てんむ‐てんのう〔‐テンワウ〕【天武天皇】
天武天皇
大海人は天智朝を補佐し、また皇位継承者としても有力視されていたが、672年天智天皇の崩御後、大海人皇子は鵜野讃良皇女、草壁皇子、高市皇子、大津皇子らと吉野を脱出して、天智天皇(中大兄皇子)の子の大友皇子(弘文天皇)の近江朝廷側と対立した。
この対立は、大海人皇子の吉野側が大友皇子(弘文天皇)の近江側を破り、大友皇子が自害するに及んで吉野側の勝利に終わった(「壬申の乱」という)。
この後飛鳥に入り飛鳥浄御原宮を造営して673年に即位して天武天皇となった。
天武天皇は、天皇や皇族を中心とした「皇親政治」をめざし、律令制による中央集権国家の建設に力を注いだ。
「大舎人の制」「「考選の法」「親王・諸王十二階、諸臣四十八階の新冠位制」を定め、684年には「八色の姓」を定めて朝廷における身分秩序を確立した。
さらに、天武朝に至って天皇の地位の絶対化、神格化がはかられ、「大君は神にし坐せば」で始まる歌が万葉集に収められたが、次第に「現人神(あらひとがみ)」となっていった。
681年皇后以下の臣に「飛鳥浄御原律令」の編纂を命じ、さらに「定紀」「旧辞」の再検討を命じた。
その一方外交では、新羅との国交は保持したが、唐との国交は断絶した。
686年病を得て、改元や誓願のかいもなく没した。
第40代天皇 | |
天皇名 | 天武天皇 |
読み方 | てんむてんのう |
名・諱等 | 天渟中原瀛真人 |
読み方 | あまのぬなはらおきのまひと |
時代区分 | 古代 |
天皇在位 | 673年から686年 |
生年 | ? |
没年 | 686 |
父 | 舒明天皇 |
母 | 皇極・斉明天皇 |
兄弟 | 中大兄皇子・間人皇女・古人大兄皇子 |
配偶者 | 持統(鵜野讃良皇女) |
皇子女 | 草壁・大津・舎人ら多数 |
即位宮 | 飛鳥浄御原宮 |
天皇陵 | 檜隈大内陵 |
所在地 | 奈良県高市郡明日香村大字野口 |
天武天皇 檜隈大内陵
(てんむてんのう ひのくまのおおうちのみささぎ)
天武天皇
天武天皇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 08:40 UTC 版)
当時の天皇。6皇子のうち、4人が彼の子。2人が甥(兄の天智天皇の子)。
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天武天皇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 02:38 UTC 版)
詳細は「壬申の乱」を参照 大友皇子(弘文天皇)は正式に即位しており、従って壬申の乱は天武天皇による皇位簒奪であったという説がある。さらに進めて、天武天皇が天智天皇の弟だったという通説に疑問を呈し、兄弟ではなかったのではないかという異説も存在する(佐々克明ら)。ちなみに、仮にこれが皇位簒奪であったとしても、天武天皇の血統は称徳天皇(孝謙天皇)を以て絶えており、その後の天皇は天智系に復している。
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「天武天皇」の例文・使い方・用例・文例
- 天武天皇の代に制定された,家系の尊卑を表す称号
- 天武天皇の皇子の墓?
- 埋葬室は失われてしまったが,発掘された土器から,その古墳は7世紀末に天武天皇の皇子のために造られたと推定されている。
- 周辺の地域には,有名なキトラ古墳や天武天皇と持(じ)統(とう)天皇の墓を含む,多くの他の古墳がある。
- この地域が天武天皇一家の陵園であったという学説がある。
- 橿(かし)原(はら)考古学研究所の副所長は,「築造時期,立地,規模,構造を考えると,これはおそらく約20人いた天武天皇の子どものひとりの墓だろう。」と話した。
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