘」の記事については、「法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘」の概要を参照ください。
釈文
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 02:37 UTC 版)
全釈文は以下の通りだが、本項では便宜上、文中に句読点および返り点を補った。 天台座主少僧都法眼和尚位圓珍、 右、可レ贈二法印大和尚位號智證大師一。 勅。慈雲秀嶺、仰則 弥高、法水清流、酌レ之 寧盡。故天台座主 少僧都圓珍、戒珠 無レ塵、慧炬有レ照。渡二 大瀛一而求レ法、騁二異域一 而尋レ師。濟レ物爲レ宗、泛二 舟檝於苦海一。利他在レ 意、加二斧斤於稠林一。 是以蒙霧斂二其翳 昧一、朗月增二其光明一。遺 烈永傳、餘芳遠播。追二- 憶志節一、足二以褒崇一。 冝レ贈二法印大和尚位 諡號智證大師一。可下依二 前件一、主者施行上。 延長五年十二月廿七日 三品行中務卿敦實見□ 従四位上行中務大輔源朝臣國淵奉 従五位下守中務少輔源朝臣興平[行]奉レ勅、如レ右牒到奉行。 延長五年十二月廿七日 參議従四位下守治部卿兼讃岐守當幹 治部大輔 闕 參議正四位下行左大辨兼讃岐権守悅告二法印大和尚位智證大師一、 奉レ勅、如レ右符到奉行。 大錄 闕 治部少輔従五位下公彦 少錄茂倫 少錄直幹 延長五年十二月廿七日
※この「釈文」の解説は、「智証大師諡号勅書」の解説の一部です。
「釈文」を含む「智証大師諡号勅書」の記事については、「智証大師諡号勅書」の概要を参照ください。
釈文
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/20 20:54 UTC 版)
「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」の記事における「釈文」の解説
池邊大宮治天下天皇。大御身。勞賜時。歳次丙午年。召於大王天皇與太子而誓願賜我大御病太平欲坐故。将造寺薬師像作仕奉詔。然當時。崩賜造不堪。小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王。大命受賜而歳次丁卯年仕奉 — 『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』
※この「釈文」の解説は、「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」の解説の一部です。
「釈文」を含む「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」の記事については、「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」の概要を参照ください。
釈文
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/06/07 00:27 UTC 版)
元前死次後殞矣 丘断囟砥弔亡魂 人正益挙教云刈 夫以人直宜従道 昭和62年に東京歴史研究会の三原邦夫の記した「蒙古の碑を読む」という論文を参考すると、碑文の解読に初めて取り組んだのは江戸時代中期(18世紀後期)に活躍した細井広沢であった。細井の訳は以下の通り。「ソレ ジン ヘツ ナオ ヨシ ナラビニ ドウ ヲウ シャウ エキ アイ マトウテ ココニ オサム クルアヲ ト チヲ ハカッテ テウシテ コンヲ トドム ゲンハ サキニ シシ ボウハ ノチニ インス」 他に文政5年頃には、志村五城も訳を試みている。訳は以下の通り。 「ソレ オモンミレバ イ チョクナレバ ヨロシク ミチ ニ シタガウベシ ヘツ セイナレバ マスマス オシエヲ オコス ココニ オカヲ カリ シンヲ キリ ボウ コンノ トムライヲイタス ゼン シニ ハジメ コウ イン ニ ツカシム」 燕沢碑が有名となるきっかけを作った藤塚知明は『燕沢碑帖 附考証』を著して解読を試みている。 知明によれば銘文の4行28文字は右の如くに解読でき、文中の「刈丘断囟砥」は土地を均して建てるの謂で、「元前死次後殞」は文永の役と弘安の役の前後2回に亘る元寇の戦没者を指すものであると解し、また碑額の記号は「羅」に相当する種字で、大日経九字秘訳に、羅字を観れば凡夫も成仏し冥途の枉魂を救う、とあるのによるものと説いた[要検証 – ノート]。 なお、雄淵が先人の説として述べる釈文は以下の如くである。 夫(それ)、以(おもんみれ)ば人の直きは宜しく道に従ひ、人の正しきは益(ますます)教へに挙(つ)くと云ふ。丘を刈り囟砥(しんし)を断(はら)ひ、亡魂を弔ひ、前死に元づき後殞(こういん)に次ぐなり。弘安第五天玄黓敦牂仲秋二十日彼岸終(修)、里末清俊謹拝 — 『奥州名所図会』巻之二 一方、三原は、碑文の作者を中国僧と見て、きちんと音読した上で訳することを唱えている。それによれば、 「夫 以 ノ 直 宜 従 道 = フ イ エィ チョク ギィ ジュゥ ドゥ」 「乁 正 益 糾 交(綴)云 乂 = フッ セイ エキ キュゥ リ ウン ゲィ」 「丘 寸+刂 囟 砥 弔 亡 魂 = ホゥ ソン シン ティ テゥ ボゥ コン」 「元 前 死 保 後 殞 矣(知?)= ゲン ゼン シ ホゥ コゥ イン シィ」 となり、さらに漢語の古字の意から訳せば、 「武役と共に 平穏な地に至りて仏の道に従う 仏の道の者は猛々しく強気に枉がり、国交は混然と為っている事を戒める 北の地の廃墟跡において頭髪を断ちて亡魂を弔う 元より先に死しておられる亡骸の上に更に死者が重なっていった事を知ったが爲に」 となるという。三原は、岩手の黒石寺に到った、無学祖元門徒の留学僧の仏光が記した偈を彫ったのが、この碑ではないかと推測している。
※この「釈文」の解説は、「燕沢碑」の解説の一部です。
「釈文」を含む「燕沢碑」の記事については、「燕沢碑」の概要を参照ください。
釈文と同じ種類の言葉
- >> 「釈文」を含む用語の索引
- 釈文のページへのリンク