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推古天皇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/07 13:26 UTC 版)
(推古 から転送)
推古天皇(すいこてんのう、欽明天皇15年(554年) - 推古天皇36年3月7日(628年4月15日)『古事記』では戊子年3月15日)は、第33代天皇(在位:崇峻天皇5年12月8日(593年1月15日) - 推古天皇36年3月7日(628年4月15日)36年、『古事記』では37年)。
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- ^ 『古事記』推古天皇段には「妹(いも)、豊御食炊屋比売(とよみけかしぎやひめ)命、小治田(をはりだ)宮に坐しまして、天の下治らしめすこと、三十七歳(みそじまりななとせ)なりき。(分注、戊子の年の三月十五日癸丑の日に崩りましき。)御陵は大野の岡の上にありしを、後に科長(しなが)の大木陵に遷しき」(『古事記』)とある。小治田宮は奈良県高市郡。
- ^ ベン・アミー・シロニー(著) Ben‐Ami Shillony(原著)『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』大谷堅志郎(翻訳)、78頁。(第2章『女性統治者の出現』、5『最初の「天皇」は女性だった』、『日本で最初の「天皇」』)。
- ^ これを採用した場合には欽明天皇32年(敏達天皇即位の年)に皇后となったことになり、広姫立后の記事と矛盾することになり、広姫立后記事か推古の立后時の年齢のいずれかが誤りの可能性がある。
- ^ 『古事記』分注では「甲辰年四月六日崩」
- ^ 佐藤長門によれば、推古天皇は当時若年であった竹田皇子や厩戸皇子が成長するまでの「中継ぎ」としての即位であったが、当時は大王(天皇)の譲位の観念がなく、その長すぎた治世の間に両皇子並びに彼らと同世代の男性皇族が全て没してしまったために「中継ぎ」としての役目は十分に果たしたとは言えず、結果的にはその次の世代(田村皇子・山背大兄王)に皇位継承争いの火種を残すことになってしまったと説く(佐藤長門「七世紀における倭王権の展開過程」(初出:『国学院大学研究紀要』39号、2001年/所収:佐藤『日本古代王権の構造と展開』吉川弘文館、2009年 ISBN 978-4-642-02471-6))。
- ^ ベン・アミー・シロニー(著) Ben‐Ami Shillony(原著)『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』大谷堅志郎 (翻訳)、77頁。 (第2章5『推古天皇と聖徳太子』。さらに、本書は以下を出典としている。Piggott, 'Chieftain Pairs and Co-rulers', pp.18-19.
- ^ ベン・アミー・シロニー(著) Ben‐Ami Shillony(原著)『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』大谷堅志郎 (翻訳)、76頁。 (第2章5『推古天皇と聖徳太子』。さらに、本書は以下を出典としている。Joseph M. Kitagawa, On Understanding Japanese Religion. Princeton: Princeton University Press, 1987, pp.104-105.
- ^ a b ベン・アミー・シロニー(著) Ben‐Ami Shillony(原著)『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』大谷堅志郎 (翻訳)、79頁。 (第2章5『日本で最初の「天皇」』)。
- ^ 実際には、俀国が600年に遣隋使をおくっている。また、これは12年の誤差があり遣唐使の可能性もある。
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