兵数
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師直軍の兵数については、『醍醐地蔵院日記』(『房玄法印記』同年1月1日条)によれば、第一軍の師直軍だけでおよそ一万の兵数があったという。 なお、高師泰の第二軍も編成されていたが、『太平記』では師直とは別行動を取って1月2日に堺に駐留しており、四條畷の戦いには参加していない。史料では師泰が堺に駐留していたことの直接的証拠はない。ただし、少なくとも史料では四條畷の戦い直後の1月8日に師直と別行動を取って古市(羽曳野市に所在)に駐屯し、そこから正行の館を焼き払うなどしている。 楠木軍の兵数については、『太平記』流布本では幕府軍と楠木軍の兵力差は20:1のため、これをそのまま当てはめると楠木軍の戦力は500人となる。新井孝重によれば、鎌倉時代最末期元弘の乱の頃の御家人は、平均20人程度の戦闘員と、馬丁・荷物持ち等2–3人の非戦闘員を連れていたという(ただし大雑把な平均であって、御家人によって数人から100人以上と幅は大きい)。正行軍には最低29人の軍事指揮官(死亡27人、大塚惟正、和田助氏)がいたから、指揮官自身も含めると最低の兵数は29 * (1 + 20 + 2.5)=約682人で、500人とはそれほど外れていない。無論、これはほとんど死亡した指揮官に基づく最低兵数の概算であるため、生き残りも含めた場合の兵数は不明。
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兵数
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兵数に関しては史料によって違いが大きい。そのため、綱文に記載されているのは総数のみである。
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