天武天皇とは?

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てんむてんのう ―てんわう 【天武天皇】

(?-686) 日本書紀第四〇代天皇漢風諡号(しごう)(673-686)。名は大海(おおあまの)皇子和風諡号天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)舒明天皇第三皇子。兄、天智天皇皇太子となったが、天皇死に際し、吉野退去672年挙兵して、大友皇子を破り、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)即位在位中、国史撰修着手、八色姓(やくさのかばね)制定し、律令体制推進した。

壬申(じんしん)の乱


歴代天皇事典

歴史浪漫歴史浪漫

天武天皇

天武天皇は、大海人皇子といい、父舒明天皇、母皇極斉明天皇中大兄皇子(天智天皇)とは同母兄弟にあたる。
大海人は天智朝を補佐し、また皇位継承者としても有力視されていたが、672年天智天皇崩御後、大海人皇子野讃良皇女草壁皇子高市皇子大津皇子らと吉野脱出して、天智天皇(中大兄皇子)の子大友皇子(弘文天皇)の近江朝廷側と対立した。
この対立は、大海人皇子吉野側が大友皇子(弘文天皇)の近江側を破り、大友皇子自害するに及んで吉野側の勝利に終わった(「壬申の乱」という)。
この後飛鳥入り飛鳥浄御原宮造営して673年に即位して天武天皇となった。
天武天皇は、天皇や皇族中心とした「皇親政治」をめざし、律令制による中央集権国家建設に力を注いだ。
大舎人の制」「「考選の法」「親王諸王十二階、諸臣四十八階の新冠位制」を定め684年には「八色の姓」を定めて朝廷における身分秩序確立した。
さらに、天武朝に至って天皇の地位絶対化、神格化がはかられ、「大君は神にし坐せば」で始まる歌が万葉集に収められたが、次第に「現人神(あらひとがみ)」となっていった。
681年皇后以下の臣に「飛鳥浄御原律令」の編纂を命じ、さらに「定紀」「旧辞」の再検討を命じた。
その一方外交では、新羅との国交保持したが、唐との国交断絶した。
686年病を得て改元誓願かいもなく没した。



歴代天皇陵一覧

宮内庁宮内庁

天武天皇 檜隈大内陵
(てんむてんのう ひのくまのおおうちのみささぎ)

御陵写真 陵印
代   数 :第40
天 皇 名 :天武天皇
てんむてんのう
御   父 舒明天皇
御   母 齊明天皇
御 陵 名 隈大内
(ひのくまのおおうちみささぎ
陵   形 円丘
合   葬 持統天皇合葬
所 在 地 奈良県高市郡明日香村大字野口
交通機関等 近鉄飛鳥下車  東へ0.8km
陵印保管場所 畝傍陵墓監区事務所


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天武天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/11/19 11:18 UTC 版)

天武天皇(てんむてんのう、舒明天皇3年(631年)? - 朱鳥元年9月9日686年10月1日))は、7世紀後半の日本の天皇である。在位は天武天皇2年2月27日673年3月20日)から朱鳥元年9月9日(686年10月1日))。『皇統譜』が定める代数では第40代になる。

天武天皇
第40代天皇
『集古十種』「天武帝御影」
元号 朱鳥(あかみとり)
先代 弘文天皇
次代 持統天皇

誕生 631年?
崩御 686年10月1日
大和国
陵所 檜隈大内陵
御名 大海人(おおあま)
異称 天渟中原瀛真人天皇
浄御原天皇
父親 舒明天皇
母親 宝皇女(皇極天皇/斉明天皇)
皇后 鸕野讃良皇女(持統天皇
夫人 藤原氷上娘
藤原五百重娘
蘇我大蕤娘
子女 草壁皇子
高市皇子
舎人親王
皇居 飛鳥浄御原宮
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天皇系図38~50代

目次

概要

舒明天皇皇極天皇(斉明天皇)の子として生まれ、中大兄皇子(天智天皇)にとっては両親を同じくする弟にあたる。皇后の鸕野讃良皇女は後に持統天皇となった。

天智天皇の死後、672年壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)を倒し、その翌年に即位した。その治世は14年間、即位からは13年間にわたる。飛鳥浄御原宮を造営し、その治世は続く持統天皇の時代とあわせて天武・持統朝などの言葉で一括されることが多い。日本の統治機構、宗教、歴史、文化の原型が作られた重要な時代だが、持統天皇の統治は基本的に天武天皇の路線を引き継ぎ、完成させたもので、その発意は多く天武天皇に帰される[1]。文化的には白鳳文化の時代である。

天武天皇は、人事では皇族を要職につけて他氏族を下位におく皇親政治をとったが、自らは皇族にも掣肘されず、専制君主として君臨した。八色の姓氏姓制度を再編するとともに、律令制の導入に向けて制度改革を進めた。飛鳥浄御原令の制定、新しい都(藤原京)の造営、『日本書紀』と『古事記』の編纂は、天武天皇が始め、死後に完成した事業である。

道教に関心を寄せ、神道を整備して国家神道を確立し、仏教を保護して国家仏教を推進した。その他日本土着の伝統文化の形成に力があった。天皇を称号とし、日本を国号とした最初の天皇とも言われる。

名の大海人は、幼少期に養育を受けた凡海氏(海部一族の伴造)にちなむ。『日本書紀』に直接そのように記した箇所はないが、天武天皇の殯に凡海麁鎌が壬生(養育)のことを誄したことからこのように推測されている[2]

和風(国風)諡号天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)。瀛は道教における東方三神山の一つ瀛州(残る2つは蓬莱方丈)のことである。真人(しんじん)は優れた道士をいい、瀛とともに道教的な言葉である[3]

漢風諡号である「天武天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代淡海三船によって撰進された。近代に森鴎外は『国語』楚語下にある「天事は武、地事は文、民事は忠信」を出典の候補として挙げた。別に、前漢武帝になぞらえたものとする説[4]、「天は武王を立てて悪しき王(紂王)を滅ぼした」から名付けられたとする説もある。

生涯

出生

天武天皇の出生年は日本書紀に記載が無い。他に記載が無いのは崇峻天皇のみであり、これは異例の事である。

鎌倉時代に成立した『一代要記』や『本朝皇胤紹運録』『皇年代略記』が記す没年から生年を計算すると、それぞれ生年が推古天皇30年(622年)・31年(623年)で、『日本書紀』による兄・天智天皇の生年・推古天皇34年(626年)を上回る。従来、『一代要記』などの65歳没は56歳(同55歳)の写し間違いで、逆算して631年生まれであるとの説が定説化していた[5]

ところが戦後になって、前記の史料が示す年齢を正確なものと解釈し、系図上では父が舒明天皇天智天皇の弟とされているが、「天武天皇は天智天皇の異母兄、若しくは異父兄だったのではないか」という説が現れた。天智と天武は兄弟ではないとする非兄弟説や、母皇極天皇が舒明天皇の前に結婚していた高向王との間に生まれた漢王と同一人物ではないかとする天武異父兄説がある。

ただし、天武が天智より年上だとする主張は、日本書紀の記述における天智の生年と、日本書紀以外の記述における天武の生年を比較している。同一史料内で天智・天武両者の生年が併記されているものについては、天智のほうが年下と記すものはない。そのため天武が年上とする事を前提とした諸説は、史料の扱い方が恣意的という批判がある。

日本書紀以外の主な史料の天智・天武から計算した生年

史料 天智天皇の生年 天武天皇の生年
一代要記 推古天皇27年(619年 推古天皇30年(622年
仁寿鏡 推古天皇22年(614年 不明
興福寺略年代記 舒明天皇3年(631年 舒明天皇12年(640年
神皇正統記・如是院年代記 推古天皇22年(614年 推古天皇22年(614年
神皇正統録・本朝皇胤紹運録 推古天皇22年(614年 推古天皇30年(622年
皇年代略記 推古天皇22年(614年 推古天皇31年(623年

斉明天皇の死まで

中大兄皇子が皇極天皇4年(645年)6月12日に20歳で乙巳の変を起こしたとき、大海人皇子は年少であり、おそらく陰謀には関わらなかった[6]。事件の結果皇極天皇は退位し孝徳天皇が即位した。後、白雉4年(653年)に中大兄皇子が孝徳天皇と袂を分かち難波京から倭(やまと)に移ったとき、行動をともにした[7]。やがて孝徳天皇は病死し、皇極天皇が斉明天皇として再び天皇になった。

大海人皇子は中大兄皇子の娘を次々に4人まで妻とした。百済復興のための朝鮮半島出兵で、斉明天皇と中大兄皇子が筑紫(九州)に宮を移したときには、大海人皇子も妻を連れて従った[8]。旅の途中、斉明天皇7年(661年)1月8日に妻の大田皇女が大伯海[9]大伯皇女を生み、大津皇子の名も筑紫の娜大津[10]での出生に由来すると言われる。大海人皇子は額田王を妻として子を儲けたが、後に額田王は中大兄皇子の妃になった。この三角関係が後の兄弟の不和の原因となったとする説があり、賛否ある。

天智天皇の大皇弟

母の斉明天皇が亡くなってから、中大兄皇子は即位せずに称制で統治した。天智天皇3年(664年)2月9日に、大海人皇子は中大兄皇子の命を受け、冠位26階制を敷き、氏上を認定し、民部と家部を定めることを群臣に宣べ伝えた。

天智天皇6年(667年)2月27日にようやく斉明天皇の葬儀があり、間人皇女が斉明天皇と合葬になり、大田皇女がその陵の前に葬られた。それぞれ、大海人にとっては母、姉(または妹)、妻にあたる人たちであった。

7年(668年)1月7日に、中大兄皇子が即位した。このとき大海人皇子が東宮になった。このことは『日本書紀』で巻28、天武天皇の即位前紀に記され、巻27の天智天皇紀には触れられていない。天智天皇紀で大海人皇子は大皇弟[11]、東宮太皇弟[12]、東宮[13]などと記される。書紀は壬申の乱の挙兵前から大海人皇子を「天皇」と記し、天武の地位について信頼を置けないところがある。そのため、書紀が書く通り大海人皇子が皇太子であったとする学者もいるが、大皇弟などは壬申の乱での天武天皇の行動を正当化するための文飾で、事実はそのような地位になかったとする説、大皇弟などは単なる尊称であって皇位継承予定者を意味するものではないなど[14]、疑う説も有力である。皇位継承者と認定されていたかはともかく、天智天皇の朝廷で大海人皇子が非常に重要な地位にあったことは認められている[15]

藤氏家伝』は、ある日の宴会で激した大海人皇子が長槍で床板を貫き、怒った天智天皇が皇子を殺そうとしたという話を伝える。藤原鎌足が取りなして事なきを得たという。天智天皇7年(668年)のことと推測される[16]

天智天皇10年(671年)1月2日、天智天皇は大友皇子を太政大臣に任命し、左大臣右大臣御史大夫を付けた。太政大臣は国政を総覧する官職で、その職務は大海人皇子が果たしてきた仕事と重なる。『日本書紀』にはこの直後に東宮太皇弟が冠位・法度のことを施行させたと記すが、「或本に云わく」として大友皇子がしたとも注記する。また、『懐風藻』によれば大友皇子が太政大臣になったのは5年前になる[17]。多くの歴史学者は書紀の或本のほうを採るか、この記事を天智天皇3年(664年)2月9日の冠位26階制の重出と見る[18]。ともかくも、大海人皇子は朝廷から全く疎外されたようである[19]。天智天皇に、大友皇子をして皇位を継がせる意図があったためと言われる[20]

壬申の乱

天智天皇は、病がいよいよ深くなった10年(671年)10月17日に、大海人皇子を病床に呼び寄せて、後事を託そうとした。蘇我安麻呂の警告を受けた大海人皇子は、倭姫皇后が即位し大友皇子が執政するよう薦め、自らは出家してその日のうちに剃髪し、吉野に下った[21]

吉野では鸕野讃良皇女(持統天皇)と草壁皇子らの家族と、少数の舎人、女儒とともに住んだ。近江大津宮では、天智天皇が死ぬと、大友皇子が(即位したかどうかは不明ながら[22])朝廷を主宰して後継に立った。

翌年、天武天皇元年(672年)6月22日に、大海人皇子は挙兵を決意して美濃に村国男依ら使者を派遣し、2日後に自らもわずかな供を従えて後を追った。美濃には皇子の湯沐邑があって湯沐令多品治がまず挙兵した。皇子に仕える舎人には村国氏ら美濃の豪族の出身者があり、その他尾張氏らも従った。大海人皇子は不破道を封鎖して近江朝廷と東国の連絡を遮断し、兵を興す使者を東山(信濃など)と東海尾張国など)に遣わした。

大和盆地では、大伴吹負が挙兵して飛鳥の倭京を急襲、占領した。近江朝廷側では、河内国守来目塩籠が大海人皇子に味方しようとして殺され、近江方面の将山部王もまた殺され、近江の豪族羽田矢国が大海人皇子側に寝返るなど、動揺が広がった。大海人皇子は東国から数万の軍勢を不破に集結せさ、近江と倭の二方面に発進した。近江方面の軍が琵琶湖東岸を進んでたびたび敵を破り、7月23日に大友皇子を自殺に追い込んだ。

天皇の治世

天武天皇は、大友皇子の死後もしばらく美濃にとどまり、戦後処理を終えてから飛鳥の島宮に、ついで飛鳥岡本宮に入った。岡本宮に加えて東南に少し離れたところに新たに大極殿を建てた。二つをあわせて飛鳥浄御原宮と名付けたのは晩年のことである。

天武天皇2年(673年)2月27日に即位した天皇は、鸕野讃良皇女を皇后に立て、一人の大臣も置かず、直接に政務をみた。皇后は壬申の乱のときから政治について助言したという。皇族の諸王が要職を分掌し、これを皇親政治という。天皇は伊勢神宮大来皇女斎王として仕えさせ、父の舒明天皇が創建した百済大寺を移して高市大寺とするなど、神道と仏教の振興政策を打ち出した。伊勢神宮については、壬申の乱での加護に対する報恩の念があった。その他諸政策については、後述の「#天武朝の政策」で解説する。

皇子らが成長すると、8年(679年)5月5日に天武天皇と皇后は天武の子4人と天智の子2人とともに吉野宮に赴き、6日にそこで誓いを立てた。天皇・皇后は6人を父母を同じくする子のように遇し、子はともに協力するという、いわゆる吉野の盟約である。6人は平等ではなく、草壁皇子が最初、大津皇子が次、最年長の高市皇子が3番目に誓いを立て、この序列は天武の治世の間維持された。天智天皇の子は皇嗣から外されたものの、天武の子である草壁は天智の娘阿閉皇女(元明天皇)と結婚し、同じく大津は山辺皇女を娶り、天智天皇の子川島皇子は天武の娘泊瀬部皇女と結婚した。天武の皇后も天智の娘であるから、天智・天武の両系は近親婚によって幾重にも結びあわされたことになる。

天皇と皇后は10年(681年)2月25日に律令を定める計画を発し、同時に草壁皇子を皇太子に立てた。しかし12年(683年)2月1日から有能な大津皇子にも朝政をとらせた。

天皇は、15年(686年)5月24日に病気になった。仏教の効験によって快癒を願ったが、効果はなく、7月15日に政治を皇后と皇太子に委ねた。7月20日に元号を定めて朱鳥とした。その後も神仏に祈らせたが、9月11日に病死した。

葬儀と陵

10月2日に大津皇子は謀反の容疑で捕らえられ、3日に死刑になった。の期間は長く、皇太子が百官を率いて何度も儀式を繰り返し、持統天皇2年(688年)11月21日に大内陵に葬った。持統天皇3年(689年)3月13日に草壁皇子が死んだため、皇后が即位した。持統天皇である。

は檜隈大内陵(奈良県高市郡明日香村大字野口)、野口王墓古墳。持統天皇との夫婦合葬墓である。古代の天皇陵としては珍しく、治定に間違いがないとされる。文暦2年(1235年)に盗掘に遭い、大部分の副葬品を盗まれた。棺も暴かれたが遺骸はそのままの状態で、天皇の頭蓋骨にはまだ白髪が残っていた。持統天皇の遺骨は火葬されたため銀の骨壺に収められていたが、骨壺だけ奪い去られて遺骨は近くに遺棄された。藤原定家が『明月記』に盗掘の顛末を記す。また、盗掘の際に作成された『阿不幾乃山陵記』に石室の様子がある。




  1. ^ 北山茂夫『天武朝』253頁。
  2. ^ 『日本書紀』朱鳥元年9月27日条。西郷信綱『壬申紀を読む』14-15頁。
  3. ^ 福永光司「タオイズムから見た壬申の乱」22-23頁。福永・千田・高橋『日本の道教遺跡を歩く』42頁。
  4. ^ 山本幸司『天武の時代』112頁。
  5. ^ 川崎庸之『天武天皇』4頁。
  6. ^ 森田悌『天武・持統天皇と律令国家』3-4頁。
  7. ^ 『日本書紀』白雉4年是歳条。以下、事実の記載については基本的に『日本書紀』による。『日本書紀』に年月日が記されているものについては年月日を本文に記し、いちいち注に記さない。
  8. ^ 後述する妃の出産からの推測。
  9. ^ 大伯は後の邑久郡で、現在の岡山県東部。
  10. ^ 那の大津。現在の福岡市奴国に連なる。
  11. ^ 『日本書紀』天智天皇3年2月丁亥(27日)条、7年5月5日条、8年5月壬午(5日)条。
  12. ^ 『日本書紀』天智天皇10年正月甲辰(6日)条。
  13. ^ 『日本書紀』天智天皇10年10月庚辰(17日)条、壬午(19日)条。
  14. ^ 森田悌『天武・持統天皇と律令国家』5-7頁。
  15. ^ 直木孝次郎『古代国家の成立』308-309頁。
  16. ^ 直木孝次郎「壬申の乱あれこれ」271頁。
  17. ^ 弱冠で太政大臣、没年25とする。日本古典文学大系『懐風藻・文華秀麗集・本朝文粹』69頁。
  18. ^ 新編古典文学全集『日本書紀』3、287頁注30。直木孝次郎『古代国家の成立』282-283頁。
  19. ^ 川崎庸之『天武天皇』78-80頁。
  20. ^ 森田悌『天武・持統天皇と律令国家』8頁。
  21. ^ 『日本書紀』巻第27の天智天皇10年10月庚辰条と、巻28の冒頭部にある4年10月庚辰条に大筋一致する内容がある。4年は称制を含めない天智天皇即位からの年数で、書紀のあるべき編年では10年にあたる。
  22. ^ 大友皇子即位説を参照。
  23. ^ 上野修「日並皇子挽歌に現われた天武天皇神話の意義について」17-19頁。
  24. ^ 亀田隆之『壬申の乱』184-185頁。熊谷公男『大王から天皇へ』334-335頁。
  25. ^ 井上光貞「律令体制の成立」500-501頁。。倉本一宏「天武天皇殯宮に誄した官人について」48-49頁。
  26. ^ 亀田隆之『壬申の乱』206-213頁。
  27. ^ 西郷信綱『壬申紀を読む』222頁、229-231頁。熊谷公男『大王から天皇へ』335頁、347頁。
  28. ^ 北山茂夫「大化改新」『日本古代政治史の研究』40-47頁。同「壬申の乱」『日本古代政治史の研究』96-97頁、101-104頁、『日本古代内乱史論』63-64頁、71-76頁。また山本幸司『天武の時代』78頁。
  29. ^ 石母田正『日本の古代国家』220-223頁。山本幸司『天武の時代』112-113頁。
  30. ^ もう一つの説は推古天皇。天武説が多数の学者に支持されていることは、西郷信綱『壬申紀を読む』221-222頁、熊谷公男『大王から天皇へ』335頁、吉村武彦『古代王権の展開』313-317頁、『古代天皇の誕生』219-229頁など。
  31. ^ 熊谷公男『大王から天皇へ』335-338頁。
  32. ^ 井上光貞「律令体制の成立」505-506頁。
  33. ^ 井上光貞「律令体制の成立」511頁。
  34. ^ 井上光貞「律令体制の成立」525頁。
  35. ^ 亀田隆之『壬申の乱』178-179頁。
  36. ^ 北山茂夫『天武朝』144-146頁。
  37. ^ 亀田隆之『壬申の乱』200-202頁。
  38. ^ 直木孝次郎『壬申の乱』242-248頁。
  39. ^ 井上光貞「律令体制の成立」501-502頁。
  40. ^ 亀田隆之『壬申の乱』179-182頁。
  41. ^ 今村啓爾『富本銭と謎の銀銭』。
  42. ^ 直木孝次郎『古代国家の成立』348-350頁。
  43. ^ 北山茂夫『天武朝』158-163頁。
  44. ^ 北山茂夫『天武朝』146-149頁。
  45. ^ 北山茂夫『天武朝』173頁。
  46. ^ 井上光貞「律令体制の成立」501頁。森田悌『天武・持統天皇と律令国家』204頁。
  47. ^ 北山茂夫『天武朝』216頁。
  48. ^ 森田悌『天武・持統天皇と律令国家』。
  49. ^ 林部均「飛鳥浄御原宮の成立」25頁。
  50. ^ 林部均「飛鳥浄御原宮の成立」28-30頁、同「発掘された飛鳥の諸宮」59-64頁。志村佳名子「飛鳥浄御原宮における儀礼空間の復元的考察」。
  51. ^ 『日本書紀』天武天皇5年是年条。
  52. ^ 小澤均「藤原京の成立」130-131頁。
  53. ^ 林部均「発掘された飛鳥の諸宮」64-65頁。
  54. ^ 木下正史「飛鳥から藤原京へ」18頁。
  55. ^ 西郷信綱『壬申紀を読む』11頁。
  56. ^ 北山茂夫『萬葉の時代』38-39頁。村井康彦『律令制の虚実』73-77頁。
  57. ^ 大嘗の初見は『日本書紀』天武天皇2年12月丙戌(5日)条にある。これを大嘗祭の初めとみるのは、森田悌『天武・持統天皇と律令国家』41-44頁など。
  58. ^ 『古事記』序第2段。岩波文庫版15-16頁。
  59. ^ 松前健「天武天皇と古事記神話の構成」49-52頁。
  60. ^ 『日本書紀』巻28、天武天皇即位前紀。
  61. ^ 滝川政次郎『人物新日本史』112-113頁。
  62. ^ 直木孝次郎「古代の伊勢神宮」、「伊勢神宮の成立について」。
  63. ^ 『日本書紀』天武天皇2年4月己巳(14日)条、3年10月乙酉(9日)条。
  64. ^ 中西正幸『神宮式年遷宮の歴史と祭儀』24-25頁。
  65. ^ 滝川政次郎『人物新日本史』108-112頁。
  66. ^ 田村圓澄『伊勢神宮の成立』112-115頁。「『天照大神』と天武天皇」3-7頁、『飛鳥時代 倭から日本へ』。新谷尚紀『伊勢神宮と出雲大社』。松前健「天武天皇と古事記神話の構成」54-60頁。
  67. ^ 筑紫申真『アマテラスの誕生』140-148頁。
  68. ^ 森田悌『天武・持統天皇と律令国家』49-49頁。
  69. ^ 森田悌『天武・持統天皇と律令国家』49-49頁。
  70. ^ 田村圓澄「『天照大神』と天武天皇」11-12頁、『伊勢神宮の成立』116-117頁。『飛鳥時代 倭から日本へ』137-140頁。田村は天照大神は『金光明経』をふまえて天武天皇が作ったのではないかという(『伊勢神宮の成立』118-127頁)。
  71. ^ 田村圓澄『飛鳥時代 倭から日本へ』132-136頁。
  72. ^ 丸山茂「天武朝の宗教環境」162-166頁。
  73. ^ 井上光貞「日本における仏教統制機関の確立過程」333-341頁。
  74. ^ 丸山茂「天武朝の宗教環境」163頁。
  75. ^ 丸山茂「天武朝の宗教環境」163頁。
  76. ^ 二葉憲香「古代天皇の祭祀権と仏教」51-52頁。
  77. ^ 福永・千田・高橋『日本の道鏡遺跡を歩く』14頁。
  78. ^ 福永光司「タオイズムから見た壬申の乱」22-23頁。福永・千田・高橋『日本の道教遺跡を歩く』42頁。
  79. ^ 福永光司「タオイズムから見た壬申の乱」
  80. ^ 森田悌『天武・持統天皇と律令国家』35-36頁。
  81. ^ 『日本書紀』巻第28天武天皇即位前紀。岩波文庫版『日本書紀』第5分冊66頁、391頁。
  82. ^ 『日本書紀』巻第28、6月甲申(24日)条(ただし、占ったのは翌日)。岩波文庫版『日本書紀』第5分冊76頁、394頁。
  83. ^ 『古事記』序第二段、岩波文庫版14頁。
  84. ^ 『日本書紀』巻之第28、天武天皇元年6月甲申条(24日深夜)。新編日本古典文学全集4『日本書紀』3、313頁。
  85. ^ 『日本書紀』巻之第28、天武天皇元年6月丁亥条(27日)。新編日本古典文学全集4『日本書紀』3、323頁。
  86. ^ 山本幸司『天武の時代』10-11頁、157-158頁。
  87. ^ 北山茂夫『天武朝』174頁。
  88. ^ 森田悌『天武・持統天皇と律令国家』34頁。
  89. ^ 天武天皇15年(675年)1月2日に大極殿、16日に大安殿で宴があり、天皇が出した「無端事」への正解者に褒美があった。
  90. ^ 山本幸司『天武の時代』46-47頁。
  91. ^ 直木孝次郎『古代国家の成立』358-359頁。森田悌『天武・持統天皇と律令国家』30-34頁。
  92. ^ 猪熊兼勝「天武天皇陵」53頁。
  93. ^ 『明月記』嘉禎元年4月22日。猪熊兼勝「天武天皇陵」53頁。
  94. ^ 『尊卑分脈』、『高階氏系図』(『群書類従』巻第63、『続群書類従』巻第174 所収)による。


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