同時代史料とは? わかりやすく解説

同時代史料

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 09:48 UTC 版)

徳一」の記事における「同時代史料」の解説

徳一についての確実な史料は、最澄空海著作残され記録である。 徳一最澄論争をしていた弘仁8年817年)頃から同12年821年)頃に書かれ最澄著作には、「陸奥仏性抄」(『照権実鏡』)、「奥州会津県の溢和上」「奥州の義鏡」(『守護国界章』)、「奥州の北轅者」(『決権実論』)などの記述があり、この頃には陸奥国にいたことがわかる。また『守護国界章』に「麁食者(徳一のこと)、弱冠にして都を去り久しく一隅居す」という記述があり、この「都」は平城京であると考えられることから、遅くとも長岡京への遷都783年以前20歳であったことが推測される徳一書いた思われる万葉仮名が『守護国界章』に引用されているが、それには平安時代初期中央使われていた上代特殊仮名遣いがよく保存されていることから、中央教育受けた思われるまた、守護国界章』に「年を経て宝積(=『大宝積経』)を講ずる」とあるので、そのような活動をしていたのかもしれない空海弘仁6年815年)頃、弟子康守を東国遣わして徳一・広智に経典書写依頼した際、「陸州徳一菩薩」宛の書簡高野雑筆集上所収)に「聞くならく徳一菩薩は戒珠氷珠の如く、智海泓澄たり、斗藪し京を離れ、錫を振って東に往く…」と書いており、この頃には陸奥国にいたことがわかる。

※この「同時代史料」の解説は、「徳一」の解説の一部です。
「同時代史料」を含む「徳一」の記事については、「徳一」の概要を参照ください。


同時代史料

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/04 07:22 UTC 版)

法仁入道親王」の記事における「同時代史料」の解説

法守入道親王による和歌(『新千載和歌集哀傷・2269)の詞書に「法仁法親王かくれ侍て後(略)」とあり、法仁という男性皇族実在したことが確認できる

※この「同時代史料」の解説は、「法仁入道親王」の解説の一部です。
「同時代史料」を含む「法仁入道親王」の記事については、「法仁入道親王」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「同時代史料」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「同時代史料」の関連用語

同時代史料のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



同時代史料のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの徳一 (改訂履歴)、法仁入道親王 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS