じんしん‐の‐らん【壬申の乱】
壬申の乱
壬申の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 06:57 UTC 版)
第三十八代天皇として668年に即位した中大兄皇子(天智天皇)は全国的な戸籍(庚午年籍)を作って人民を把握する国内政策を推進した。天皇が崩御すると子の大友皇子が跡を継いだが、すぐに先帝の弟の大海人皇子(天武天皇)が反乱を起こした。672年の壬申の乱である。敗北して自害した大友皇子に即位の事実は確認されないが現在は第三十九代弘文天皇と見なされている。 第四十代天皇に即位した大海人皇子(天武天皇)は都を宮を飛鳥浄御原宮に移して中央集権的な国家体制の整備に努めた。681年には律令の編纂を開始した。天皇の称号が実際に用いられ始めたのもこの時代だと言われている。しかし強権的な政治を行った天皇も寿命には勝てず制度の確立を待たずして686年に崩御した。 第四十一代天皇に即位したのは皇后の鸕野讚良皇女である(持統天皇)。先帝の事業を引き継いだ女帝は689年に飛鳥浄御原令を制定、690年には庚寅年籍が造られ、692年には公地公民制を基礎とした班田収授法を実施。694年には日本初の本格的都城となる藤原京に都を遷した。697年に孫の珂瑠皇子に譲位した。 第四十二代天皇となった珂瑠皇子(文武天皇)は701年に大宝律令を制定。天皇を頂点とした貴族・官僚による中央集権支配体制を完成させた。しかしこの天皇は短命で707年に崩御した。 第四十三代天皇となったのは先帝の母の阿閇皇女だった(元明天皇)。そして710年に平城京遷都が実施されて大和時代は終わった。
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壬申の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/20 02:27 UTC 版)
大伴氏は馬来田の兄・長徳が孝徳天皇に仕え重職にあったが、白雉2年(651年)に長徳が亡くなってから不遇であった。そのため壬申の乱の前に馬来田は病気を称して都から退き、弟・吹負と共に倭(大和国)の自宅にいた。彼等は次の天皇は吉野宮にいる大海人皇子(のち天武天皇)だろうと考えていた。 6月24日に大海人皇子が挙兵を決意して行動を起こすと、馬来田らは大海人皇子に味方することを決めた。吹負は大和に残って同志を募り、馬来田はまず吉野宮に行った。しかし大海人皇子は去った後で、馬来田は黄書大伴と共に皇子を追い、その日のうちに菟田(大和国宇陀郡)の吾城で追いついた。黄書大伴はこの日に倭京(飛鳥の古都)に使者にたって戻るところで、どの時点で馬来田と会ったかは『日本書紀』に明記されないが、大伴兄弟に事を知らせた当人である可能性が高い。 この後、吹負は大和方面の将軍として華々しい活躍をしたが、馬来田の軍功は伝わらない。戦場に立てば必ず指揮官のうちに名を挙げられたはずなので、馬来田は戦場に出なかったと推測できる。大海人皇子を補佐して後方にいたのであろう。
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壬申の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/13 10:17 UTC 版)
境部薬は、壬申の乱では大友皇子(弘文天皇)の側につき、その将となった。美濃国不破郡に本拠を構える大海人皇子(天武天皇)の軍と、近江国大津に都をおく大友皇子の軍は、7月7日に近江方面で会戦を行った。『日本書紀』はこの戦いにつき「男依(村国男依)らは近江軍と息長の横河で戦って破り、その将境部連薬を斬った」と記す。この文面からは近江軍の総指揮官が境部薬であったのか、そうではなく将のうちの1人であったのかは判然としない。
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壬申の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 14:18 UTC 版)
『日本書紀』が伝えるところでは、壬申の年の6月下旬、大海人皇子(天武天皇)が挙兵したことを知った近江大津宮の朝廷は、各地に使者を派遣して鎮圧のための軍を興させた。このとき倭京への使者にたったのが、穂積百足とその弟の穂積五百枝、物部日向であった。倭は大和国の「やまと」、倭京は飛鳥にあった古い都をいう。そこには留守司として高坂王がおり、3人は王と共に軍の編成を進めた。その陣営は飛鳥寺の西の槻の下にあった。 しかしこのとき、倭では大伴吹負が大海人皇子のために数十人の同志を得て戦う準備を進めていた。6月29日、吹負らは飛鳥寺の西の槻の下の陣営に入り、内応を得て軍の指揮権を乗っ取った。穂積百足は殺され、五百枝と物部日向は監禁された。二人はしばらくしてから赦されて、大海人皇子側の軍に加わった。
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壬申の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/26 06:42 UTC 版)
壬申の乱は6月から7月の一か月間の出来事であった。乱の勃発時、近江宮の朝廷は筑紫大宰に対して兵力を送るよう命じる使者を出した。このとき大友皇子(弘文天皇)は、栗隈王がかつて大海人皇子(天武天皇)の下についていたことを危ぶみ、使者に対して「もし服従しない様子があったら殺せ」と命じた。 使者に渡された符(命令書)を受けた栗隈王は、国外への備えを理由に出兵を断った。「筑紫国は以前から辺賊の難に備えている。そもそも城を高くし溝を深くし、海に臨んで守るのは、内の賊のためではない。今、命をかしこんで軍を発すれば、国が空になる。そこで予想外の兵乱があればただちに社稷が傾く。その後になって臣を百回殺しても何の益があろうか。あえて徳に背こうとはするのではない。兵を動かさないのはこのためである。」(現代文訳)というのが書紀が載せた栗隈王の言葉である。 使者の佐伯男は、大友皇子の命令に従って栗隈王を殺そうと剣を握って進もうとした。しかし、栗隈王の二人の子、三野王(美努王)と武家王が側にいて剣を佩き、退く気配がなかったため、恐れて断念した。
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