『太平記』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 10:15 UTC 版)
正中の変から約50年後の1370年ごろに完成した軍記物語『太平記』「無礼講事付玄恵文談事」では、後醍醐天皇が鎌倉幕府の討幕を図るため、身分を越えた密議を行うため、無礼講と称した宴席を行ったと描かれている。参加者は烏帽子や法衣を脱ぎ、献杯においては身分の上下を取り払い、薄着の17-18歳の美女10数人に酌をさせ、山海の珍味と酒を尽くし、歌い舞うというものであったという。 ただし、前節の通り、史実としては基本的に茶会であり、参加者が衣服を乱すというのも上下の秩序を外すという意味合いが強かったと思われ、美女まで同席した酒宴だったかどうかは不明である。 また、『太平記』の無礼講=討幕計画説は2000年代前半まで通説とされていた。しかしこの説は、それ以降、日本史研究者の河内祥輔や呉座勇一らによって疑問が出されている。たとえば、上記の日記を著した花園上皇は、後醍醐天皇の政敵であるが、花園が無礼講を問題にしているのは、風紀上の問題であり、討幕計画について直接触れてはいない。そもそも、政敵側にまで内容が広く知られているほど有名な会合で、陰謀を計画するのは不自然なのではないか、という。
※この「『太平記』」の解説は、「無礼講」の解説の一部です。
「『太平記』」を含む「無礼講」の記事については、「無礼講」の概要を参照ください。
『太平記』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 07:57 UTC 版)
『太平記』では正中の変では、事実、討幕計画を企んでおり、その首謀者の一人だったと描かれている。しかし、2007年以降『太平記』の内容への疑問も提起されている(同項参照)。
※この「『太平記』」の解説は、「日野資朝」の解説の一部です。
「『太平記』」を含む「日野資朝」の記事については、「日野資朝」の概要を参照ください。
『太平記』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 04:52 UTC 版)
『太平記』では、後醍醐の宋学志向に影響を受け、鎌倉幕府討幕のための謀議に加わる。そして、諸国を巡り反幕府勢力を募っていたが、その後に起きたのが正中の変であるという。しかし、史実としては、正中の変が本当に討幕計画だったかどうかは確実ではない。 鎌倉に護送される途中の菊川宿では、承久の乱で似た境遇であった葉室宗行を悼んで哀歌を残している。
※この「『太平記』」の解説は、「日野俊基」の解説の一部です。
「『太平記』」を含む「日野俊基」の記事については、「日野俊基」の概要を参照ください。
『太平記』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 09:44 UTC 版)
軍記物『太平記』(1370年ごろ完成)巻21では、幕府執事の高師直の讒言にあって破滅したと描かれている。師直の讒言の原因については、師直が高貞の美人妻に恋心を抱き、恋文を文人の吉田兼好や家臣の薬師寺公義に代筆させて彼女に送ったが、拒絶され逆上したためである、とされている。この讒言によって、将軍から謀反の疑いをかけられたため、ひそかに京都を出奔し領国の出雲に向かうが、山名時氏・桃井直常らの追討を受けて、妻子らは播磨国蔭山(現在の兵庫県姫路市)で自害した。高貞はなんとか出雲に帰りついたものの、家臣らに妻子の自害した旨を聞き「これ以上生きていても仕方がない。七度生まれ変わっても師直の敵となり、奴に復讐を果たしたい」と述べ、出雲国宍道郷の佐々布山で、馬上で自害したという。劇中では延元4年/暦応2年(1339年)の出来事として描かれて史実とは2年のずれがあり、また日付も京都を出奔した日が3月27日・自害した日が4月1日となっている。 以上の『太平記』の物語を裏付ける同時代史料は現存しない。 史上での高貞と師直の関わりを無理矢理にでも挙げるなら、せいぜい塩冶氏と高氏の家紋がたまたま似た「花輪違」である程度であり、亀田俊和は、案外この偶然の一致が『太平記』の作り話のきっかけになったのではないか、と推測している。 鈴木登美恵は、高貞と南朝との縁故関係や山陰の戦況が、『太平記』では全く触れられず、師直の一方的被害者として描かれていることから、「高貞讒死」説には作者からの脚色が加わっていると述べている。さらに巻23「高土佐守被盗傾城之事」にも、類似の逸話が描かれていることも指摘し、おそらく同種の説話を別の形で潤色して創作し、新田氏に関わる記事に組み込んだのではないか、としている。また、『太平記』は時の権力者への批判を避ける傾向にあるが、高師直の人物像は立派な大人物として描かれる部分と、無教養で非道な人物として描かれる部分があって一貫していない。この事から、鈴木は、師直が悪漢として描かれる巻21の高貞との因縁伝説、および巻26以降の諸説話は、師直が没落した正平6年/観応2年(1351年)以降に書かれたのではないか(逆に言えば、これより前の巻は1351年以前に書かれたのではないか)、と、『太平記』の成立年代を推し量るための研究材料としている。
※この「『太平記』」の解説は、「塩冶高貞」の解説の一部です。
「『太平記』」を含む「塩冶高貞」の記事については、「塩冶高貞」の概要を参照ください。
『太平記』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/16 01:56 UTC 版)
民部卿三位は、軍記物語『太平記』(1370年ごろ完成)の流布本では、巻6「民部卿三位局御夢想の事」に登場する。歴史上での複雑な恋愛遍歴は全く言及されず、後醍醐天皇の特にお気に入りの寵姫として現れ、後醍醐に一途な妻でまた慈愛に溢れた母として登場する。 鎌倉幕府との戦い元弘の乱(1331年 - 1333年)で、初戦である笠置山の戦いで敗北した後醍醐天皇は隠岐島に流され、護良親王も行方不明になってしまった。美貌の容色が衰えるほどに嘆いた民部卿三位は、夫と息子の無事を祈るため、北野天満宮へ7日間の参籠を決めた。そして、天神への歌として「忘れずば 神もあはれと 思ひ知れ こゝろづくしの いにしへの旅」と詠んだ。すると、夢の中に梅の枝を持った老人(天神菅原道真)が現れて、返歌として「めぐり来て つひにすむべき 月かげの しばしくもるを 何なげくらん」と書きつけてある枝を民部卿三位に渡した。夢から起きた民部卿三位は、夫の後醍醐がいずれ隠岐から帰還して再び天下を統治する奇瑞だと喜んだという。 再び民部卿三位の名前が現れるのは、流布本巻26「執事兄弟奢侈の事」である。京都一条今出川(上京区今出川町)には、かつて護良の母の民部卿三位が住んでいた邸宅があったが、南北朝時代初期には荒れ果てていた。ところが、室町幕府執事高師直は、四條畷の戦い(正平3年/貞和4年(1348年))で南朝の武将楠木正行に勝利して吉野行宮を攻略すると、驕り高ぶるようになった。そして、今出川の民部卿三位の旧邸宅を強制的に占拠して、武士の分を越えるほどの豪勢な邸宅を構えた、と描かれる。
※この「『太平記』」の解説は、「民部卿三位」の解説の一部です。
「『太平記』」を含む「民部卿三位」の記事については、「民部卿三位」の概要を参照ください。
『太平記』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/12 07:13 UTC 版)
『太平記』巻第八「(元弘3年(1333年))四月三日合戦の事」に六波羅探題側の武将として活躍する「島津安芸前司」は、「北国無双の馬上の達者」という記述から北陸地方に土着した越前島津一族と思われ、年代や官名から考えて忠信である可能性が強いとされる(杉本、上掲)。なお、この戦で島津安芸前司は、後醍醐天皇に呼応して参戦した備中国の頓宮又次郎入道・孫三郎父子、田中藤九郎盛兼・弥九郎盛泰兄弟という屈強の武者を相手に子息2人を従えて見事な戦いを演じ、「西国名誉の打物の上手と、北国無双の馬上の達者と、追つ返つ懸違へ、人交もせず戦ひける。前代未聞の見物也」と評されている。
※この「『太平記』」の解説は、「島津忠信」の解説の一部です。
「『太平記』」を含む「島津忠信」の記事については、「島津忠信」の概要を参照ください。
『太平記』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/08 22:12 UTC 版)
軍記物『太平記』(流布本)巻26「正行吉野へ参る事」では、楠木正行(正成の嫡子、小楠公)の部下として「楠将監」という人物が登場。おそらく、劇中では正平3年/貞和4年(1348年)1月5日の四條畷の戦いで正行と共に戦死したと考えられる。ただし、『太平記』の写本の系統によって違い、毛利本では「石楠将監西阿」、『参考太平記』では「楠将監西河」という人物になっていて、天正本では登場しない。
※この「『太平記』」の解説は、「楠木正家」の解説の一部です。
「『太平記』」を含む「楠木正家」の記事については、「楠木正家」の概要を参照ください。
『太平記』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 15:14 UTC 版)
軍記物語『太平記』では、比叡山に逃れていた恒良は後醍醐天皇から皇位と三種の神器を譲られたと物語られている。しかし、三種の神器の譲渡と、皇位の受禅を直接語る文献は『太平記』しか存在しない。より確度の高い『神皇正統記』や『建武三年以来記』でも、受禅については触れられていない。歴史上としては、『白河証古文書』により、恒良が自身を新帝と認識し、綸旨の形式の文書を発給していた、というところまでしかわからない。
※この「『太平記』」の解説は、「恒良親王」の解説の一部です。
「『太平記』」を含む「恒良親王」の記事については、「恒良親王」の概要を参照ください。
『太平記』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/16 05:55 UTC 版)
軍記物『太平記』の物語は、この戦いを以下のように劇的に描いている。 義貞は燈明寺で負傷者の状況を見回っていたが、藤島城を攻める自軍が劣勢と聞き、50騎を率いて督戦に向かった。ところが、黒丸城から出撃してきた細川出羽守、鹿草公相(彦太郎)らが率いる斯波軍300騎と遭遇し、徒立ち(徒歩)の弓兵を多く連れていた細川・鹿草の軍勢から矢の乱射を受けた。 楯も持たず、矢を番える射手も一人もいなかった義貞達は、細川・鹿草軍の格好の的となってしまった。この時、中野宗昌が退却するよう義貞に誓願したが、義貞は「部下を見殺しにして自分一人生き残るのは不本意」と言って宗昌の願いを聞き入れなかったという。矢の乱射を浴びて義貞は落馬し、起き上がったところに眉間に矢が命中する。致命傷を負った義貞は観念し、頚を太刀で掻き切って自害して果てた、という。
※この「『太平記』」の解説は、「藤島の戦い」の解説の一部です。
「『太平記』」を含む「藤島の戦い」の記事については、「藤島の戦い」の概要を参照ください。
『太平記』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/29 05:32 UTC 版)
『太平記』では、後醍醐天皇は即位初期から鎌倉幕府を打倒して朝権を回復せんとの意志があり、日野資朝・俊基が催した討幕の密議(無礼講)には師賢もその同志として参加した、と描かれている。しかし、師賢が無礼講や正中の変に加わっていたことを示す実証的証拠はない。2007年には河内祥輔によって正中の変が討幕計画だったとする説そのものに疑問が提起された。詳細は正中の変。
※この「『太平記』」の解説は、「花山院師賢」の解説の一部です。
「『太平記』」を含む「花山院師賢」の記事については、「花山院師賢」の概要を参照ください。
『太平記』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/19 23:50 UTC 版)
軍記物『太平記』での初登場は、巻3「赤坂城軍の事」(流布本)で、楠木正成の挙兵に当初より従い、元弘元年(1331年)9月11月ごろより始まった赤坂城の戦いに参戦。正成の弟楠木正季と共に300余騎を従えて城の側の山にひそみ、時期を見計らって正季と共に遊撃兵を二手に分け、赤坂城に引きつけられた敵を、側面から奇襲して蹴散らすという武功をあげる。 その後、楠木正成が元弘の乱に勝ち鎌倉幕府が崩壊すると、後醍醐天皇が建武の新政を開始するが、天皇と足利尊氏との対立から延元の乱が発生してしまう。 そして、戦局は二転三転したが、後醍醐天皇側不利の状況で開戦した建武3年/延元元年5月25日(1336年7月4日)の湊川の戦いで、正成は700余騎が73騎になるまで奮戦したが、ついに覚悟を決めて弟の正季や腹心の武将たちと共に自害した(流布本巻16「正成兄弟の討死の事」)。正成と共に殉死した武将の中に「和田五郎正隆(わだごろうまさたか)」という名前があり、徳川光圀『大日本史』はこれを正遠と同人物であるとしている。
※この「『太平記』」の解説は、「橘正遠」の解説の一部です。
「『太平記』」を含む「橘正遠」の記事については、「橘正遠」の概要を参照ください。
- 『太平記』のページへのリンク