びだつ‐てんのう〔‐テンワウ〕【敏達天皇】
敏達天皇
敏達天皇は息長真手王の娘広姫を皇后として、押坂彦人大兄皇子らをもうけたが、石姫皇后が薨去したため、豊御食炊屋姫尊(後の推古天皇)を皇后に迎えた。
敏達の時代は、高句麗から使人が来朝し、また百済・新羅も調を奉じて来ており外交は絶えていなかった。
そこで敏達は先帝の遺言すなわち、任那の再興を皇子・大臣らに諮ったという。
後に百済に働きかけて日羅に来朝することを求めた。
日羅は国内の政を優先すべきと進言したとある。
後にこの日羅は暗殺される。
日本の反対勢力によるものか、百済の日本との通交を望まない勢力によるものかは、わかっていない。
いずれにしてもこれにより任那の再興は頓挫した。
国内ではあいかわらず崇仏派と廃仏派が争い、特に蘇我馬子と物部守屋の対立が激しくなっていた。
585年元興寺縁起によれば物部守屋・中臣勝海らが仏法破却を奏し、これにより仏像・仏殿・塔などが破壊され、さらに善信尼(鞍部村主司馬達等の娘=仏師として著名な鞍造止利の叔母にあたる。
)らは辱めを受けて処罰された。
敏達は575年8月疱瘡の流行でこの世を去った。
第30代天皇 | |
天皇名 | 敏達天皇 |
読み方 | びだつてんのう |
名・諱等 | 訳語田渟中倉太珠敷尊 |
読み方 | おさたのぬなくらのふとたましきのみこと |
時代区分 | 古代 |
天皇在位 | 572?年から585?年 |
生年 | 生年不詳 |
没年 | 没年不詳 |
父 | 欽明天皇 |
母 | 石姫皇女 |
兄弟 | 箭田珠勝大兄皇子 |
配偶者 | 広姫・豊御食炊屋姫尊 |
皇子女 | 押坂彦人大兄皇子ら |
即位宮 | 百済大井宮 |
天皇陵 | 河内磯長中尾陵 |
所在地 | 大阪府南河内郡太子町大字太子 |
敏達天皇 河内磯長中尾陵
(びだつてんのう こうちのしながのなかのおのみささぎ)
敏達天皇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/10 03:12 UTC 版)
敏達天皇(びだつてんのう、旧字体:敏󠄀達󠄁天皇、538年?〈宣化天皇3年?〉 - 585年9月14日?〈敏達天皇14年8月15日〉)は、日本の第30代天皇(在位:572年4月30日?〈敏達天皇元年4月3日〉- 585年9月14日?〈同14年8月15日〉)。
- ^ 「日本書紀」による
- ^ 「扶桑略記」、「水鏡」、
- ^ 「愚管抄」
- ^ 「皇代記」、「簾中抄」など
- ^ 「神皇正統記」、「仁寿鏡」
- ^
他田宮は、奈良県磯城郡。川内は、大阪府南河内郡。御子、沼名倉太珠敷 () 命、他田 () 宮に坐しまして、天の下治らしめすこと、十四歳 () なりき。(この後は、六人の比売(ひめ)を娶(めと)り、二十四人の御子を儲(もう)け、この中御子の一人の御子が、つまり孫が即位したことを述べている。)(分注、甲辰の年の四月六日に崩りましき。)御陵は川内の科長 () にあり — 「古事記」敏達天皇段 - ^ a b 河内磯長中尾陵(国史).
- ^ 「王陵の谷・磯長谷古墳群 -太子町の古墳墓-」 太子町教育委員会(太子町立竹内街道歴史資料館)、1994年、pp. 14-15, 38-41。
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