守備兵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 14:37 UTC 版)
「コンスタンティノープルの城壁」の記事における「守備兵」の解説
東ローマ・ビザンツ帝国史を通じて、コンスタンティノープルの守備兵は都市の規模の割に極めて少なかった。常に軍事行動をとれる部隊は、皇帝の近衛部隊と、都市の地区が組織する少数の哨兵(pedatoura/kerketon)しかいなかった。首都が何らかの脅威にさらされた場合はその都度属州から軍を召集せねばならず、その間に敵が迫る恐れもあった。447年の地震や7世紀前半のアヴァール人の襲撃のような非常時には、帝国の将軍はギルドや戦車競走応援団などの組織を通して住民を徴兵、武装させ、属州兵などと合わせて動員することすらあった 帝国の早い時代には近衛部隊として活躍したエクスクビトレス(Excubitores)やスコラエ・パラティナエ(Scholae Palatinae)は、7世紀後半までにはパレードの儀礼部隊に成り下がっていた。ユスティニアノス2世の時代になって改めて宮殿を護る近衛部隊が組織された。8世紀を通じて、帝位を狙うテマの反乱や、不人気な聖像破壊政策への反抗に悩まされ続けた皇帝たちのもとで、皇帝に忠誠を誓うエリート常備軍「タグマ」が成立した。ただタグマは遠征時には軍の中核をなすため、コンスタンティノープル付近に常にいるとは限らなかった。その中でコンスタンティノープルにとどまり続けた数少ない部隊が、ユスティニアノス2世が創設したノウメロイ(Noumeroi)とテイケイオータイ(Teicheiōtai)であった。彼らは宮殿地区を中心に、使われなくなった教会など様々な場所の警備を担った。総じて、ある時点でコンスタンティノープルにいる軍隊の規模というものは極めて少なく、多くとも数千人であった。それを補う形で、トラキアやビテュニアなど首都周辺地域の軍隊が存在していた。 コンスタンティノープルの守備兵が少ないのは、皇帝に対する反乱がおきた場合のリスクが高いことと、兵数が増えれば膨れ上がりかねない維持費などが理由として挙げられる。また実際のところ、コンスタンティノープルは極めて頑強な城壁に囲まれているため、多数の守備兵を置く必要もなかった。そのおかげで、火薬の時代が到来する以前であれば、コンスタンティノープルは圧倒的多数の敵を前にしても安全であり続けたのである。
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