壬申の乱での活躍
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大海人皇子は、6月24日に吉野で行動を起こす際に、倭(大和国)の京の留守司高坂王に使者を遣わし、駅鈴の引き渡しを求めた。このときの使者に、大分恵尺、黄書大伴、逢志摩の3人が選ばれた。皇子は「もし鈴を得られなかったら、志摩はすぐに還って復奏せよ。恵尺は急いで近江(大津京)に行き、高市皇子と大津皇子を連れ出し、伊勢で(私と)会え」と命じた。恵尺らは高坂王のもとにいって駅鈴を求めたが得られなかったため、恵尺は近江に向かった。 事情は不明だが、高市皇子と大津皇子はそれぞれ別々の集団を作って脱出し、高市皇子は翌25日に伊賀の積殖山口で大海人皇子一行に合流した。大分恵尺は大津皇子に同行して伊勢に向かい、その日の深夜に鈴鹿関で大海人皇子の配下に制止された。鈴鹿関司は始め一行を山部王と石川王だと誤認したが、翌日に大津皇子と判明した。この後の恵尺の活動については記録がない。
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壬申の乱での活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 16:45 UTC 版)
壬申の年(672年)の6月下旬に挙兵した大海人皇子は、まず美濃国に入って東国の兵を集めた。倭(大和国)では6月29日に大伴吹負が呼応して兵をあげたが、北と西から近江朝廷の軍に脅かされて劣勢だった。大海人皇子は7月2日に数万の兵を伊勢国経由で倭に向かわせた。その指揮官が、紀阿閉麻呂、多品治、三輪子首と、置始菟であった。 行軍中の7月9日、紀阿閉麻呂らは及楽山(奈良)で大伴吹負が敗れたことを知り、置始菟に騎兵一千をもって急行させた。この部隊は4日に墨坂(現在の奈良県北東部)で敗走する吹負に出会い、金綱井で敗兵を収容した。『日本書紀』の以上の記述は日付が明らかに矛盾している。行程からすると9日には増援軍の本隊が到着しておかしくないので、9日の派遣を誤りとする説が有力である。4日到着ならば、2日の出発と同時か出発後すぐに騎兵が分派したことになる。 合流後、置始菟は吹負の指揮下に入った。大伴吹負はこの後西方から来た壱伎韓国の軍と当麻で戦ったが、置始菟の参加の有無は不明である。さらに後、北の犬養五十君の軍との対戦で、置始菟は三輪高市麻呂と共に右翼の上道にあった。この戦いでは大伴吹負の率いる中軍が廬井鯨の部隊の攻撃で苦境に陥った。置始菟らは箸陵で自隊の正面の敵を撃破してから鯨の部隊の背後を断ち、敵を敗走させた。これより後、近江朝廷の軍が来襲することはなかった。 7月22日に大伴吹負を除く別将は北進して山前に至り、川の南に駐屯した。これは近江国の瀬田で近江朝廷の軍が大敗した日にあたり、翌日に大友皇子(弘文天皇)が自殺して内戦は終わった。
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壬申の乱での活躍
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大分氏(大分君)は大分国造を歴任した一族で、豊後国大分郡を本拠とする豪族である。稚臣は、壬申の乱の勃発時に近江大津宮のある大津にいたらしい。大海人皇子にとって大津は敵の本拠地だったが、そこには高市皇子と大津皇子という二人の息子がいた。そこで二人に脱出と伊勢国での合流を指示するため、6月24日に吉野から大分恵尺が連絡に向かった。二人の皇子は別々に伊勢へ急行し、稚臣は恵尺と共に大津皇子の集団に加わった。高市皇子は25日の昼、大津皇子は翌日の朝に父と再会した。 その後、美濃国で集結した大海人皇子の軍勢は、近江国に直行する軍と倭(大和国)への増援に回る軍とに二分された。稚臣は直行する軍に属した。村国男依らが指揮するこの軍は、7月7日から連戦連勝して進撃し、22日に瀬田に到達した。瀬田川は地勢上近江宮を守る最後の防衛線であり、大友皇子(弘文天皇)自ら群臣を従えて出陣した。 攻防の焦点は瀬田の橋にあった。近江方の先鋒の将智尊は橋の中ほどを3丈にわたって切断し、そこに長い板をかけて綱をつけ、敵が渡ると綱を引いて落下させるという仕掛けを作って待ち受けた。そのため大海人皇子の兵は進めなかった。稚臣は長矛を捨て、甲(よろい)を重ね着して、刀を抜き、仕掛けられた板を踏んで突進した。彼は板についた綱を切り、矢を受けながら敵陣に入った。近江方の兵士は壊走し、壬申の乱の勝敗はここに決した。
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壬申の乱での活躍
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壬申の乱が勃発した際、多品治は美濃国の安八磨郡(安八郡)の湯沐令であった。皇子の生計を支えるために設定された一種の封戸を管理する役職である。 大海人皇子は、自身が行動をおこす2日前の6月22日に、村国男依、和珥部君手、身毛広は3人で美濃に先行するよう命じた。彼らの任務は品治に連絡し、まず安八磨郡を挙兵させることであった。彼らと品治は無事にその任を果たし、美濃の兵3千が大海人皇子のために不破道を塞いだ。このおかげで大海人皇子は東国の兵力を集めることができた。 美濃に入った大海人皇子は、7月2日に軍をそれぞれ数万の二手に分けて、一軍を伊勢国の大山越えで大和国へ、もう一軍を直接近江国に入らせることを命じた。品治は、紀阿閉麻呂、三輪子首、置始菟と共に大和に向かう軍を率いた。この後で品治は別に命令を受け取り、3千の兵と共に莿萩野(たらの)に駐屯することになった。莿萩野の位置については、伊賀(当時は伊勢国に属す)の北部との説が有力であるが、いずれにせよ大和 - 伊賀 - 伊勢 -美濃と続く連絡線のうち伊賀を守る位置である。これと別に、田中足麻呂が近江と伊賀を結ぶ倉歴道を守る位置についた。 これに対して大友皇子側の将・田辺小隅は、5日に倉歴に夜襲をかけた。守備兵は敗走し、足麻呂は一人逃れた。小隅の軍は翌日莿萩野を襲おうとしたが、多品治はこれを阻止し、精兵をもって追撃した。小隅は一人免れて逃げた。以後大友方の軍勢が来ることはなかった。
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壬申の乱での活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 02:42 UTC 版)
県犬養大伴は、壬申の乱が起こった際、大海人皇子の舎人であった。大海人皇子が挙兵のため吉野から東国に出立したときに、皇子に従った二十数人の男の一人であった。『日本書紀』によれば、6月24日の出発のとき、大海人皇子は馬がなく徒歩で出発した。たまたま途中で県犬養連大伴の馬に遭遇し、それに乗った。妃の鸕野讚良皇女(後の持統天皇)は輿に乗った。津振川で皇子の馬が追いつき、皇子はこれに乗りかえた。津振川は吉野川(紀の川)支流の津風呂川とされる。 現代の歴史学者の間では皇子の挙兵は入念に計画されたものだとする説が有力である。その説では、書紀には大海人皇子がやむなく立ったように書かれているが、それは大海人皇子の行動を正当化するためにした曲筆となる。行き当たりばったりで馬を得たように記されているのも、書紀の潤色になる。加えて、吉野から津風呂川に出るための峠越えでは馬が利用できないために、馬を回り道させたのを、慌しく出立した描写に変えたのではないかと推定する説もある。その後の内戦で県犬養大伴が果たした役割については、書紀に記載がない。
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壬申の乱での活躍
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壬申の乱が勃発した際、矢国は近江の朝廷の軍の将として、山部王、蘇我果安、巨勢比等(巨勢人)が率いた数万の軍の中にあった。この軍は琵琶湖東岸を進んで美濃国の不破にある大海人皇子の本拠を攻撃しようとしたが、7月2日頃に果安と比等が山部王を殺したため、混乱して止まった。このとき、近江の将軍・羽田公矢国とその子大人らは己の族を率いて大海人皇子側に寝返った。斧鉞を授かり、将軍となり、ただちに北越に行くよう命じられた。 矢国は琵琶湖東岸を北進して越国への入り口を押さえてから、西岸を南下したらしい。7月22日、矢国は出雲狛と共に三尾城を攻め、これを降した。この三尾は、現在の滋賀県高島市にある三尾里にあたると推定されている。同じ日に味方の主力軍は瀬田で敵の最後の防衛線を破った。翌23日に大友皇子(弘文天皇)が自殺し、乱は終わった。
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壬申の乱での活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/29 14:28 UTC 版)
男依は舎人として大海人皇子に仕えたと考えられている。壬申の乱で大海人皇子が挙兵を決断したとき、男依は吉野にいた皇子のそばにいた。皇子自身が行動をおこす2日前、6月22日に、村国連男依は和珥部君手、身毛広と三人で美濃に先行するよう命じられた。彼らの任務は、安八磨郡(安八郡)の湯沐令多品治に連絡し、まずこの郡を挙兵させることであった。彼らは無事にその任を果たし、美濃の兵3千が大海人皇子のために不破道を塞いだ。男依は駅馬でとって返し、26日に伊勢国朝明郡の郡司のそばで大海人皇子に成功を報じた。これにより近江大津宮にいた大友皇子は東国との連絡を遮断され、東国の兵力は大海人皇子の手に帰すことになった。 不破関に入って美濃と東国全般を勢力下におさめた大海人皇子は、7月2日に軍をそれぞれ数万の二手にわけ、一方を倭(大和国)に向かわせ、他方を近江に投入した。男依は近江方面の軍の将となった。『日本書紀』は男依をこの軍の主将とは明言せず、総司令官の役目は高市皇子にあったと考える学者もいる。しかし、以後の記述で近江方面の軍をさすときに、書紀は「男依等」と記し、他の将を挙げない。男依を第一と位置づける評価の表れであろう。 近江に入った男依らの軍は、7日に息長の横河で大友皇子方の軍と戦って勝ち、敵将境部薬を斬った。9日に敵将秦友足を鳥籠山で破り、斬った。13日には安河の浜で戦って大勝し、社戸大口と土師千島を捕らえた。17日には、近江国府がある栗太郡の兵を破った。こうして連戦連勝を重ねて、22日に近江京を目前にする瀬田に至った。瀬田橋の対岸には大友皇子が群臣と共に大軍を率いて陣を敷いた。男依らの軍はこの日の激戦に勝ち、対岸の粟津岡を占領した。翌23日に追撃を続けて犬養五十君と谷塩手を粟津市で斬ると、大友皇子は山前で自殺した。
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