壬申の乱での活躍とは? わかりやすく解説

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壬申の乱での活躍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 19:30 UTC 版)

大分恵尺」の記事における「壬申の乱での活躍」の解説

大海人皇子は、6月24日吉野行動起こす際に、倭(大和国)の京の留守司高坂王使者遣わし駅鈴引き渡し求めた。このときの使者に、大分恵尺黄書大伴逢志摩の3人が選ばれた。皇子は「もし鈴を得られなかったら志摩はすぐに還って復奏せよ。恵尺は急いで近江大津京)に行き高市皇子大津皇子連れ出し伊勢で(私と)会え」と命じた。恵尺らは高坂王のもとにいって駅鈴求めた得られなかったため、恵尺は近江向かった事情不明だが、高市皇子大津皇子それぞれ別々の集団作って脱出し高市皇子は翌25日伊賀の積殖山口大海人皇子一行合流した大分恵尺大津皇子同行して伊勢向かいその日深夜鈴鹿関大海人皇子配下制止された。鈴鹿関司は始め一行山部王石川王だと誤認したが、翌日大津皇子判明したこの後の恵尺の活動について記録がない。

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壬申の乱での活躍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 16:45 UTC 版)

置始菟」の記事における「壬申の乱での活躍」の解説

壬申の年672年)の6月下旬挙兵し大海人皇子は、まず美濃国入って東国の兵を集めた。倭(大和国)では6月29日大伴吹負呼応して兵をあげたが、北と西から近江朝廷の軍に脅かされ劣勢だった。大海人皇子7月2日数万の兵を伊勢国経由で倭に向かわせた。その指揮官が、紀阿閉麻呂多品治三輪子首と、置始菟であった行軍中の7月9日紀阿閉麻呂らは及楽山奈良)で大伴吹負敗れたことを知り置始菟騎兵一千をもって急行させた。この部隊4日墨坂現在の奈良県北東部)で敗走する吹負に出会い、金綱井で敗兵収容した『日本書紀』の以上の記述日付明らかに矛盾している。行程からすると9日には増援軍の本隊到着しておかしくないので、9日派遣誤りとする説が有力である。4日到着ならば、2日出発同時出発後すぐに騎兵分派したことになる。 合流後置始菟は吹負の指揮下に入った大伴吹負この後西方から来た壱伎韓国の軍と当麻戦ったが、置始菟参加有無不明である。さらに後、北の犬養五十君の軍との対戦で、置始菟三輪高市麻呂と共に右翼の上にあった。この戦いで大伴吹負率い中軍廬井鯨部隊攻撃苦境陥った置始菟らは箸陵で自隊の正面の敵を撃破してから部隊背後断ち、敵を敗走させた。これより後、近江朝廷の軍が来襲することはなかった。 7月22日大伴吹負を除く別将は北進して山前至り、川の南に駐屯した。これは近江国瀬田近江朝廷の軍が大敗したにあたり翌日大友皇子弘文天皇)が自殺して内戦終わった

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壬申の乱での活躍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 19:30 UTC 版)

大分稚臣」の記事における「壬申の乱での活躍」の解説

大分氏(大分君)は大分国造を歴任した一族で、豊後国大分郡本拠とする豪族である。稚臣は、壬申の乱勃発時に近江大津宮のある大津にいたらしい大海人皇子にとって大津は敵の本拠地だったが、そこには高市皇子大津皇子という二人の息子がいた。そこで二人脱出伊勢国での合流指示するため、6月24日吉野から大分恵尺連絡向かった二人皇子別々に伊勢急行し、稚臣は恵尺と共に大津皇子集団加わった高市皇子25日の昼、大津皇子翌日の朝に父と再会したその後美濃国集結した大海人皇子軍勢は、近江国直行する軍と倭(大和国)への増援に回る軍とに二分された。稚臣は直行する軍に属した村国男依らが指揮するこの軍は、7月7日から連戦連勝して進撃し22日瀬田到達した瀬田川地勢上近江宮を守る最後防衛線であり、大友皇子弘文天皇)自ら群臣従えて出陣した攻防焦点瀬田の橋にあった近江方の先鋒の将智尊中ほどを3丈にわたって切断し、そこに長い板をかけて綱をつけ、敵が渡ると綱を引いて落下させるという仕掛け作って待ち受けた。そのため大海人皇子の兵は進めなかった。稚臣は長矛を捨て、甲(よろい)を重ね着して、刀を抜き仕掛けられた板を踏んで突進した。彼は板についた綱を切り、矢を受けながら敵陣入った近江方の兵士壊走し、壬申の乱勝敗はここに決した

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壬申の乱での活躍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 14:35 UTC 版)

多品治」の記事における「壬申の乱での活躍」の解説

壬申の乱勃発した際、多品治美濃国安八磨郡安八郡)の湯沐令であった皇子生計支えるために設定され一種封戸管理する役職である。 大海人皇子は、自身が行動をおこす2日前の6月22日に、村国男依和珥部君手身毛広は3人で美濃先行するよう命じた彼らの任務は品治に連絡し、まず安八磨郡挙兵させることであった。彼らと品治は無事にその任を果たし美濃の兵3千が大海人皇子のために不破道を塞いだ。このおかげで大海人皇子東国兵力集めることができた。 美濃入った大海人皇子は、7月2日に軍をそれぞれ数万二手分けて一軍伊勢国大山越えで大和国へ、もう一軍直接近江国入らせることを命じた。品治は、紀阿閉麻呂三輪子首置始菟と共に大和に向かう軍を率いたこの後で品治は別に命令受け取り、3千の兵と共に萩野(たらの)に駐屯することになった。莿萩野位置については、伊賀当時伊勢国属す)の北部との説が有力であるが、いずれにせよ大和 - 伊賀 - 伊勢 -美濃と続く連絡線のうち伊賀を守る位置である。これと別に田中足麻呂近江伊賀を結ぶ倉歴道を守る位置についた。 これに対して大友皇子側の将・田辺小隅は、5日に倉歴に夜襲をかけた。守備兵敗走し、足麻呂一人逃れた小隅の軍は翌日萩野襲おうとしたが、多品治はこれを阻止し精兵をもって追撃した小隅一人免れて逃げた以後大友方の軍勢が来ることはなかった。

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壬申の乱での活躍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 02:42 UTC 版)

県犬養大伴」の記事における「壬申の乱での活躍」の解説

県犬養大伴は、壬申の乱起こった際、大海人皇子舎人であった大海人皇子挙兵のため吉野から東国出立したときに、皇子従った二十数人の男の一人であった『日本書紀』によれば6月24日出発のとき、大海人皇子は馬がなく徒歩出発した。たまたま途中で県犬養連大伴の馬に遭遇し、それに乗った。妃の鸕野讚良皇女(後の持統天皇)は輿に乗った。津振川で皇子の馬が追いつき、皇子はこれに乗りかえた。津振川は吉野川紀の川支流津風呂川とされる現代の歴史学者の間では皇子挙兵入念に計画されたものだとする説が有力である。その説では、書紀には大海人皇子やむなく立ったように書かれているが、それは大海人皇子行動正当化するためにした曲筆となる。行き当たりばったりで馬を得たように記されているのも、書紀潤色になる。加えて吉野から津風呂川に出るための峠越えでは馬が利用できないために、馬を回り道させたのを、慌しく出立した描写変えたではないか推定する説もある。その後内戦県犬養大伴果たした役割については、書紀記載がない。

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壬申の乱での活躍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/29 14:30 UTC 版)

羽田矢国」の記事における「壬申の乱での活躍」の解説

壬申の乱勃発した際、矢国は近江朝廷の軍の将として、山部王蘇我果安巨勢比等巨勢人)が率いた数万の軍の中にあった。この軍は琵琶湖東岸進んで美濃国不破にある大海人皇子本拠攻撃しようとしたが、7月2日頃に果安と比等が山部王殺したため、混乱して止まった。このとき、近江将軍羽田公矢国その子大人らは己の族を率いて大海人皇子側に寝返った斧鉞授かり将軍となり、ただちに北越に行くよう命じられた。 矢国は琵琶湖東岸北進して越国への入り口押さえてから、西岸南下したらしい。7月22日、矢国は出雲狛と共に三尾城を攻め、これを降した。この三尾は、現在の滋賀県高島市にある三尾里にあたると推定されている。同じ日に味方主力軍は瀬田で敵の最後防衛線を破った。翌23日大友皇子弘文天皇)が自殺し、乱は終わった

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壬申の乱での活躍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/29 14:28 UTC 版)

村国男依」の記事における「壬申の乱での活躍」の解説

男依は舎人として大海人皇子仕えた考えられている。壬申の乱大海人皇子挙兵決断したとき、男依は吉野にいた皇子のそばにいた。皇子自身が行動をおこす2日前、6月22日に、村国連男依和珥部君手身毛広三人美濃先行するよう命じられた。彼らの任務は、安八磨郡安八郡)の湯沐令多品治連絡し、まずこの郡を挙兵させることであった。彼らは無事にその任を果たし美濃の兵3千が大海人皇子のために不破道を塞いだ。男依は駅馬でとって返し26日伊勢国朝明郡郡司のそばで大海人皇子成功報じた。これにより近江大津宮にいた大友皇子東国との連絡遮断され東国兵力大海人皇子の手帰すことになった不破関入って美濃東国全般勢力下におさめた大海人皇子は、7月2日に軍をそれぞれ数万二手にわけ、一方を倭(大和国)に向かわせ、他方近江投入した。男依は近江方面の軍の将となった『日本書紀』は男依をこの軍の主将とは明言せず、総司令官役目高市皇子にあった考え学者もいる。しかし、以後記述近江方面の軍をさすときに、書紀は「男依等」と記し、他の将を挙げない。男依を第一位置づける評価表れであろう近江入った男依らの軍は、7日息長横河大友皇子方の軍と戦って勝ち、敵将境部薬を斬った。9日敵将秦友足鳥籠山で破り、斬った。13日には安河の浜で戦って大勝し社戸大口土師千島捕らえた17日には、近江国府がある栗太郡の兵を破った。こうして連戦連勝重ねて22日近江京目前にする瀬田至った瀬田橋対岸には大友皇子群臣と共に大軍率いて陣を敷いた。男依らの軍はこの日の激戦に勝ち、対岸粟津岡を占領した。翌23日追撃続けて犬養五十君谷塩手粟津市で斬ると、大友皇子山前自殺した

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