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じとうてんのう ぢとうてんわう 【持統天皇】
(645-702) 日本書紀で第四一代天皇の漢風諡号(しごう)。天智天皇の第二皇女。名は鸕野讃良(うののさらら)。和風諡号は高天原広野姫(たかまのはらひろのひめ)。天武天皇の皇后。天皇の死後、政務に携わり、皇太子草壁皇子の病死で即位。697年、文武天皇に譲位後は太上天皇として政務をみる。都は藤原宮。万葉集に歌を収める。
歴代天皇事典 |
持統天皇
持統天皇は、名を鵜野讃良皇女といい、諡を大倭根子天之広野日女という。
657年に大海人皇子(天武天皇)の妃となった。
中大兄皇子(天智天皇)らが計画した百済救援の兵を挙げたときに夫の大海人皇子に随行したという。
663年白村江(はくすきのえ・「はくそんこう」ともいう)の戦いで倭国軍と百済軍は唐・新羅連合軍の大攻勢を受けて大敗北すると、大海人皇子らとともに大和へ帰国した。
この間に斉明天皇が崩御し、また、筑紫で草壁皇子を生んだ。
この後中大兄皇子が即位して天智天皇となり近江大津宮に遷都したので夫とともに移った。
天智天皇が大友皇子(弘文天皇)を寵愛しているのをみて、大海人皇子は吉野へ出家したが持統も草壁皇子とともに行動を共にした。
この対立は、大海人皇子の吉野側が大友皇子(弘文天皇)の近江側を破り、大友皇子が自害するに及んで吉野側の勝利に終わった(「壬申の乱」という)。
この後飛鳥に入り飛鳥浄御原宮を造営して673年に即位して夫の大海人皇子は天武天皇となった。
即位とともに持統は皇后となり、686年の天武天皇の崩御まで天皇を補佐して崩御後は皇后の身分で政治をみた(「称制」という)。
この称制の期間は686年から689年といわれている。
持統は皇子の草壁を擁立して後任を託そうとしたが、天武天皇と父母を同じくする姉妹の大田皇女との間に生まれた大津皇子の謀反が川島皇子によりもたらされて、強権を発動して大津皇子らを捕縛し死罪とした。
これにより安泰にみえた持統朝であったが、草壁皇子が病を得て689年に薨去した。
翌690年に自ら即位して持統天皇となる。
694年に中国の都を模した「藤原京」に遷都。
持統朝では、「八省百寮」の選任が行われ、「庚寅年籍」が作成された。
697年に草壁皇子と阿閉皇女(元明天皇)の間に生まれた軽皇子に皇位を譲って太上天皇となりその後見をしたが、702年崩御した。
657年に大海人皇子(天武天皇)の妃となった。
中大兄皇子(天智天皇)らが計画した百済救援の兵を挙げたときに夫の大海人皇子に随行したという。
663年白村江(はくすきのえ・「はくそんこう」ともいう)の戦いで倭国軍と百済軍は唐・新羅連合軍の大攻勢を受けて大敗北すると、大海人皇子らとともに大和へ帰国した。
この間に斉明天皇が崩御し、また、筑紫で草壁皇子を生んだ。
この後中大兄皇子が即位して天智天皇となり近江大津宮に遷都したので夫とともに移った。
天智天皇が大友皇子(弘文天皇)を寵愛しているのをみて、大海人皇子は吉野へ出家したが持統も草壁皇子とともに行動を共にした。
この対立は、大海人皇子の吉野側が大友皇子(弘文天皇)の近江側を破り、大友皇子が自害するに及んで吉野側の勝利に終わった(「壬申の乱」という)。
この後飛鳥に入り飛鳥浄御原宮を造営して673年に即位して夫の大海人皇子は天武天皇となった。
即位とともに持統は皇后となり、686年の天武天皇の崩御まで天皇を補佐して崩御後は皇后の身分で政治をみた(「称制」という)。
この称制の期間は686年から689年といわれている。
持統は皇子の草壁を擁立して後任を託そうとしたが、天武天皇と父母を同じくする姉妹の大田皇女との間に生まれた大津皇子の謀反が川島皇子によりもたらされて、強権を発動して大津皇子らを捕縛し死罪とした。
これにより安泰にみえた持統朝であったが、草壁皇子が病を得て689年に薨去した。
翌690年に自ら即位して持統天皇となる。
694年に中国の都を模した「藤原京」に遷都。
持統朝では、「八省百寮」の選任が行われ、「庚寅年籍」が作成された。
697年に草壁皇子と阿閉皇女(元明天皇)の間に生まれた軽皇子に皇位を譲って太上天皇となりその後見をしたが、702年崩御した。
| 第41代天皇 | |
| 天皇名 | 持統天皇 |
| 読み方 | じとうてんのう |
| 名・諱等 | 高天原広野姫天皇 |
| 読み方 | たかまのはらひろのひめのすめらみこと |
| 時代区分 | 古代 |
| 天皇在位 | 690年から697年 |
| 生年 | 645 |
| 没年 | 702 |
| 父 | 天智天皇 |
| 母 | 遠智娘 |
| 兄弟 | 大田皇女・建皇子 |
| 配偶者 | 大海人皇子(天武) |
| 皇子女 | 草壁皇子 |
| 即位宮 | 飛鳥浄御原宮 |
| 天皇陵 | 檜隈大内陵 |
| 所在地 | 奈良県高市郡明日香村大字野口 |
歴代天皇陵一覧 |
持統天皇 檜隈大内陵
(じとうてんのう ひのくまのおおうちのみささぎ)
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持統天皇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/11/02 06:44 UTC 版)
持統天皇(じとうてんのう、大化元年(645年) - 大宝2年12月22日(703年1月13日))は、日本の第41代天皇。
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- ^ 直木孝次郎『持統天皇』51-53頁。新編古典文学全集『日本書紀』第5巻178頁注2は可能性を指摘しつつ「同一人か否かは問題がある」とまとめる。
- ^ 『日本書紀』にその航海中に大田皇女が大来皇女を出産したことが記されているので、大田と同じ立場の讚良も同行したと推測される。
- ^ 直木孝次郎『持統天皇』122-123頁。北山茂夫は、皇族出身の妻のうちただ一人、と限定する(「持統天皇論」132頁)。
- ^ 直木孝次郎『持統天皇』160-161頁。
- ^ 北山茂夫「持統天皇論」153頁。
- ^ 北山茂夫『持統天皇論』155頁、159-160頁。
- ^ 北山茂夫『持統天皇論』165頁。直木孝次郎『持統天皇』206頁。
- ^ 上田正昭『古代日本の女帝』153-155頁。熊谷公男『大王から天皇へ』343-344頁。
- ^ 北山茂夫『持統天皇論』184-185頁。これには新制度が定めた官職を補充するために人材の数が必要になったという事情もあったであろうが、皇位継承のライバルとなる皇族の登用を持統天皇が望まなかったという可能性も指摘される。直木孝次郎『持統天皇』213-215頁。
- ^ 渡辺晃宏『平城京と木簡の世紀』30頁、37頁。
- ^ 渡辺晃宏『平城京と木簡の世紀』33頁。
- ^ 直木孝次郎『持統天皇』217-219頁。
- ^ 北山茂夫『持統天皇論』177-182頁。
- ^ 直木孝次郎『持統天皇』226-227頁。
- ^ 北山茂夫『持統天皇論』202-203頁。
- ^ 北山茂夫『持統天皇論』210-212頁。
- ^ 直木孝次郎『持統天皇』。
- ^ 『懐風藻』葛野王の伝。小島憲之・校注『懐風藻・文華秀麗集・本朝文粋』(日本古典文学大系69)81-82頁。
- ^ 北山茂夫『持統天皇論』230-231頁注1。
- ^ 直木孝次郎『持統天皇』257-269頁。
- ^ 持統即位前紀。新編日本古典文学全集版『日本書紀』474頁注12で、『後漢書』明徳馬皇后紀にほぼ同文があると指摘される。
- ^ 西郷信友は、壬申の乱の後に詠んだとの注釈によって天武天皇を指して詠まれたと一般に解される大伴御行の2首を、持統天皇による藤原京造営にあてる。そうすると、「大君は神にしませば」とは持統天皇の代に固有のものになる。
- ^ 遠山美都夫『古代の皇位継承』38頁、42-51頁。
- ^ 倉本一宏『壬申の乱』35-36頁。
- ^ 北山茂夫『持統天皇論』153-154頁。直木孝次郎『持統天皇』182-188頁。
- ^ 吉永登『万葉集』。
- ^ 直木孝次郎『古代国家の成立』中央公論社(中公文庫・日本の歴史2)、1973年、377-378頁。同『持統天皇』。
- ^ 松本清張『壬申の乱』180-184頁。
- ^ 桑田王の母は石川夫人という説もある為、この説に則った場合、桑田王の子孫に持統天皇の血は入っていない事になる。
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