壬申の乱とは? わかりやすく解説

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壬申の乱

読み方:ジンシンノラン(jinshinnoran)

古代内乱


壬申の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/07 11:07 UTC 版)

壬申の乱(じんしんのらん)は、天武天皇元年6月24日 - 7月23日、(ユリウス暦672年7月24日 - 8月21日[注釈 1])に起こった古代日本最大の内乱である。




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壬申の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 06:57 UTC 版)

大和時代」の記事における「壬申の乱」の解説

第三十八天皇として668年即位した中大兄皇子天智天皇)は全国的な戸籍庚午年籍)を作って人民把握する国内政策推進した天皇崩御すると子の大友皇子が跡を継いだが、すぐに先帝の弟の大海人皇子天武天皇)が反乱起こした672年の壬申の乱である。敗北して自害した大友皇子即位事実確認されないが現在は第三十九弘文天皇と見なされている。 第四十代天皇即位した大海人皇子天武天皇)は都を宮を飛鳥浄御原宮移して中央集権的な国家体制整備努めた681年には律令編纂開始した天皇称号実際に用いられ始めたのもこの時代と言われている。しかし強権的政治行った天皇寿命には勝て制度の確立待たずして686年崩御した。 第四十一代天皇即位したのは皇后鸕野讚良皇女である(持統天皇)。先帝事業引き継いだ女帝689年飛鳥浄御原令制定690年には庚寅年籍造られ692年には公地公民制基礎とした班田収授法実施694年には日本初本格的都城となる藤原京に都を遷した。697年に孫の珂瑠皇子譲位した第四十二代天皇となった珂瑠皇子文武天皇)は701年大宝律令制定天皇頂点とした貴族官僚による中央集権支配体制完成させた。しかしこの天皇短命707年崩御した。 第四十三天皇となったのは先帝の母の阿閇皇女だった(元明天皇)。そして710年平城京遷都実施され大和時代終わった

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壬申の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/20 02:27 UTC 版)

大伴馬来田」の記事における「壬申の乱」の解説

大伴氏馬来田の兄・長徳孝徳天皇仕え重職にあったが、白雉2年651年)に長徳亡くなってから不遇であった。そのため壬申の乱の前に馬来田病気称して都から退き、弟・吹負と共に倭(大和国)の自宅にいた。彼等次の天皇吉野宮にいる大海人皇子(のち天武天皇)だろうと考えていた。 6月24日大海人皇子挙兵決意して行動起こすと、馬来田らは大海人皇子味方することを決めた。吹負は大和残って同志募り馬来田はまず吉野宮行った。しかし大海人皇子去った後で馬来田黄書大伴と共に皇子追いその日のうちに菟田(大和国宇陀郡)の吾城で追いついた。黄書大伴はこの日に倭京飛鳥古都)に使者にたって戻るところで、どの時点馬来田会ったかは『日本書紀』明記されないが、大伴兄弟に事を知らせた当人である可能性が高い。 この後、吹負は大和方面将軍として華々しい活躍をしたが、馬来田軍功伝わらない戦場立てば必ず指揮官のうちに名を挙げられたはずなので、馬来田戦場に出なかったと推測できる大海人皇子補佐して後方にいたのであろう

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壬申の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/13 10:17 UTC 版)

境部薬」の記事における「壬申の乱」の解説

境部薬は、壬申の乱では大友皇子弘文天皇)の側につき、その将となった美濃国不破郡本拠構え大海人皇子天武天皇)の軍と、近江国大津に都をおく大友皇子の軍は、7月7日近江方面会戦行った『日本書紀』はこの戦いにつき「男依(村国男依)らは近江と息長の横河戦って破り、その将境部連薬を斬った」と記す。この文面からは近江軍の総指揮官が境部薬であったのか、そうではなく将のうちの1人であったのかは判然としない

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壬申の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 14:18 UTC 版)

物部日向」の記事における「壬申の乱」の解説

『日本書紀』伝えるところでは、壬申の年6月下旬大海人皇子天武天皇)が挙兵したことを知った近江大津宮朝廷は、各地使者派遣して鎮圧のための軍を興させた。このとき倭京への使者にたったのが、穂積百足とその弟の穂積五百枝物部日向であった。倭は大和国の「やまと」、倭京飛鳥にあった古い都をいう。そこには留守司として高坂王がおり、3人は王と共に軍の編成進めた。その陣営飛鳥寺の西のの下にあった。 しかしこのとき、倭では大伴吹負大海人皇子のために数十人の同志得て戦う準備進めていた。6月29日、吹負らは飛鳥寺の西のの下の陣営入り内応得て軍の指揮権乗っ取った穂積百足殺され五百枝物部日向監禁された。二人しばらくしてから赦されて、大海人皇子側の軍に加わった

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壬申の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/26 06:42 UTC 版)

栗隈王」の記事における「壬申の乱」の解説

壬申の乱は6月から7月一か月間の出来事であった乱の勃発時、近江宮朝廷筑紫大宰に対して兵力を送るよう命じ使者出した。このとき大友皇子弘文天皇)は、栗隈王がかつて大海人皇子天武天皇)の下についていたことを危ぶみ、使者に対して「もし服従しない様子あったら殺せ」と命じた使者渡された符(命令書)を受けた栗隈王は、国外へ備え理由出兵断った。「筑紫国以前から辺賊の難に備えている。そもそも城を高くし溝を深くし、海に臨んで守るのは、内の賊のためではない。今、命をかしこんで軍を発すれば、国が空になる。そこで予想外兵乱があればただちに社稷が傾く。その後になって臣を百回殺して何の益があろうか。あえて徳に背こうとはするのではない。兵を動かさないのはこのためである。」(現代文訳)というのが書紀載せた栗隈王言葉である。 使者佐伯男は、大友皇子命令に従って栗隈王殺そうと剣を握って進もうとした。しかし、栗隈王二人の子三野王美努王)と武家王側にいて剣を佩き、退く気配がなかったため、恐れて断念した

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